カテゴリ:山口素堂資料室
隠士素堂の「隠」の意識 復本一郎氏著
一部加筆 山梨県歴史文学館 白州町ふるさと文庫
三 素堂の内なる芭蕉
『おくのほそ道』の旅に出立する芭蕉に対して 松嶋の松陰にふたり春死む とまで詠んだ素堂であったが、かく素堂と芭蕉との交友の絆は、例えば儒者人見竹洞等に比しても、すこぶる堅かったようである(10)。子光纂の『素堂家集』には、 予が家に菊と水仙の画を久しく翫びけるが、 ある時、ばせををまねきて 此ふた草の百草におくれて霜にほこるごとく 友あまたある中にひさしくあひかたらはんとたわぶれ 菊の絵をはなして贈る時、 菊にはなれかたはら寒し水仙花
の句文が見え、蕉門浪化編の俳諧撰集『続有機海』(元禄十一年刊)には、芭蕉没後に『ばせを墓にまうでゝ』の、この句と対をなす素堂の「手向草」の一句、 秋かかし菊水仙とちぎりしが 東武 素堂 が収められていることからも、二人の交友の絆の堅い堅い結び付きを窺うことができる。素堂は、二歳年少の芭蕉を菊に、自らを水仙に背えて、交友の絆の堅さを詠んだのである。 菊は、許六が「百-花ノ譜」(『本朝文選』)で 菊の隠逸なるは。和-漢ともに名にたちたる花 と述べているように、北宋の周茂叔が「愛蓮説」『古文真宝』)の中で「菊花之隠逸者也」 菊は花の隠逸なる者なり と述べているように、隠者に譬えられる花である。 そして水仙も、季吟が歳時記『山の井』(正保五年刊)の中に 霜がれの草の中に。いさぎよく咲出たるを菊より末のをとうとへもてはやし と記しているように菊の弟として、その隠逸の様が、菊同様に珍重される花だったのである。素堂と芭蕉は、「隠」の精神で結ばれていたと言えるのである。 素堂は、元禄二年(一六八九)九月十三日、『おくのほそ道』の旅から帰ってくる芭蕉を待って、左のごとき句文を綴っている(『其袋』所収)。 (前略) ことしも又、月のためとて庵を出ぬ。 松しま、きさかたをはじめ、 さるべき月の所々をつくして、 隠のおもひ出にせんと成べし。 此たびは月に肥てやかへりなん
前年の芭蕉の十三夜の句〈木曾の痩もまだなをらぬに後の月〉を踏まえての〈此たびは〉の句である。素堂と芭蕉の肝胆相照らした親しさを感じさせるユーモアに満ちた作品であるが、そこにおいても、素堂の中では芭蕉の「隠」がしっかりと認識されているのである。
素堂と芭蕉の「隠」の交りをもう少し追いかけてみることにしたい。素堂の中で、芭蕉は「月の詩人」として捉えられていたようである(11)。右の句文でも『おくのほそ道』の旅の目的が「月のためとて庵を出ぬ」と語られていたが、元禄五年(一六九二)成立の『芭蕉庵三ケ月日記』(12)の素堂序でも「隠」が「月の詩人」芭蕉とのかかわりの中で語られているのである。
我友芭蕉の翁、月にふけりて、いつとはわかぬ物から、 ことに秋を待わたりて、他の求めなし。(中略) 中の秋に至りて、 はつ月のはつかなる比より夜毎に名月の思ひをなし、 くもりみはれみ、扉をおほふことまれ也。 我庵ちかきわたりなれば、月にふたり、 隠者の市をなさむとみづから申つることぐさも古めきて、 人くる人こにも句をすゝむる支になりぬ。 昔より隠の実ありて、名の世にあらはるゝ夏、 月のこゝろなるべし。(傍点筆者)
