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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月17日
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​素堂と芭蕉の俳諧のはじまり​
〔素〕=素堂 〔芭〕=芭蕉
〔素〕既に素堂と芭蕉の生い立ちに付いては、多くの人の論及もあり省くとして、素堂は寛永十九年(一六四二)一月十四日の生まれ(『甲斐国志』は五月五日)、芭蕉は正保元年(一六四四)で月日は不詳の二年遅れである。生地にしても、素堂は甲州教来石村山口と云うが、本人や周囲が肯定した記述が無いし、その根拠とする資料も「国志」以外無い。甲州教来石村山口と書いているのは後世の「甲斐国志」のみである。素堂の生涯や事績はこの『国志』によって大きく歪められた。
〔芭〕芭蕉も伊賀上野の赤坂町とされているが、これとても別説が有って確定しがたいが、少々より藤堂藩の士大将(伊贅上野支城詰)藤堂新七郎家に子小姓に召出されて、寛文初年(一六六一)頃に新七郎家の後嗣良忠の近習(陪臣)に直されたとされる。
【註】(藤堂藩からすると陪臣、石取りか給金取りかは不明)
【註】芭蕉の生まれた年に関する著述
<参考資料>(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書「天水抄」の稿を書きあげた年である。
〔素〕素堂も少小より林春斎の私塾に入って漠儒の学を学んだと云う。その後某家(唐津藩)の仕官と成ったらしい。この頃で有ろうか、同家の甲州代官の一人野田氏の娘を嫁(元禄七年没)にした(素堂著「甲山記行」)。まだ山口信章と名乗っていた時代である。
 この信章が、いつ頃から俳諧に手を染めたか定かでないが、寛文七年には貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友編「伊勢踊」に出句した。すでにかなり江戸の俳壇で名を占めていた。
 
【註】伊勢踊 素堂句
   予(加友)が江戸より帰国之刻馬のはなむけとてかくなん
    かへすこそ名残おしさは山々田 江戸 山口氏信章
【註】素堂の俳諧論 素堂の長崎旅行の目的 
 素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、
「二万の里唐津と申せ君が春」
の句は「仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』の言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。
〔素〕
その後、貞門の石田未得の遺稿を息子の未啄がまとめ、寛文九年に「一本草」として刊行したこの集に人集している。これからすると寛文年間の前半には、当時の江戸俳諧師の重鎮高島玄札や石田未得辺りから、手解きを受けたと考えられ、北村季吟との接触は仕官して以後のことと考えられる。素堂と京都の公家との繋がりについては、述べてあり重複を避けたいが、仕官した事と関係があると考えられる。つまり、仕官先と二条家との間のお使い役をしていたのであろう、その関係から歌学を清水谷家、書を持明院家と習ったのであろう。でないと延宝年間の致任するまでに、定期的に江戸と京都を往来する意味が不明になる。
〔芭〕
芭蕉は幼名金作の時召出されて良精の嫡子良忠に仕え、寛文の始め頓に士分として出仕と直り、宗房名を名乗る事になったようである。主人の良忠は寛文五年に貞徳十三回忌追善を主催したことから、始めは松永貞徳(承応二年没)に手解きを受けたか、卓徳に近い門人に受けていたとされる。宗房こと芭蕉も勤仕者として受けていたのであろう。
寛文二年の歳暮吟が初出で、良忠は蝉吟の俳号を持っているところから、寛文四年以前に北村季吟の添削教授を受け始めたらしい。宗房は良忠の小姓役とされているが、本来の役職は台所用人と伝えられるから、当主良精の奥方役で賄い役であろうか、以外とお役時以外は閑職で自由がきく役職である。
〔大きな家ともなればお毒味役なども、小姓の中から選抜される事もある)寛文四年蝉吟と共に、松江重頼の「佐夜中山集に入集しているが、この時期の重頼は良いパトロンを得るため、俳諧好きの大名・良家に出入りしていたから、重頼にも指導を受けていたかもしれない。
寛文六年(一六六六)に良忠が没し、高野山に遣いをした後から同十二年までの所在が不明で、
「遁世の志をいだき敦仕を願うも許されず主家を出奔」の伝は疑問であり、出奔となれば武家の体面上の仕置きがある。主人が黙殺していたとしても、領内には一歩も踏入れないし、まして実家に立ち入ることも出来ないし、江戸に出て家中の親類に身を寄せるなど、身分制度の厳しい時代の中では出来ない話である。高野山から復命してからは別の役を与えられ、伊賀と京都の間を往来していたのであろう、この間に儒学・医術・神道や仏教・書道などを学んだと云うが、その証がみえない。
