カテゴリ:俳人ノート
夕霧忌 (俳諧歳時記・冬 s22)
一月七日は夕霧伊左衛門で名高い大阪新町の遊女タ霧の忌日である。 此日大阪新町九軒の吉田屋。で盛大な夕霧忌が営まれ、俳優や文楽の関係者、文士などが招かれて、夕霧の居間や調度・遺墨などが展観される。 夕霧は洛西嵯峨の生れで本名を「てる」と云い、京都島原の屑屋四郎兵衛といふ娼家に身を売って「夕霧太夫」となったが、容色のすぐれてゐる上に諸芸に秀で、物腰もしとやかであっだ儒め、たちまち廓の人気を一身に集めたが、仔細あって屑屋が島原を引彿い、大阪の新町へ引越す事となったので、夕霧も共に新町へ移された。 夕霧が大阪へ来てからは殆ど九軒の吉田屋へ揚詰になり、新町初まって以 皐の全盛と謂われたが、美人薄命のたとえに漏れず、大阪へ来てから六年、延宝六年(1678)の一月六日に二十六歳を一期として病歿した。 廓文章の浄瑠璃には「去年の月見は吉田屋で云々」といふ名文句があって人口に膾炙しているが、其他近松の「遊渚君三世相」「夕霧七年忌」「夕霧阿波鳴渡」などの戯曲によって嬌名が傅わってゐる。夕霧の作った句として傳えられているものに 「子の親の手笠いとはめ時雨かな」 というのがある。 なお夕霧は子持遊女として名高かった。近松の書いたものにも皆子供の事が出て来る。
夕霧忌 櫻炭ほのぼのとあり夕霧 夜半 襖絵の花鳥もわかず夕霧忌 秀好 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月19日 17時44分51秒
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