いかにも楽しげな月にかかわっての素堂と芭蕉との「隠」の交りである。深川の草庵と葛飾の草庵とを訪いつ、訪われつしたのであろう。素堂の戯れの言「月にふたり、隠者の市をなさむ」からも、素堂が、芭蕉や自らをはっきりと「隠者」と意識していたことが窺われて、興味深い。 「昔より隠の実ありて、名のあらはるおゝ夏、月のこゝろなるべし」 は、「隠者」芭蕉への賛辞であり、「隠」を志向する本物の「隠者」は、本人の意志とはかかわりなしに、その名が世に知られるようになるというのである。 右の序文は、続いてその具体例である西行、遍昭について語られ、 「この翁のかくれ家も、必隣あり。名も又よぶにまかせらるべし」 との言葉で結ばれている。『論語』の中の 「徳不孤ナラ、必ズ有リ隣」 の文言を踏まえながら、芭蕉の名が世の中に広く知られるようになることを予見しているのである。 元禄九年(一六九六)刊、里圃編の芭蕉一周忌追善集『翁草』に、素堂は、 頭巾着て世のうさ知らぬ翁哉 素堂 の句を寄せているが、「世のうさ知らぬ翁」の「隠」は、終生、素堂の「隠」に大きな影響を与え続けたのである。
四 〈蓑虫〉句の酬和
素堂と芭蕉との「隠」の交りの関係をもっとも端的、かつ集約したかたちで窺えるのが子光纂の『素堂家集』に収められている〈蓑虫〉句の酬和であろう。 『素堂家集』(13)は、素堂に十年以上にわたって親灸したという(序文)門人子光によって享保六年(一七二一)に編まれたもの。 子光は、序文で、堂堂を評して
隠逸山口堂信章ハ、汪城ノ東北浅草川両国橋ノ傍、 下総国葛飾郡ノ内ニ廬ヲ結ビ、歳月ヲ経ルコト久シ。 稟野志多ク、固ヨリ貨財世事ヲ以ツテ経ルコトヲセズ。 心偏ニ雪月花ノ風流ヲ弄ブ」(原漢文)
と記している。その素堂の草庵の様子が 其庵中ニ所蔵スル書契、数巻、及茶器、傍炊ノ鍋釜ノミ と見えるのも、隠士素望の隠逸ぶりが労朧として興味深い。が、今、注目しようとしているのは、『素堂家集』の冒頭に置かれている「句集」の巻頭部分である。左のごとく見える。 ばせを老人行脚帰りのころ 蓑虫やおもひしほどの庇より 此日子が園へともなひけるに また竹の小枝にさがりけるを みのむしにふたゝびあひぬ何の日ぞ 此のちばせをのもとより 蓑むしのねを聞に床上草の庵 これに答ふる詞 蓑虫々々声のおぼつかなきをあはれぶ。 ちゝよちゝよとなくは孝にもっぱらなるものか。 鬼のうみおとしぬれば、 是もおそろしきこゝちぞすると清女加筆のさがなしや。 (以下略)
芭蕉の〈蓑むしの〉の一句、および素生の「これに答ふる詞」は、よく知られている。芭蕉の〈蓑むしの〉は、貢享四年二六八七)刊、其角編『続唐楽』に「聴閑」の前言を付して収められている。時に芭蕉、四十四歳である。一方、素堂の で」れに答ふる詞」は、宝永三年二七〇六)刊、許六編の『本朝文選』に「蓑虫説」として収められている。『素堂家集』には掲出されていないが、芭蕉は、素堂の「蓑虫説」に対してさらに「蓑虫説跋」を言いたのであった。
そこで、この酬和の発端となった素堂の〈蓑虫やおもひしほどの庇より〉の句である。この句と、芭蕉の〈蓑虫の〉の句と、その成立時期は近接していると見るのが自然であろう。 とすれば、前言に「ばせを老人行脚帰りのころ」(14)と見えるので、貞享四年(一六八七)八月に常陸国鹿島へ月見に赴いた『鹿島詣』の旅から帰った折の作品と見るのがよいであろう。 素堂は、芭蕉の草庵を訪ねたのである。句中の「庇」は、深川芭蕉庵の「庇」である。芭蕉の帰庵を喜んでの一句である。 となると、「蓑虫」は、芭蕉ということになる。言ってみれば、素堂は、芭蕉に「蓑虫」なるニックネームを献上したのである。そして、その日に今度は、素堂の草庵に芭蕉を誘ったのである。場所を変えて一日に二度まで帰庵後の芭蕉と久しぶりにゆっくりと閑談できるのである。そのうれしさを詠んだのが みのむしにふたゝびあひぬ何の日ぞ の句であろう。 素堂自身、意外な成り行きだったのである。 この句から、幾日も経ずして素堂のところに芭蕉から届けられた句が 蓑むしのねを聞に床上草の庵〉である。芭蕉は、 素堂から献上されたニックネームがすっかり気に入ったようである。「蓑むしのねを聞に来よ」とは、閑談の誘いにほかならないのである。 それでは、素堂は、「蓑虫」(芭蕉)に何を見ようとしていたのであろうか。「蓑虫説」の和文中、特に注目すべきは、全七節中の次の二節と思われる。『本朝文選』の本文によって掲出してみる。
