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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月06日
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カテゴリ:山口素堂資料室
 誤伝山口素堂の背景 
 
  一、素堂研究のきっかけ
 素堂の名がはじめて世の中に表れたのは素堂が二十七歳の時に刊行された伊勢に住む加友撰の『伊勢踊』である。
 県内で素堂の生涯について最初に触れたのは山梨県歴史書のバイブルである『甲斐国志』が初見である。その編纂は大変な労苦を伴うものであった事は、素堂の調査を開始してはじめて理解できた。
しかし最近『甲斐国志』の記述で疑問視される箇所が研究書などに紹介されているが、素堂の記載については現在もそのまま信じられていて、諸書の研究や紹介には『甲斐国志』(以下『国志』)の内容はそのままに引用されて、更に史実でない著者の私見を加えて誤伝の部分が拡大しているのが現状である。『国志』は不詳な部分は後世の研究に委ねている。 
『国志』によると素堂は私の住む白州町の上教来石集落(当時は教来石村)の字山口に生まれ、幼少の頃家族とともに甲府魚町に出る。元来家は富裕で時の人は「山口殿」と挙げ奉る家柄であったという。二十歳の頃に江戸に出て幕府儒官林家の門に学び、諸侯に講義する俊才であった。西山宗因や松尾芭蕉を友として林春斎と並ぶ儒官人見竹洞とも交友を結び、元禄八年には父母の墓参りの為に帰郷して、かつて僚属として仕えた甲府代官桜井孫兵衛に再会し、当時下流地域を水害で悩ましていた濁川の改浚工事の手伝いを依頼された。素堂は父母の国であり、住民の難苦を救うために快くこの件を承諾し、一旦江戸に戻り翌年に桜井孫兵衛の手代として武士に戻り、工事の陣頭指揮をして桜井孫兵衛を助けて工事を完成する。後江戸に戻り松尾芭蕉と共に俳諧活動を再開して正風を確立した。
これが私たちの知る山口素堂伝でこれは『国志』の説である。私が山口素堂の研究を始めたきっかけは単純で、「目には青葉山ほとゝぎす初鰹」の一句は全国でも知らない人がない程有名なので、素堂を町の文化や観光興しに利用しそのためには彼の足跡を正しく理解することが大切と考えたのが始まりである。 
  二、山梨県の調査から
山口素堂が生まれたとされる北杜市白州町山口(「白州町誌」より)
 
さて調査の手はじめに『白州町誌』・『甲斐国志』・『北巨摩郡誌』等を読む。町内の石碑や痕跡を改めて調査するが新しいものばかりで残存する資料も少なく途方に暮れる。
県内の刊行書の内容は大同小異で時代経過とともに素堂家は甲府中魚町の酒造業を営む家であり、教来石の家は郷士であったとの説が追加されている文学研究書に出会う。中には素堂は甲府市魚町で生まれたのと指摘する本もある。
素堂家の墓が在ると云う甲府尊躰寺に行き調査を始める。門外漢の私には文字や配列に理解出来ない点が多く何度となく訪れる。素堂の母の墓石や素堂を模した地蔵が新しい時代のものと感じられたし、親族以外に墓を訪れた跡が無い事も一抹の淋しさを感じた。
私は甲斐が生んだ全国に誇れる文人素堂の墓前には線香の煙が絶えないものと信じていたのに現実は紙上だけの賛美であったのである。墓所には埼玉の俳人山口誓子が手向けた卒塔婆が傾いて立てかけてあったのも印象的であった。  
山梨県文学の歴史上、山口素堂は最上位に位置する人物である。諸本の中では無く人々の心の中に生きる素堂の希薄さが私には信じられなかった。『国志』を再度読むがどう読んでも素堂が教来石村の生まれとは書してはいない。「祖先は甲斐国巨摩郡教来石村字山口の生まれ」としか読み取れないのである。素堂に関する諸本を読むと「素堂は甲府魚町の生まれ」「江戸の生まれ」などの諸説が入り混じっている事が分かってくる。
