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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月12日
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カテゴリ:山口素堂資料室

隠士素堂の「隠」の意識 復本一郎氏著

 

  一部加筆 山梨県歴史文学館 白州町ふるさと文庫

 

はじめに

 

芭蕉と同時代の俳人に山口素堂なる人物がいる。

 

目には青葉山郭公はつ鰹

 

の句は、今でも愛誦されているし、

 

われをつれて我影帰る月夜かな

 

ずっしりと南瓜落て暮淋し

 

蔕(へた)おちの柿のおときく深山哉

 

谷川に翡翠と落る椿かな

 

等の、今日においてもなお斬新な佳句を残している。

 

寛永十九年(一六四二)に生まれ、享保元年(一七一六)、葛飾で没している。

享年七十五。

 

芭蕉とはごく親しい交友関係がありながら、今日、人々の素堂への関心はなぜかきわめて薄い(I)。

 が、江戸時代における隠者文学の実体を検証するに当っては、素堂を除いて考えることは許されないであろう。なぜならば、素堂自ら

「江上隠士素堂」(『続虚業』)、

「かつしかの隠士素堂」(『とくくの句合』自序)

等、しばしば「隠士」を名乗っているからである。素堂にとって、あるいは素堂周辺の人々にとって「隠」とは何だったのであろうか。これはやはり看過し得ない問題であろう。そこで、小稿では、隠士素堂における「隠」の意識を、芭蕉との交流を中心に探ってみることにする。

 

    一 素堂評判

 

 素堂自らは、隠士素堂と名乗っているが、素堂と交流のあった人々は、素堂をどのような人物と捉えていたのであろうか。まずは、そのあたりから見ていきたい。

 

享保元年(一七一六)八月十五日に没した素堂の一周忌追善果が、素堂の弟友哲の家僕の息子雁山(黒露)によって編まれている(2)。書名を『通天橋』(享保二年刊)という。中に昌貢なる俳人の追悼の文章が収められている。左のごとくである

(濁点・句読点・ふりがな等筆者、以下同じ)。

  

素堂翁は、世にありて世をはなれ、

富貴は水中の泡と、貧泉をくるしまず。

前の大河、後の小流を常に吟行し、

武江の東、葛前に住居し、一窓に安閑をたのしみ、

花の日は立出てとかなで、

雪の朝には炉中に炭などものして

泌音にしたしき友を待、

さて月のゆふべは即興の章おもしろく、

拙からずも筆をしめて、

まことに其名都辺までも著し。

 

 昌貢は、素堂を「世にありて世をはなれ」だ人物と評している。…市井の隠者…すなわち市隠ということであろうから、素堂が自らを隠士と称するところと一致した評価である。そして、その住居を「一窓に安閑をたのしみ」と記している。

窓が一つしかない住居である。その規模や構造は明らかにされていないが、草庵(3)と呼んでよいものであろう。後代の俳諧逸話集、空阿著『誹諧水滸伝』(寛政元年ごろ成)が、素堂の住居を

「其家後に方二丈に過ず。四辺白砂を以て壁とし、白茅を葺て家根とす」(4)

と表現しているのも、あながち的外れな記述ではあるまい。その場所は、武江(武蔵国江戸)の東の葛飾であり、前には隅田川が流れ、後には江戸川が流れるあたりである。そこで富貴を退け、貧の生活を容受し、雪月花の安閑を楽しんだというのである。昌貢については詳らかにし得ないが、素堂と交流のあった江戸の俳人と思われ、右の記述は信じてよいであろう。

 右は、一周忌とはいえ、素堂没後の記述であったが、生前の素堂の評判はどのようなものであったのであろうか。芭蕉の素堂評が窺える士芳の『三冊子』を幡いてみることにする。

元禄十五年(一七〇二)の成立である。

  

或禅僧、詩の事をたづねられしに、

師のいはく

「詩の事は隠士素堂といふもの、

此道にふかき好ものにて、

人も名をしれる也。かれつねにいふ、

詩は隠者の詩、風雅にて宜、といふ」

と也。

 

このエピソードがいつごろのものかは、定かでない。しかし、芭蕉が素堂を「隠士素堂」と呼んでいる点は、大いに注目してよいであろう(芭蕉は、はやく貞享三年に書いた俳文「四山瓢」でも「隠士素翁」と記している)。そして、素堂を詩の道の「ふかき好もの」と評し、「人も名をしれる也」と伝えているのである。隠士素堂、漢詩人素堂の名は、当時の人々の間では、広く知られていたというのである。昌貢が「其名都辺までも著し」と記していたところとも一致する。

芭蕉は、『おくのほそ道』の中でも

「旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり」(5)と記して漢詩人素堂を称揚している。右のエピソードでなお注目すべきは、芭蕉や素堂が、禅僧の問いかけに対して、「詩は隠者の詩、風雅にて宜」と、「風雅」を視座に、「隠」と「禅」とを切り離して考えていたことが窺知し得る点てある(6)。詩を純粋な「風雅」たらしめるには「隠」の要素は不可欠であるが、「禅」とは直接には繋がらないとの判断が働いていたように思われる。