みの虫みの虫。 声のおぼつかなくて。 かつ無一能なるをあはれぶ。 松虫は声の美なるが為に。 龍中に花野をなき。 桑子は糸を吐により。 からうじて賤の手に死す。
みのむしみのむし。 無能にして静なるをあはれぶ。 胡蝶は花にいそがしく。 蜂は蜜をいとなむより。 往-来おだやかならず。 誰が為にこれをあまくするや。
連続する二節によって強調されている「無能」讃歌である。 芭蕉は、「蓑虫説跋」において、
其無能不才を感る事は、 ふたゝび南花の心を見よとなり
と応じている。『荘子』を繙とけば、例えば 「夫相梨橘柚果蔭之属。実熟則剥。則辱。大枝折。小枝泄。此以其能・苦其生者也」 (「人間世篇」と見えるごとく「無能」の肯定に繋がる南花(荘子)の文言をいたるところに見出し得る。素堂の「無能」讃歌は、芭蕉を鼓舞したようで、元禄三年(一六九〇)成立の「幻住庵記」では「無能無才にして此一筋につながる」と述べ、元禄五年(一六九二)稿の「移芭蕉詞」では「胸中万物なきを貴し、無能無知を至とす」と述べて、「無能」の真価を確認しているのである。
「蓑虫説」は、和文七節の後に「又タ以テニ男文宇ヲ述ブ古風ヲ」として四言十六句から或る漢文の古詩を掲げている。
簑虫蓑虫 落人牕中 一糸欲絶 寸心共空 似寄居状 無蜘蛛工 白露甘口 青苔粧躬 従容侵雨 瓢然乗風 栖鴉莫啄 家童禁叢 天許作隠 我憐称翁 脱簑衣去。 誰識其終
これによって、素堂が「蓑虫説」で意図したところが明らかとなるのである。酬和の発端である 蓑虫やおもひしほどの庇より (蓑虫がいるのではないかと思っていたが、やはり思っていた通りに庇からぶらさがっている) 以来、素堂が「蓑虫」に仮託したのは、やはり芭蕉その人だったのである。「天許作隠我憐称翁」の二句が、そのことを明かしている。このことは、はやく、錦紅(×江)著『風俗文選通釈』(安政五年自序)において「此文は虚斑(筆者注・いっわること)に詞を設けて諷論するの説なり。 天許スレ作スヲレ隠ヲー我憐ムレ翁称スルヲ といへる文をもて其意を察すべき也。 と指摘もされているのであった。そして、錦紅(江)は、件の二句を
固(かたき)に天縦して其隠をなさしむ、 我はあが翁と称して、長く友とせん事を望むよかし、 との意衷なるべきにや
と解しているのである。 すなわち、「蓑虫説」は、全体、「蓑虫」に仮託しての芭蕉の「隠」の生活への讃辞と解すべきなのである。そして、そのことは、芭蕉も十分に知悉していたのである。そして、そのことは、芭蕉も十分に知悉していたのである。「蓑虫説」を受けての「蓑虫説跋において 「翁(筆著注・素堂)にあらずは誰か此むしの心をしらん」 と記しているが、この言は、自らの「隠」の生活のよき理解者である素堂に対しての謝辞にほかならないのである。 もちろん、素堂は、「蓑虫説」において芭蕉を語りながら、自らをも語っていたのである。 「月にふたり、隠者の市をなさむ」 と戯れる素堂であってみれば、芭蕉の「隠」の生活を描くことは、自らの「隠」の生活を語ることへと自ずから繋ることでもあるからである。 事実、「蓑虫」は、素堂をも強くイメージさせるものだったようである。素堂の一周忌追善集『通天橋』には、素堂句〈目には青葉山郭公はつ鰹〉を踏まえての、 目には謝葉うつり行世の野分哉 青雲 の追悼句とともに、 此別れ蓑虫よりも鳴音哉 琴風 蓑むしく錠に錆うき水の月 祗空 の追悼句も収められているのである。