しかし山梨県の素堂に関する歴史書は「濁川工事責任者」として扱い、その内容は『国志』の丸事引用で実際に再調査した形跡は見られずに、その後甲府文庫の生みの親功刀龜内氏の『甲州俳人伝』素堂の項と著名な素堂研究者の荻野清氏の論文が大きく作用して、以後の素堂伝として現在まで伝わって既に定説化しているのである。
以来、歴史調査の難しさに直面するが素堂事蹟の真実を求めて『国志』以下の定説を捨て白紙の状態で素堂の生涯を追い求めることを素堂の墓前で誓い調査活動を再開した。
  三、諸書を読み直して見たら(『甲斐国志』)
山口信章素堂は、寛永十九年一月四日の生まれ(『連俳睦百韻』による。『甲斐国志』は五月五日とする。)長じてからの通称を太良兵衛、後に松兵衛、信章は本名であるか雅号なのか不明。『国志』には素堂が官兵衛・市右衛門を名乗ったとあるが、数ある資料にも全く見えない名前である。幼名については「重助」と(国志は「重五郎」)も言ったと云う記述もある。
『国志』(素堂没後百年余してから刊行された)に依れば、
素堂は其の先は州(甲斐国)の教来石村山口に家す。これによって氏名とする。後に府中(甲府)の魚町に居を移す。家は頗る富んで、当時の人は山口殿と称す。信章は寛永十九壬午五月五日に生れた。故に重五郎を童名とする。長じて市右衛門と改める。つまり家名である。
と記す。後に「官兵衛」を称したと云うのである。
 冒頭で生国について紹介しなかったは、素堂の「甲山紀行」(元禄八年・一六九五)で「亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」とあり、自分は甲斐の生まれでは無いかのような記述をしているからである。また府中で「舅野田氏を主とす」ともある。
『国志』では代官触頭桜井氏に対して「父母の国なれば」と手伝い要請を受けたと記している。これは『甲山記行』には記載が見えない。野田氏については詳らかでは無いが、町奉行か代官を務めた人であると思われる。
また祇空門の夏目成美は『随斎諧話』(文政二年刊行・一八一九)に「素堂は甲斐国の産なり。酒折の宮の神人(飯田氏)真蹟を多く伝へり」と記し、同年代の『俳家奇人談』(玄々一編文化十三年刊行・一八一六)では「江戸の人」と紹介している。 
ところが教来石村について素堂の親友芭蕉や、直弟子と称する馬光(素丸)は旅の途時に、この地を経ているのに素堂の故地とは伝えていない。
寛政・文化頃の教来石宿の俳人塚原甫秋や、その子幾秋等は芭蕉には熱心ではあるが、同じ村の出身とされる素堂には触れないし、山口にも懐旧談くらいは在っても良いと思うが、素堂の伝承については不思議なくらい無いのである。尤も、塚原親子については、もっと研究する必要が有りそうである。
また同じく下教来石の生まれで江戸で材木商を営み晩年故郷で過ごした河西九郎須(俳号素柳)も同様である。
素堂が元禄八年に亡き母の生前の願い身延詣でを果たすために来た折に記した『甲山記行』には、素堂が時の代官桜井孫兵衛に会い、『甲斐国志』の云うような「濁川改浚工事」の経緯については記されていない。ただし元禄八年の素堂甲斐入りについては後に甥の黒露が主催編集した追善集「みをつくし」(明和六年冬刊行・一七六九)に、編者の一人久住が「露叟の扉は府の柳町といふにつゝきし緑町と申所なり。町つゝきのおもしろきにや。むかし素堂も此所にしはし仮居せられしとなん」と記している。
