間違っているこどもの指導
小学生スポーツ指導のありかた
序章 白州七星バレーボールクラブ 清水三郎
最近の小学生スポーツをみるにつけて、これでいいのかといつも思う。それは子供も指導者も預ける父兄や取り巻く地域もその目的を見失っている感が強い。
元来、子供のスポーツは年代にあった基礎体力をつけ、健全な精神育成にある。こうしたことは種目に係らないことであり、種目特性偏重の体力の付け方は子供の成長にとって大きなマイナスとなる。
また小学生のスポーツ指導は指導者の理念が大きく影響することは誰でも理解できることである。私も現役指導のころよく体罰=暴力で子供自由に扱う指導方法を用いたことがある。それはその子供本位のことではなく、チームがみじめな負け方や、指導が思うように浸透していない腹立たしさから手を出したこともあった。
周囲を見ても実業団・高校・中学の指導者の中にはボールだしよりピンタのほうが多いような指導者もいた。親もなにか言うとレギュラーを外されるので、わが子がみじめに叩かれていても見て見ない振りをする。こうした誤った指導はその目的と目標が高いほど生まれやすいと考えられる。
また組織も「暴力絶対反対」などを組織で訴え、犯したものは永久追放など措置をとっている組織もある。こうした行為は何の解決策にもならない。全国大会などなければ暴力は必然的に少なくなる。目標が小さいほど過激な練習も無くなる。
現在でも偶に試合など見るが、強いチームはあっても、優れた人間づくりに精を出しているチームや組織は少ない。また組織も組織の為の組織や役員の為の組織があまりにも多くうんざりする。子供が主役であるという基本的な考え方が欠けている感が強い。今後は私の体験や反省を踏まえて様々な指導を論じてみたい。
私が小学生バレーボール指導に携わったのは、昭和40年代の後半、折しも地域は中学生による異性不純交友が大問題になり、地域の子供たちも世間の目にさらされている時期だった。私がバレーボールを始めたのは中学2年生の時、バスケット顧問が他校に移り、バスケット部が廃部となり、途方に暮れていたとき人生の師匠でもある上原喜隆先生の誘いで急きょ男子バレー部が発足した。上原先生は朝鮮師範学校でバレーボールをはじめ、九人制中衛として活躍、神宮大会で活躍校内でも級長を務めた逸材で、赴任先の鳳来中学校で男子バレーボールをはじめて山梨県優勝を成し遂げた。勝利の帰還はオート三輪で凱旋パレードをしたとのこと。上原先生とのことは別稿に譲り、高校生の時も顧問はいたが練習や実践組み立ても生徒が中心で実施した。やがて高校を卒業、家業の製材業を父親のもとで修行のかたわら、卒業した母校の男子バレーボール指導にいった。これが私のバレー指導の始まりである。
私は全日本小学生バレーボール大会には女子男子で数回参加しているが、二度とも監督・コーチを6年生で臨んだことがある。これは私の目指す子供の能力開発の一環で、選手としてだけでなく、限りなく子供の能力を信頼し育成することが私の指導理念であったので、ありとあらゆる場面で子供の活躍の場をつくった。
老人ホームの慰問は劇団七星一座を結成し、冬期間練習した。これは自分の言葉や声をどう人に役立てるかというバレーボールの基本練習にもなった。私のバレーボールは破天荒であった。きっと当時の子供は迷ったと思う。私の練習方法は普通の練習とは全く異にしていた。しかし強かったマナーも抜群であった。私が真面目であれば「グッドマナー賞」も貰えたが、私の為に子供には迷惑かけたと思う。