カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
白州松原(しらすまつばら)【広報白州】
白州松原は、旧菅原村前沢より旧鳳来村松原に亘る釜無川右岸一帯の地をいう。北巨摩郡勢によると 「松樹稲麻の如く茂って直幹雲を払い、白砂清麗、恰も海浜の如く、青苔滑かにして錦の褥(しとね)を布たるに似たり、実に景勝の地である」 とある。 古へ六本松といわれた一株六幹の奇松、一つ松と称された古木も今はその影はない。 南北朝の時征東大将軍宗良親王が遠州、井伊谷より信濃の保利氏宅に行く途中、山伏の姿に変粧し此の松原でやすんだという。 この時宗良親王は次の歌をよんでいる。 甲斐国しらすとい所の 松のかげにしばし やすらいて かりそめの行かちとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし 又、此の地は品質の優秀な松茸の産地でもあった。明治天皇御巡幸の砌、侍従職の富小路政直、同毛利某を御差遣、松茸を採収されたという。富小路氏の詠に この秋の御幸をまつの下かげに 御代を歌ふてとる茸かな ゆけどゆけどかぎり しらすの松林 秋のかおりの ただならぬかな 右のように風致佳麗で古松こずえを並べた地であったが、太平洋戦争中伐採されて今は小松林や果樹園となっており、所々に工場が散見される。
素堂翁の碑の除幕式 【広報白州】 山口 各取 正三氏
長い間の念願であった素堂翁の碑は遂に建てられた、十一月二十日朝八時、おめでとう、おめでとうの声が迎えてくれる。左から右から同志が手を握る、皆暖かい手だ、素堂翁の心の通い合う手である、いよいよ除幕式である、翁の子孫である山口素造氏の手によって幕は落された、よくぞ子孫を名乗り出て下さったと救はれた思いである。すがすがしい緊張のひ とときである。 澄んだ大気を透して素堂翁の高い碑に朝の陽がさんさんと降り注いでいる。うながされて私は祝詞に立たされていた。わなわなと足が震える痛い程胸が締られる。この時私の順に一つの歌が生れていた、 古里の土に帰りて今し立つ 素堂の句碑に朝日かがよう 歌を詠み終って祝詞は終った。 御影石で積まれた台の上に高く碑石が立っている。碑面には簡潔に「目には青葉」の名句と生地等が彫り深い宇で刻まれている。 かかる碑に姿を変えた翁は再び郷土のため世のため人人それぞれの心に何かを訴えることでしょう。 今にして漸く山頂を極め重いリックを下ろした時の気分にも似た思いで胸をなで下ろしていた。
山口番所跡 【広報白州】 上教来石に属し、旧信州往還の枝村で、教来石宿の枝村であった。甲信の境に近く、史料によると当時二宮、名取の番人がそれぞれ二人の扶持を賜り村役下番を使用して取り締ったという。 朱印状、ヤリ、銃砲、袖からみサスマタ等を最近まで蔵していた。
明治天皇 田植聖覧の地【広報白州】
明治十三年六月二十三日、明治天皇御巡幸のとき、上、下教来石の中間の附近にて、しばし東下方の田圃にて早乙女の田植え風景を、ご覧になったという。
町の史跡名勝を探る 馬場美濃守信房の居趾【広報白州】 馬場美濃守信房(信春とも云い少年時代は教来石民部景政と云った)御存知の武田二十四将の一人であり、「武田の四臣」に数えられた人である。 その馬場氏の住居が、島原地内と白須地内にあったと云う。 島原附近には、いまでも陳場、裏門等の名称が残っており、白須の方は、若宮八幡神社の南方で、東西に、おおよそ二町、南北にも二町にわたる宏野(今は全部田畑になっている)である。史料によると、四周に濠があり邸内に一条の濠を通した跡があって、庭園の跡とおぼしきあたりに梨の老木があったので、其の地字を梨木と呼んだ。 古色蒼然たる石祠の屋根石が梨の木のあったという薮蔭にある。その南方に一条の低地があってそこより高橋の清水と称する冷泉が湧出して自然の渓をなしていたので、其の渓の南方一帯の地を、大庭と呼んだ。 この居跡の南の白須殿町より竹宇に通ずる道に沿った地に門の礎石があったという。又居跡の北方丘陸の上に姫塚と称する塚があり これを信房の墓だといわれたが確証はつかんでいない。 馬場美濃守信房は、天正三年五月二十一日、長篠の合戦で勝頼に戦況の不利から一時退却を進言するもいれられず、むらがる敵の中に躍り入り縦横無尽に奮戦し、本隊が安全圏へ脱出したのを見屈けて、敵中におどり込み討ち死した。
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最終更新日
2021年03月26日 16時15分13秒
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