県内外の古書店をはじめ図書館巡りを始める。仕事の合間の調査活動であり時間の遣り繰りに苦慮する。各地の知人からの調査協力もありは思わぬ進展を生む。素堂の足跡は芭蕉関係の書に多くの記載があり、その抽出を重ねる。しかし『国志』以前のものには素堂が教来石村字山口はおろか甲斐との繋がりさえ実証する文献一向に現れてこない。『国志』は素堂が没後百有余年を経て編纂されたもので「素道」(素堂は生涯、素道は名乗っていない)として紹介されその筆調は他に見えない講談調で、この項は素堂の事蹟が主ではなく、元禄九年の甲府代官桜井孫兵衛の事跡を素道の項を借りて記載した内容で、その基は濁川の傍らにある「桜井社」と孫兵衛の親族である斎藤正辰建立の孫兵衛の「顕彰碑」である事も解かった。素堂の事蹟は顕彰碑には記載はなくそれを窺う記述も見えない。又現存する桜井社の建立も孫兵衛の死後で生祀では無いことは明白になった。(孫兵衛の没年は享保十六年、建立は十八年)
素堂の生年月日と通称
さて次は生年月日であるが、『甲斐同志』(以後『国志』と略す)は寛永十九壬午年五月五日としているが、明和八年(一七七一)の資料は一月四日(『連俳睦百韻』寿像感得記・三世素堂著)と有る。どうやら『国志』の五月五日説は「童名重五郎」名を引き出すための日付である。
同様に、通称についても「連俳睦百韻」の序の著者で、素堂の親族と云う寺町百庵は、
『山口素仙堂太良兵衛信章、俳名来雪、其後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。其の弟に世をゆずり…云々』と家督期の称を「太良兵衛」とし、また「松兵衛」(「とくとくの句合」雷堂百里跋・享保十二年・一七二七)とあって「官兵衛」名は無い。まして市右衛門の名は見えないのである。「市右衛門」については後で紹介するとして、官兵衛に固執して見れば、山口殿と称された寛永十八年赴任の「甲府御城御番衆」で「山口官兵衛直堅」(四千石)であろうか----。
こうして見ると、素堂の「生い立ち」は『国志』に依って述べると、実に不安定な状態になり、他の記事も誤りが多くあり始末が付け難くなる。『国志』編纂時(享和三~文化十一年一八〇三~一四)には、如何程の素堂に関する資料が、甲斐国内に残されていたのであろうか…。
何はともあれ素堂に関係する記述の殆どは、『国志』成立以降のもので有った訳である。
素堂の実家
素堂の実家についても『国志』はどんな職業であったか述べていない。百庵も「其弟に世をゆずり…中略…後、桑村三石衛門に売り渡し、佗家に及ぶ」と商家であった事を匂わせ、他の書本でも「酒造業」と懸けているのも有るが、これで即「市石衛門家」に繋げる事は出来ない。兎角、実家は富裕で有ったらしい事は想像できる。
現在のところ、素堂に関する良好な資料は見出せないでいる。従って「生い立ち」自体が霞の中であるが、一つ言える事は、素堂は甲斐の生まれでは無く江戸で有るらしい事。
素堂は好学のために「少小ヨリ四方ノ志アリ婁々江戸ニ往還シテ」と『国志』にはあるが、門人子光は「素堂句集」の序で「弱冠遊四方」と。晩年の素堂の生活の面倒を見たと思われる子光は「二十才頃より各地を遊歴」と云う。
「少小」で林春斎に就いて漢学を学ぶ事は肯定できるが、
少小とは子供の頃の事で、それでは素堂は親と甲府に出て酒屋を営み繁栄した『国志』の記載は在り得ない事になる。弱冠とは二十歳のことで、『国志』記事は不確かとなる。
また茶を宗丹(旦)師事とすると、千宗旦は没年が万治元年十二月、素堂十七才の時となる。尤も親友と成った山田宗偏が宗旦に就いたのが十六才であるから、年齢はどうと云うことにはならないが、宗偏は正保の始め頃に宗旦に師事し、明暦元年に推されて小笠原忠知の茶道指南となった。その四年後に宗旦は八十一才で没した。素堂が宗旦に師事するためには遅くとも明暦の初めには京都へ行かなくては(素堂十四才)ならないとすると、林家塾に入るのは宗旦の没後と云う事にしないと、辻褄が合わなくなる。
 
『国志』の記載はその後の素堂伝に大きな影響を及ぼしている。特に濁川改浚工事の責任者の件は確かな資料を持たずに有名になって独り歩きする。虚実でも複数の同様な記事は読む人に史実として伝わり、しかもそれは定説となる大きな要因ともなる。定説化の主因は高名な人が書す事と繰り返し同説を掲げる事であり、これは歴史に良く見られる「歴史洗脳」とも云える。『国志』以外に素堂の動向を伝える文献は何処にあるのであろうか。
