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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年03月18日
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西鶴の文芸 白倉一由氏著 北杜市高根町出身

 

白倉一由(しらくらかずよし)

 

1932年(昭和7年)8月 山梨県北巨摩郡高根町に生まれる。

早稲田大学卒。同大学院修士課程修了。

山梨英和短期大学教授。山梨大学講師。

新典社叢書12

 

主要論文

「仮名草子女訓物について」近世文芸第十号)。

「西蝕文芸の方法」(日本文芸第三号)。

「『世間胸算用』論」(日本文芸論集第四号)。

「『諸艶大鑑』の世界」(山梨英和短大創立十五周年記念国文学論集)。

「『好色一代女』の主題」(山梨英和短大紀要第十六号)等。

 

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

はしがき

 

西鶴は日本が生んだ偉大な作家である。日本文芸を語る時西鶴を無視して語ることはできない。すぐれた作家や作品は時代の変遷にもかかわらず常に現代とのかかわりあいの中に生きるものであり、日本の古典についてみると、『源氏物語』と西鶴の作品がまず第二にあげられると思う。西顧の近代文芸に落した影は大きなものであり、明治・大正・昭和の多くの作家が創作するに当って西鶴の創作方法や散文精神を学びとっている。

 日本文芸の解明には基本的におさえておかなければならない幾人かの作家がある。西鶴はその中の一人である。日本文芸を理解しようとする者は四顧の作品を読むべきであると思う。

 現在の西顧研究の実情は網分化され、多面的になり、精密なものになっているが、文芸の研究の究極的の目標は作品の中に形象化された真実表現の芸術美の世界でなければならない。従って西鶴文芸の研究は西鶴が現実主義的な生解釈によってとらえた人間の真実の把握でなければならない。

 西顧の文芸は咄の方法から更に町人共同体の文芸だとか、西鶴工房があり、全作品が西鶴のものではないなどの説があるが、私は西鶴という一人の人間をはなれて西鶴文芸が成立できるものではなく、一つの人格の発想・展開の軌跡が西鶴文芸であることは崩れないとみている。西鶴の文芸は西鶴の現実社会における問題意識によって形成され、

それは常に進展している。従ってその具象化である作品は一つの流れをなしている。『諸艶大鑑』を書くことによって遊里の限界を知り、『好色五人女』を書き、『好色五人女』を書くことにより、又新しいテーマを発見し、『好色一代女』へと書き続ける。これは町人物についても同じである。『日本永代蔵』を書くことにより、商業資本主義社会の実態を知るにつけ倫理的な『本朝町人鑑』を書き、このテーマに破綻し、更に『世の人心』へと進む。『世間胸算用』は『日本永代蔵』を書いた作家にして書き得る作品であり、『西鶴置土産』は最終的な人間観照と終末的な読者への語りかけが表示されている。私は作品の意図一主題・構成などの作品中心の研究を行っているが、その追求は、結局西鶴の文芸の流動性の把握でもあった。西鶴作品の本質性を究明しつつ巨視的にその全体的な流れを把握することのできるようにとの配慮のもとにこの書を作った。この書は西鶴文芸を学ぶ人のテキスト、西鶴文芸入門の書である。

 私は短期大学・大学での講義、更に教育センター・教育委員会・高等学校国語研究会などの講座、講演で西鶴を語り続けてきた。西鶴は研究すればする程深さと面白さを与えてくれる。……と同時に人間を鋭く裁断する恐ろしさがある。

 私は初めから西鶴に引かれたのではない。明治文学を研究しているうちにいつしか西鶴に結びついていったのである。西鶴と近代文芸……西鶴文芸とその系譜の研究を生涯の仕事にしたいと思っている。西鶴には文芸に志ざす者にとって尽きない泉のようなものがある。近代、現代の作家が引かれるのもそのためであると思う。

 多くの人に西鶴を読むことを勧めたいと思っている。この書を読むことによって文芸観が向上し、人間の理解と自己の生き方の参考になれば幸甚と思って増補改訂出版した。

 本書は新典社の松本輝茂氏の好意により刊行することができた。その高配に感謝する。

         

昭和五十八年十一月三日

 

好色一代男

けした所が恋のはじまり(巻一 七歳)

 

桜もちるに嘆き、月はかぎりありて入佐山、ここに但馬の国かねほる里の辺に、浮世の事を外になして、色道ふたつに寝ても覚めても夢介と替名よばれて、名古や三左・加賀の八などと、七つ紋の菱にくみして身は酒にひたし、一条通夜更けて戻り橋、ある時は若衆出立、姿をかへて墨染の長袖、又は立髪かづら、化物が通るとは誠にこれぞかし。それも彦七が顔して、願はくは噛殺されてもと通へば、なほ見捨て難くて、その頃名高き中にも、かづらき・かをる・三タ、思ひくに身請して、嵯峨に引込み、あるしは東山の片陰、又は藤の森、ひそかに住みなして、契りかさなりて、このうちの腹より生れて世之介と名によぶ。あらはに書きしるすまでもなし。知る人は知るぞかし。

 

 ふたりの寵愛、てうちてうち、髪振のあたまも定まり、四つの年の霜月は髪置、はかま着の春も過ぎて、疱瘡の神いのれば跡なく、六の年へて、明くれば七歳の夏の夜の寝覚の枕をのけ、かけがねの響、あくびの音のみ。おつぎの間に宿直せし女さし心得て、手燭ともして逼なる廊下を轟かし、ひがし北の家陰に南天の下葉しげりて、敷松葉に御しともれ行きて、お手水のぬれ縁ひしぎ竹のあらけなきに、かな釘のかしらも御こころもとなく、ひかりなほ見せまゐらすれば、「その火けして近くへ」と仰せられける。「御あしもと大事がりてかく奉るを、いかにして闇がりなしては」と、御言葉をかへし申せば、うちうなづかせ給ひ、「恋は闇といふ事をしらずや」と仰せられける程に、御まもりわきざし持ちたる女、自乙ふき脚けて御のぞみになしたてまつれば、左のふり袖を引きたまひて、「乳母はゐぬか」と仰せらるるこそをかし。これをたとへて、天の浮橋のもと、まだ本の事もさだまらずして、はや御こころざしは通ひ侍ると、つつまず奥様に申して、御よろこびのはじめなるべし。

 次第に事つのり、日を追って、仮にも姿絵のをかしきをあつっめ、「おほくは文車もみぐるしう、この菊の間へは我よばざる者まゐるな」などと、かたく関すゑらるるこそこころにくし。ある時はをり居をあそばし、「比翼の烏の形はこれぞ」と給はりける。花つくりて梢にとりつけ、「連理はこれ、我にとらする」と、よろづにっけてこの事をのみ忘れず。ふどしも人を頼まず、帯も手づから前にむすびて後にまはし、身に兵部卿、袖に焼きかけ、いたづらなるよせい、おとなもはづかしく、女のこころを動かさせ、同じ友どちとまじはる事も、烏賊のぼせし空をも見ず、「実に懸はしとは、むかし天へも流星人(よばいど)ありや。一年に一夜の星、雨ふりてあはぬ時のこころは」と、遠き所までを悲しみ、こころと恋に責められ、五十四歳までたはぶれし女三千七百四十二人、少人のもてあそび七百二十五人、手日記にしる。井筒によりてうなゐごより已来(このかた)、腎水(じんすい)をかえほして、さても命はある物か。

 






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最終更新日  2021年03月18日 06時09分04秒
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