 ともかく、素堂より二歳年少の芭蕉は、素堂を「隠士素堂」と呼んでいるのであった。芭蕉晩年の門弟許六も、また、素堂生前に、素堂を隠士と呼んでいる。

正徳五年(一七一五)刊の『歴代滑稽伝』に、

  

江戸山素堂は、隠士也。『江戸三吟』の時は信章と云。

  『幽山八百韻』の節は来貢と云。

芭蕉翁桃青と友トシ善シ。

  後、正風の体を専とす。

 

と記しているのである。素堂の前号である信章、来雪号も紹介されている。芭蕉との密なる交友といい、「正風の体を専と」した点といい、素堂は、蕉門の客分的な存在だったと言ってよいであろう。同じ許六の『本朝文選』(宝永三年刊)の作者列伝には、

  

素堂ハ者山口氏也。于武陽ニ居ス。

世務ヲ避テ于深川ニ隠ル

芭蕉翁ヲ友トシ善シ

 

と紹介されている。ここで許六が、「隠」の一つの要素として世務からの退避を指摘している点に注目しておかなければなるまい。先の昌貢の言「世にありて世をはなれ」も、この意味においての発言と解すべきであろう。この時点ては、許六は、まだ彦根藩士であるので、ある種の羨望を禁じ得なかったのであろう。

なお、「隠」の場所葛飾を許六は深川としているが、彦根藩士である許六にとっては、葛飾も深川も、同じ地域として把握されていたのである。

 談林の俳人轍上が、俳人を遊女に見立てて論評した『花見車』(元禄十五年刊)において「武州」の素堂を、

  

はちす葉のにごりにはそまじと、

ながれの身とはなり給はず、

わかき時より髪をおるして、

深川の清き流れに心の月をすませり。

 

と評していることも、右に検討を加えてきた素堂評に目をやるならば、納得がいくであろう。京の人轍士にとっても、素堂は、武州深川の人と認識されていたのである。

 

    二 『とくとくの句合』百里践文

 

素堂は、正徳元年(一七一一)の頃、西行の『御裳選濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)』に倣って三十六番の自句合を編んでいる。素堂没後の享保二十年(一七三五)に出版されている。その版本『とくとくのの句合』には、享保十二年(一七二七)春に執筆の百里の跋文が置かれている。素堂没後十一年目の執筆である。百里は、蕉門嵐雪の弟子。当然、素堂との交流もあったであろうから、跋文の信憑性はかなり高いと見てよいであろう。隠上素堂の「隠」の意識を探るには欠かせない資料と思われるので、左にその全文を引き写してみる。

  

右白問自答のぬし素堂は、あづまの長明ともいはんや。

  山口松兵衛の時、交り貧しからず有けるを、

こがらしの筑波はげしき冬の風の煙に逢ふ事幾度か、

又一族の不幸に僅のたからも失ひ、

悔事なく、老母を供して、

行水の流もとのあらぬ葛鹿深川の草むしろ、柱を堀建、

ばせを庵の風に耳をひれふせ、

元日やおもへば淋し秋の暮、

  此頃より風俗うつりかはり、

古池や蛙飛込水の音、

是を昧ひ、此池の前にうしろに、

素堂は十蓮の句を、詩話をめぐり、

芋名月の十三句、

   我をつれて我影帰る月夜哉

みのむしに筆の杖、

ある時ばせを曾良をつれて

おくの細道におもむかれける餞別、

   松しまの松陰にふたり春死なん

我も死なんと弥陀の額に落日を請、

月影は人山の端もつらかりき。

此古ごとに違ず一生をすみ畢ぬ。

    かくれては船人多し後の月         

   予此句を云捨たるむ此人にはなし。

とくとくとむかしなつかしく跋に書て置物也。

 

この百里の跋でとりわけ注目すべきは、素堂を「あづまの長明」と定めている点であろう。素堂の『とくとくの句合』が、素堂自らが序文で、

  

七そぢちかき秋の頃、わらは病にかゝりて、

三途瀬川を二瀬もこへなんとせしが、

立帰り、病の間ある時、

むかしいひ捨たる狂句どもを倩(つらつら)おもひ出て、

自らの句を左右にわかち、西行法師の御裳濯川のまねして、

三十六番の句合となし侍れど、

今の代に悛成郷とたのむべき人なければ、判者も又素堂なりぬ。

(以下略)

と記し、わざわざ「かつしかの隠士素堂」と署名までしているので、西行を意識して為されたものであることは間違いない。

事実、芭蕉の『野ざらし紀行』の一節、

 

  西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計わけ人ほど、

柴人のかよふ道のみわづかに育て、さがしき谷をへだてたる、

いとたふとし。彼とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、

今もとくとくと雫落ける。

   露とくとく心みに浮世すゝがばや

 

に対して、素堂は、その序で

 

我に鐘予期がみみなしといへども、

翁のとくとくの句をきけば、

眼前岩間を伝ふしたゝりを見るがごとし

 

