カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
【広報白州】花水坂
旧日野春村日野(現長坂町日野)より清春村片嵐(現白州町花氷)地内大堂の観音下に出て、台ケ原に至る数十町の坂路を花水坂という。昔は今の須玉町若神子から長坂町渋沢、台ケ原への道で、これが信州往還であった。 織田軍記に「天正壬午三月二日、信長大河原(台ケ原)に御宿陣(中略)三日大河原を立ち五町許り出づれば、富士山よく見ゆ、御見物になり各自、目を驚かす、それより新府へ入らせらる」とあるが、台ケ原から花水坂にかかり、新府(韮崎市)へ入ったのであると、甲斐国志にある。 又花水坂は要客地で天文年間、諏訪小笠原の徒、甲州に攻入った時、しばしば戦をいどみたる古戦場であった。某家の記録に天文七年小笠原諏訪、当国に押いる。甲府忍びの者、山崎、渋沢、日野の台まで来るに逢い共に甲府に注進する。 明年六月、諏訪頼重相原を導ぬるに、釜無川、尾白川、大深沢川、三川合流の地、即ち大堂の観音の山脚及びその対岸、釜無川断崖【往古台ケ原字花水の地に寺あり、河を隔てて建てる。観音堂は其の所管に属したるもその寺廃れ、文明六年清泰寺洞宗に改むる頃、その所管となると言う。又清泰寺は花水の地にあり、大永三年五月今の地に移転せりと或は言う。此の地にありし寺を知見寺と言い、清泰寺の前身なりと】、に山桜の大樹数十株あり川をはさみて咲き乱れ水に映したるにより其の名あり。 本県より富士山を望むに、到る所其の景色美ならざる、はなしであるが、花水坂、御坂峠、万沢村、西行坂を富士見三景と雅せられて其の風光特に壮麗である。 島丸広郷(或は織田信長と共にきたりたる近衛龍山郷とも言う)は、 立ちおほふ霞にあまる富士の嶺に おもひをかはす山桜かな と此の花水坂で詠ぜられたと伝えられる。昔は河を狭んで咲き乱れた花の氷に映じたるさへあるに、白砂山には古松うつ然と茂り、其の中の老幹一樹群を抜きて立てるもの周囲三丈余り、けい蓋五、六十坪に及ぶという背景を有し、南方を望めば、ぎ然として雲表にそぴえ、七里岩の奇巌断壁は左より半円形に立ちふきがり西山の翠岱右より曳下し来る。 釜無川は、白石青松の間を奔流して甲府盆地の霞に消え行く様、げにや山色水態、花の影、霞の匂い、おもいをかはすに遑なき眺望であったで あらう。 現在は桜樹枯れて、一株もなく、花水の地名を存するのみで、山色水態は依然として昔に変ることなし。
世に出したい大石塔(現在は整理されている)
国道二十号線、白州町の入口の右に名勝花水坂が見える。左側の台ケ原台地横山旧甲州街道の丘の上に、一基の大石塔が聳えている。方六尺高さ二十一尺、碑面には一宇も刻んでない。伝えによると、明治十四年十月日運上人の六百年忌記念のため、白須蓮照寺、日野見法寺の檀信徒を中心とした一般の人々の協力を得て、二キロメートル程上流の中山の通称『狐ん沢』から人力で運んで来たと言う。古人の信仰に対する執念の深さが偲ばれる。 しかし数年の計画も殆んど力尽き丘の上に素立ちにしたのみで終った。 天下泰平国家安全五穀豊穣を祈念する。身延山七十世日祥上人、揮毫の大題目の原本は現在、白須蓮照寺に残されている。(運照寺住職 草間円光氏) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年03月25日 17時50分48秒
コメント(0) | コメントを書く
[白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室] カテゴリの最新記事
|
|