寛文十二年初頭、伊賀上野の天満宮に三十番発句合「負おほひ」を奉納して、江戸に東下したらしい。(辞職してからの事かは不明)江戸での寄寓先は今日でも論じられているが、駿河台の中坊家(藤堂家中)に身を寄せたと見るのが妥当であろう。この出府は俳諧師になるためではなく、就職が目的であった。でなくてはこの斯の、江戸での消息が不明で有ることが埋められない、日本橋小田原町の仙風宅に寄宿した(杉風秘話)と云うのも、この時期の事と考えられる。
 寛文十二年春に芭蕉は出府したが、その年の十二月には良忠の後を継いだ、弟の良重も若くして没し、良忠の遺子良長(後の探丸)が嫡立され、後見の良精も延宝二年(一六七四)五月に没した。これより先き三月十七日附で、季吟の俳諧免許と云はれる連俳秘書「埋木」が授けられた。芭蕉が受けたものかは不明だが、「埋木」伝授の通知は良精を経由したものと考えられ、この時に呼び戻されて、職を免じられたと見るのが穏当である。
この「埋木」の奥書に季吟が
  此書 為家伝之探秘 宗房生依俳諧執心不浅 免書写而且加奥書者也
  必不可有外見而巳   延宝二年弥生中七     季吟(花押)
とあるが、この識語には真偽両説あって掲出するに止める。
〔素〕
この年の十一月、公用かで上洛していたと思われる素堂は、季吟と会吟した。(九吟百韻、廿回集・江戸より信章のぼりて興行)この折にまだ京都に居た芭蕉を、季吟から紹介された素堂は、芭蕉の江戸での身の振り方を依頼されたのであろう。素堂の友人で京都の儒医の桐山正哲(俳号知幾に「桃の字をなづけ給へ」と俳号を依頼して、『桃青』号を撰んでもらった。〔類聚考外〕
〔芭〕
蓑笠庵梨一の「菅菰抄・芭蕉翁伝」に依ると、季吟の江戸の門人孤吟(後のト尺)が所用で上洛していたが、江戸へ帰る時に芭蕉を誘って下ったとある。孤吟は江戸日本橋本船町の中の八軒町の長(名主)小沢太郎兵衛で、季吟門から俳号をト尺と改め江戸談林に参加、次いで芭蕉の門人として延宝八年(一六八〇)「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加し人で、当然古くより素堂とは面識が有った。梨一が一説として本船町の長序令が江戸行きを誘ったとも記すが、この説は未詳であるが序令も素堂とは長い付き合いで、正徳三年に素堂が稲津祇空を訪れた時の随行者の中に見える。
〔芭〕
再出府した芭蕉の落ち着き先は本船町(船町)の小沢孤吟方とも、杉山杉風方(杉風秘記)とも云う。延宝五年の立机の事からすると、孤吟方とするのが穏当であろう。
〔素〕
素堂は季吟との会吟のあと難波に西山宗因を訪ねた。勿論、数年前から内藤風虎のサロンに出入りしていたと推察できる。宗因訪問の目的は風虎公の依頼による、宗因の江戸招致であろう。宗因は寛文五年(一六五五)大阪天満宮連歌所宗匠から俳壇の点者に進出し、貞門俳諧の法則を古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて談林俳諧を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。
風虎と宗因との結び付きは寛文二年の磐城訪問から寛文四年江戸訪問と続き、門人の松山玖也を代理として「夜の錦「桜川」の各集の編集に関わらせた。風虎と季吟・宗因・重頼との取次役は、家臣の礒江吉衛門勝盛であったが、寛文十年に没してからは手不足を感じ、上方に明るく風虎サロンに出入りしていた素堂に、その連絡を依頼したと考えられる。
因に垂頼(維舟)の選集に芭蕉は寛文四年以来取られているが、素堂は一向に取られずに延宝八年の「名取川集」に、読み人知らずとして、延宝五年風虎主催の「六百番発句会」の判者となり、その中から素堂の句を異体化として載せているのが初めてである。
大分それてしまったが宗因に戻して、延宝二年は宗因の「蚊柱百韻」をめぐって、貞門と談林派新風との対立抗争が表面化して、貞門俳諧に飽き足らない人達の注目を集めていたのである。芭蕉も談林に興味を示し、卜尺も同様であったと思われる。
 延宝三年五月、風虎の招致を受けて宗因は江戸に来て、「談林百韻」(宗因歓迎百韻)が興行され、十一韻百韻に素堂は信章として、芭蕉は初めて桃青号を名乗って参加した。
前年に季吟より風虎公に「俳諧礼法」が献じられたが、勿論素堂の口添えで芭蕉のサロン入りがなされたと見られ、続いて風虎の息の露沾の「五十番句合」に出句と、以後内藤家のサロンに登場する事になった。素堂も宮仕えの傍ら出来るだけ芭蕉と行動を共にし、芭蕉の引き立て役を務め、友人の松倉嵐蘭や榎本其角を芭蕉に紹介したのである。
〔素〕