と述べて、芭蕉の描く西行の世界に賛意を示しているのである。芭蕉を琴の名手伯牙に、自らをその理解者鐘予期になぞらえての賛意である。

そればかりか、素堂は、西行の旧庵の跡を訪ね、西行が

とくとくとおつる谷間の苔清水くみほすほどもなきすまひ哉

と詠んだとされていた「とくとくの水」を掬って、

山かげにひとくひとくとなくとりも岩もるみづのおとにならひて

の和歌をも作っているのである(子光纂『素堂家集』)。

それよりもなによりも、『とくとくの句合』の第一番の素堂の左句は

とくとくの水まねかば来ませ初茶湯〉

であり、この句に対して判詞で、自ら、

 

  判に日、西行法師をしたひての句合なれば、

第一番に汲はず程もなき住居かなと詠じたまふ

芳野の奥の苔清水を出されけるにや。

二月堂のわかさの水も呼ぶに応じてわき出るといへば、

遠くとも来るまじきにあらず。

 

と解説しているのである。芭蕉が、西行の

とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくは住み憂からまし

の歌に「さびしさをあるし」とする「さび」(7)を見定めたり、同じく西行の

山里へ誰をまたこはよぶこどりひとのみこそ住まむと思ふに

の歌に「独往」の「おもしろさ」を見出だしたように、

 

素堂もまた、西行の「さびしさ」の世界、「独往」の世界に強い憧憬を抱いていたことは、紛れもない事実である。それゆえの『とくとくの句合』の編纂だったのである。ちなみに、先の『とくとくの句合』の序で明らかなように、六十九歳の素堂は、雍(わらはやみ)に罹り、九死に一生を得る。句合は、その時に企図されたものである。

 が、素堂が西行贔屓+であることを百も承知で、百里は素堂を「あづまの長明」と呼んでいるのである。長明の『方丈記』の冒頭

ゆく何の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

を踏まえて

行水の流もとのあらぬ葛鹿深川の草むしろ、柱を堀建

とまで綴っているのである(前半部の素堂の半生の描写も『方丈記』が意識されていよう)。百里は、跋文の中にも引かれている素堂の左の句文にひっかかるものを感じたのではなかろうか。車庸編、元禄五年(一六九二)刊の俳諧撰集『己が光』に収められている。

    

送芭蕉翁

   西上人の其きさらぎは法げづきたれば、

我願にあらず。

ねがはくは花の陰より松の陰、

寿はいつの春にても、我とともなはむ時

    松嶋の松陰にふたり春死む         素堂

 

 西行の

願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ

の歌を踏まえての句文である。

そして、素堂は、釈迦入滅の日である春二月十五日に桜花の下で死にたいという西行に抵抗を示しているのである。理由は「法げつきたれば」である。「法げ」は、「法掲」であろう(「法気」とも考えられる)。あまりに仏法に密着し過ぎているというのである。

素堂にとって西行の「独往」の世界、「さびしさをあるじ」とする世界については憧憬の対象となるものの、西行の「法げづ」いた世界は、敬遠すべきものだったのである。素堂は「我願にあらず」と明言しているのである。これが、素堂の「隠」である。そして百里も、そのことを見抜いていたのであろう。それが「あづまの長明」なる評言となったものと思われる。そして、この評言を裏付けるかのような素堂の作品が、正徳元年(一七一一)刊、蘭台編の俳諧撰集『誰袖』に収められているのである。

 

   忍岡のふもとよりかつしかの里へ家をうつせしころ

長明か車にむめを上荷かな         素堂

 

 素堂が、上野忍岡に退隠したのは、延宝七年(一六七九)、三十八歳の時と推定されている(8)。延宝八年(一六八〇)刊、言水編の俳諧撰集『江戸弁慶』には、その折の、

  宿の春何もなきこそ何もあれ        素堂

の句を掲出している。後年、素堂は、『とくとくの句合』の一番の右にこの句を置き(左が、先に見たくとくとくの〉の句)、

 

  何もなきこそとあるは、有無の無にてはあらざるべし。

  此無にはあらゆる物を備へて胸中の楽しみはかり難し。

 

と解説している。

ここにも素堂の「隠」意識が窺えるであろう。「胸中の楽しみ」を約束するところの「無」である。しかし、素堂は、日野山の草庵に閑居した長明に倣って、さらなる「安閑」生活を求め葛飾へと居を移したのである。貞享二年(一六八五)、素堂が四十四歳の時と考えられている。(9)

その時の句が〈長明が〉である。「長明か車」とは、『方丈記』中の方丈の草庵を説明しての

「積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他のようとういらず」

を受けてのものであろう。車二台分の組み立て式の草庵であるも、長明気取りで、車の積荷の上に折から咲いている梅の花を置いて、忍岡から葛飾まで引越したというのである。

 憧憬を示しながらも、なぜ西行ではなく長明の閑居生活に倣ったのか。『方丈記』には

「もし念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる」

との記述が見える。素堂は、そんな長明により親しみを感じたのであろう。そして、百里には、そのことがしっかりと理解されていたのである。百里は、〈かくれては〉の句を示し、「去者は日々にうとし」というが、素堂は別だ、と惜しみない賛辞を呈しているのである。

 

  






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最終更新日  2021年04月12日 05時14分48秒
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