明和二年(一七六五)刊、黒露編の素堂五十回忌追善集『摩詞十五夜 まかはんや』に むかし芭蕉庵と希堂の隠家は遠くへだてぬ中垣から、 常に問つ尋つせられし。 との一文が見えるが、素堂と芭蕉とは「問っ尋つ」しながら互に「隠」の交流をしつつ「安閑」の「蓑虫」生活を楽しんだのであった。
芭蕉は『嵯峨日記』(元禄四年成)の中に、 長喧隠士の曰く 「客は半日の閑を得れば、 あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂此言葉を常にあはれぶ。
と記している。当の長嘯子の『挙白集』(慶安二年刊)には、この部分、
やがて爰を半―日とす。 客はそのしづかなることをうれば、 我はそのしづかなることをうしなふににたれど、 おもふどちのかたらひはいかでむなしがらん。
とある。この傍点部の意味を芭蕉は十分に承知しながら、あえて隠してしまったのであった。「おもふどち」(「したしき友とてある二人の隠士素堂と芭蕉は、傍点部の意味を確認しつつ大いに語り合い、影響を受け合ったことであろうし、以上に検討を加えてきたところでも、その一端に触れ得たように思われる。
(I) 清水三郎氏『誤伝山□素堂』(白州ふるさと文庫、平成12年4月刊)が素堂伝記の読み直しを試みている。 (2) 岡田彰子氏「翻刻『通天橋』」(「大阪青山短大国文」創刊号、昭和60年1月)の「解説」による。 (3) 石田吉貞氏『改訂中世草庵の文学』(北沢図書出版、昭和45年2月刊)参照。 (4) この描写は、乗数山下上野忍岡の草庵。 (5) 鈴江の『奥細道通解』(安政五年成)が 「家集云、夏初松島自清幽、雲外杜鵑声未同、 紅白散理百花後、一庭新樹対眸」 とするが、子光纂『素堂家集』には「初夏即席」の題で 「雨餘風色白清幽、雲外杜鵑声未到、 紅白教理百花後、一庭新樹対青眸」 が見える。この詩による鈴江のさかしらか。 (6) 石田吉貞氏『隠者の文学』(塙新書、昭和43年6月刊)において 隠士素堂の「隠」の意識隠者系の美と禅とをきり離して考えるべきであるとの指摘がなされている。 (7) 拙著『さび--竣成より芭蕉への展開』(塙新書、昭和58年(東京経文館、昭和16年3月刊所収)は、「行脚をして故郷に帰る頃の意らしい」(傍点筆者)とするが、如何。 〔付記〕 「国文学」昭和49年19一月号の特集〈隠者たち〉における島津忠夫氏の「市隠の筆』をはじめとする請論をも参考にさせていただいた。 7月刊)参照。小橋では、石田吉貞氏が隠者系の美とされる「さび」には言及しなかった。 (8) 荻野清氏「山口素堂の研究」(『芭蕉論考』養徳社、昭和24年4月刊所収。『俳文学叢説』赤尾照文堂、昭和46年4月刊に再録)による。 (9) (8)に同じ。 (10) 堀信夫氏「素堂と江戸の儒者」(『俳文芸の研究』角川書店、昭和58年3月刊所収)に素堂と竹洞との関係が詳説されている。 (11) 井上敏幸氏の「月の芭蕉」(「雅俗」創刊号、平成6年2月)等、芭蕉と月とのかかわりを指摘したいくつかの論考の先躍をなす指摘として、大いに注目される。 (12) 『芭蕉全図譜』(岩波書店、平成5年11月刊)によって本文を掲出した。 (13) テキストは、『俳書集覧』第六巻(松宇・竹冷文庫刊行会、昭和4年5月刊)所収本。 (14) 志田義秀氏「静に観れば物皆自得す」(『奥の細道・芭蕉・蕪村』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月12日 05時10分47秒
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