素堂は寛文の初め頓に林門を離れたらしく、後々まで親友として交流した、先輩の人見竹洞(寛永十四年生れ)は『(林)春斎の門人の中で随一』と称賛しているから、私塾を辞めてからも常にその周辺に在ったようである。
【註】春斎の門人名簿に素堂(信章・子晋)の名は見えないが、林家の私塾の推移に関係が有るらしい。この私塾は寛文三年(一六六三)十二月に、幕府から弘文院号が与えられて準官学化した。後の昌平校に成るのだが、元禄三年には官学として森島に移されても、入塾にはそれはどの差異は無かったようである。
 私塾を辞めてからほどなく(数年後か)某家に仕官したらしい。この後京都との関係が太くなり、その縁で歌学の清水谷家、書の持明院家で習ったと推察できる。師の春斎は詩歌・古典に明るく、寛文元年に江戸のト祐が「土佐日記」(注釈書か)を版行するのに序を寄せた事を聞いた季吟が、日記の十月十一日の条に「春勝(春斎)に何がわかるか」と批判を書いているが、素堂はその門人である。しかし歌学では季吟とは同門であり、その面での接触は否定出来ない。後に芭蕉の知らない季吟の話を語って(後文紹介)おり、結構緊密であった事が判明する。また漢句による聯俳は林門周辺で盛んであったから素望も得意であろう。
〔素・芭〕
素堂も芭蕉も貞門凝を学び、延宝初年には宗因の新風に触れて興味をしめし、延宝三年の「宗因歓迎百韻」に一座して傾倒して行くようになり、同四年の季吟撰の「続連珠」には芭蕉は門人であるから入集しているが、素堂は門人では無いから人集は無く、息の潮春が「信章興行に」と附旬を載せているだけで、従って素堂は季吟門ではなかった事が判る。
〔芭〕
延宝五年には芭蕉は宗匠と立机したようである。それと共にト尺に紹介された水方の官吏にも着いた。
〔素〕
素堂は同六年の夏頃より公用で西国に下った。職務については不明であるが、翌年の初夏までには復命したらしく、五月刊行の池西言水編「江戸蛇之酢」や未得門の岸本調和編「富士石」に、旅行中の吟が人集している。その秋突然、素堂は致任して上野不忍跡地のほとりに退隠したのである。西国下りの途中大敵に立ち寄り井原西鶴に会ったり、道中では発句をしたりしており、宮仕えに辞める覚悟をしていたものか、はたまた心境の変化がもたらしたものか、その理由は判らない。 
不忍の池のほとりに退いた素堂は生計を立てるためか、諸藩に儒学を講じたり、詩歌を教えたりしていたとされる。従って芭蕉ですら訪れるには手紙をして伺いを立ててからでなくては出来なかった位である。
〔芭〕
芭蕉は延宝五年〔ト尺語りによれば六年〕俳諧宗匠の傍ら水吏の事務方を勤めていたが、同八年冬の初め頃か、職を辞めて深川に隠れてしまった。後に門人の森川許六等の説では
「修武小石川之水道 四年成 達捨功而深川芭蕉庵出家」(本朝文選・作者列伝〕
などとある。幕末の馬場錦江が云う通り、当時の水道工事は町奉行所の管轄で、町方は資材・人夫等の分担調達が義務付けられ、その事務方に芭蕉は就いていた訳で、閑職に近い仕事だが調達した物を現場に行って員数を調べ記帳するのが役目で、工事が追い込みになると大変な忙しさであったようである。延宝度の改修工事は小石川掘上を樋を渡す物も(神田上水へ)加わっていたようで、完成年度の記録は未見だが翌年まで続いたらしい。梨一の「ト尺語り」では
「縁を求めて水方の官吏とせしに、風人のならひ、俗事にうとく、其の任
に勝へざる故に、やがて職をすてゝ深川といふ所に隠れ、云々」
とあり、初代卜尺(元禄八年投)が息子の二代目卜尺に物語った話は、ほぼ真相を伝えていると考えられる。
〔素〕
さて、素堂は何を目的に退隠したのか、甥の黒露が『摩訶十五夜』( まかはんや 素堂五十回忌集)で「ある御家より、高禄をもて召れけれど不出して、処子の操をとして終りぬ」と書している。二君に見えずと云う事であるらしい、元禄初めの事のようである。
〔芭・素〕
 芭蕉は素堂と共に宗囲の談林風をうけてドップリと浸り、漢詩文調の句を作り、門人たちと荘子の学習会を開いたりとし、蘇東坡や杜甫の詩にひかれ、深川の庵にも杜甫の詩よりとった「泊船堂」を号するが、延宝六年には「坐興庵桃青」の外に「素宣」の印を用いていた。勿論素堂の素仙堂から二字を取って「素宣」としたようで、素堂はこの年の春から信章名を「来雪」と改めている。芭蕉が「素宣」の印を用いたのは判らないが、退隠した素堂は延宝八年当初から、来雪号を改めて「素堂」を名乗っているから、この辺りであろうか。芭蕉は漢学者である素堂に、改めて漢詩などの解説を求めていたと考えられる。随分と長い枕になってしまったが、二人のスタートはこの位に止め、貞門俳諧に触れて置く。





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最終更新日  2021年04月17日 18時18分52秒
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