 素堂周辺の資料からは元禄九年の動向は不詳で、これは素堂の生涯で度重なる不幸に原因していると思われ、それは元禄五年の妹の死去、元禄七年には朋友松尾芭蕉と妻の死去、元禄八年には長く連れ添った母と死別、更に元禄九年一月には親友人見竹洞が死去して生涯で最も辛い時期となっていた。こうした事実は『国志』には記載されてはいない。これまで「素堂は妻を娶らず」従って「素堂には子供がない」、そして素堂の母の没年は甲府尊躰寺の墓石の元禄三年刻字「老母山口氏市右衛門尉建立」を根拠に元禄三年が定説になっているが、素堂には妻も子供もいて嫡孫まで確認でき、しかも素堂の母の没年は確かな資料で元禄八年夏の事である。
 元禄八年には素堂は亡き母の生前の願いの甲斐身延詣でに江戸深川を出発する。(『甲斐記行』)道中記には俳諧や漢詩もあるがこれも山梨県ではどうした事か紹介される事が無い。素堂は尊敬する元政上人が母を伴い身延詣でをしたのを羨み身延詣でに出立したのである。道中の紀行『甲山記行』の「甲斐は妻の故郷」「甲斐府中外舅野田氏を主とする」の言は素堂の出自に及ぶ大切な部分である。野田氏は確証がないが当時の甲府代官野田勘兵衛が有力で勘兵衛の父同じく甲府代官野田七右衛門ではないかと思われる。野田氏は素堂の妻の父であるがこれも諸本には見えないし研究もされていない。素堂は寛文元年(1691)に江戸に出る(二十歳ころ)とされるが、前年の万治三年には府中は大火災に見舞われ府中は殆ど消失する。山口家が如何に富豪であれ家督相続した長男素堂が母を連れこの時期に江戸に出ることなどは有り得ないしそうした記載資料は見えない。寛文年間の山口家市右衛門の母は今諏訪村に在住していたことが資料により判明している。素堂と山口屋市右衛門家は資料からは関係のない家系と思われる。後世の安易な結びつけがこうした誤伝家系を生む結果となったのである。
 当時の俳諧での地位と信頼度は芭蕉より樹幹たちとの交遊など素堂の方が高く、芭蕉も素堂を先生と称した事は有名である。現在俳諧中興の祖とされる芭蕉の俳論の中には既に素堂が予兆を表わしている(更科紀行跋文ら)。これは資料で確認が出来るのに一部の研究者のみに扱われ、多くは何故か無視され論外になっている。
素堂は俳句の世界では芭蕉の陰に追われ業績を認めてもらえない犠牲者でもある。
素堂生誕地諸説
1)甲斐国巨摩郡教来石村字山口(『甲斐国志』他)
  2)甲斐国山梨郡府中魚町(『山梨県の地名』他)
    ○素堂は甲府魚町に生まれ先祖は上教来石山口の出身といわれる。
  3)○江戸----『風俗文選犬注解』他)
  4)○不明----(『連俳睦百韻』寺町百庵の言)
  5)それの年甲斐の山ぶみをおもひける
……亡妻のふるさとなれば…外舅野田氏をあるじとする。云々
(素堂自著『甲山紀行』・元禄八年)
6)国より帰る
われをつれて我影帰る月夜かな 素堂 (元禄二年)
7)山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生氏郷の家臣)以来、甲斐国巨摩郡教来石
  山口に土着した郷士であった。(『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著)
  註…この項は『連俳睦百韻』に『甲斐国志』をプラスした記述。
  8)素堂は江戸の人、云々(『俳諧奇人談』、玄々一著)
   9)素堂は本系町屋にして世々倣富の家なり。云々
(『奥の細道解』、後素堂)
  四、調査活動から見える素堂の事蹟 
 芭蕉時代の素堂の活躍と事蹟については正確に伝わっていない。幕府儒官人見竹洞(宣卿)とは特に親しくその親交は深く長い。竹洞は素堂の家を訪れた時の様子を日記に書しているが、その屋敷地の広さは広大なものである。また元禄六年(1696)に取得した深川の抱地は芭蕉庵に隣接するか、包含する場所で、四百四十余坪の敷地で幕府郡代伊那半十郎の屋敷跡地である。
 素堂は門人ではないが水間沾徳を林家に紹介し、甲斐谷村の藩主で後の幕府老中になった秋元但馬守に芭蕉と同じ伊賀出身の和田蚊助を俸禄二百石で仕官させている。芭蕉の筆頭門人とされる宝井其角や服部嵐雪も素堂の周辺の人で俳諧集の序文や跋文を与える程の間柄であった。素堂が序文・跋文を与えた俳諧人は多く時の有名な俳人は全て素堂の指導を請い慕ったと言っても過言ではない。重ねて言うと素堂は俳人ではないのである。一時はその道に没頭しようとした時期もあったが、それは芭蕉に任せて学識者として地方に出かけそれは晩年まで続いた。芭蕉亡き後には俳諧の復興を目指して活動し京都とには頻繁に出かけている。晩年の活躍は『国志』も語られていないものである。晩年は困窮した様な記述書もあるがそれは違う。素堂は没年の前まで活動を続けたのである。
又芭蕉の俳諧集の中には素堂の編集意見や素堂と模索した新風論もあり、二人で奏でた数々の試みは絶妙の二人三脚と賞賛する文学者も居られる。
 『江戸両吟集』京都の伊東信徳を加えた『江戸三吟集』や素堂と芭蕉の心の葛藤を描いた「蓑虫句文の遣り取り」や『甲子吟行』(『野晒紀行』)の絡み等は当時の俳人の追随を許さないものである。
 しかしこうした素堂の事蹟を芭蕉の事蹟にすり替えてしまった功罪は多きくそれが後世の素堂伝に大きな影響を与えた。   
 私は素堂と芭蕉の句作の優劣については触れる事は出来ないが、客観的に見れば新風を提示する素堂は芭蕉等の俳人に大きな示唆を与えていたのである。その素堂の句に奥行きがないと云う指摘は当たらない。
 定説の信憑性を疑い新説を出す歴史家も多いが、定説は崩れない。織田信長が本能寺で明智光秀に殺害されたと云う定説も、矢切止夫氏が資料をもって史実で無い事を訴え、最近でもその説を取る人もいるが、歴史学界には何の変化も起きない。一旦定説になるとなかなか訂正されないのがこの世界なのである。
 隣の長野県の考古研究者は縄文時代既に稲作があった資料をもって主張したが、多くの考古学者は一笑に伏していた。最近では実証される遺跡が各地に出現し定説の改変が迫られている。これは不確かな資料で定説化してしまった事に起因している。素堂や県内歴史についても定説を繰り返すのみでなく確かな資料に基づいての研究が期待される。
 話は横道に逸れたが素堂の功績も長年にわたって芭蕉信仰で来た文学界では見直される事はなく、最近更に希薄になって来ている。素堂の事蹟資料は現在でも生きているのである。表面に出ないだけの事である。
 私は調査では作品より生活の一端を窺わせる部分の記述を重視した。また序文や跋文、及び俳文や前書きを拾うことで素堂の事蹟と人物像を探ることに専念した。理解不能の箇所については師と仰ぐ小川健三氏(故人)にお願いした。  
資料や理解を深めるため山梨県立図書館や文学館に納められている数々の素堂関係書のうちで特に俳諧作法秘伝とも云うべき「素堂口伝」(偽書とされる)は重要なもので、素堂没後も与謝蕪村や小林一茶にも少なからず影響を与えていたのである。俳諧にのめり込む事のなかった素堂の句作を「奥行きがない」「追求心がない」「愚作が多い」などは素堂を理解されない人の妄説で、俳諧を業とする人と一芸として俳諧を嗜む人を一緒にして論じる事は避けるべきであり、素堂に対するこうした評は素堂の人間性にまで及ぶ事もあるので十分な配慮が必要である。素堂は芭蕉や他の俳人の様に業俳宗匠では無く、広い活動を展開し俳諧はその一部分であったことの理解が欲しい。





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最終更新日  2021年04月06日 17時35分19秒
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