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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月21日
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カテゴリ:著名人紹介

明治人物おもしろ史話 岩倉具視(いわくらともみ)

 

杉田幸三氏著

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

京都出身。公卿。右大臣。

文政八年(一八二五)~明治一六年(一八八三)

  歿年五九。

 

幼名・周丸(かねまる)。異相の子だった。目が幼時から鋭い。三白眼である。頭部も大きく頂上に広揚がある。  先ごろまで百円札に印刷されていた。有名な札幌市の時計台(旧農学校)には『墨痕淋漓』とした彼の書「演武場」の三字が掲げられている。前中納言堀河康親(やすちか)の次男だったが岩倉具慶(ともよし)の養子となる。世話をしたのは伏厚宜明(のぶあき)。「麒麟児を見付けました」と岩貪官へ持ち込んだ。百五十石の具慶は異相と大頭に驚いたが受け入れた。この時期具慶の父具集(ともあい)がいた。後年の具視を見ると、具集の尊王精神が具視に乗り移ったのではないかとさえ思える。

 異相が実際運動に顔を並べるのは安政五年(一八五八)、老中堀田正睦(まさよし)が入洛、日米修好通商条約の勅許を求めたとき。公家八十八人と組んで反対、失敗させている。一侍従にしか過ぎなかったが尊攘運動の先頭に立ち、列参諌争同盟を画策した勝利だった。

 安政大獄後は、大局を保つため朝暮対決の、バランスを採り、公武合体策に転じ、皇妹(こうまい)和宮降嫁に努力した。が、政局の帰趨は尊攘論全盛となり、佐墓所の巨頭として弾劾され、辞官落飾、洛北の岩倉村に蟄居、食にも不自由した。

文久三年(一八六三)三十九歳。髪を剃り友山と号したが、こんなことでへばる男ではない。天運循環の機を窺う。幽居中、『叢裡鳴虫 そうりめいちゅう』(正統)『全国合同策』(正統)を書き、二條関白を通じ孝明天皇のお手元に達せしめていた。

 この間、秘に同志の公家や薩摩藩士他浪士と交わりを続行、一日として怠ることがない。そのため才幹に期待する声が朝野に起こり、慶応三年三月、帰宅一泊という条件つきで入洛を許される。以来、前権大納言中山忠能(ただやす)、薩の大久保利通らと提携、討幕秘策をねる。五年余の幽居を出て参内するのは十二月九日。絞竜は遂に洛北から飛翔した。この十二月九日が幕府政治廃止、王故復古の大号令へ、というクーデターク決行当日に当たった。

 すでに徳川慶喜は、討幕計画すら企てられる時代を察していた。幕府側の『徳川慶喜公傳』は

『これより先、大久保一蔵・西郷吉之肋・品川弥二郎等は岩倉友山・中山・正親町三条・中御門諸卿と会して一大改革を計画し、文久三年八月十八日の故智(こち)を襲い、兵を以て九門を固め、王政復古の蜜秦宸断(天皇の放下)を仰ぎ、発令と共に徳川家を侯列に下し(大名なみ)、二条摂政等の公武合体派を排斥し、自党を以て新政府を組織せんとするなり』

と書いている。

「兵を以て」は「薩長の兵を以て」とすれば、やがてくる十月十四日の討幕密勅のことが理解出来る。蜜勅は下った。が、これを砕くのは徳川の政権返上。徳川政権を倒すための策謀なのだから、朝廷の手に日本統治権を戻してしまえば岩倉、薩・長の改革案は浮く。これが慶応三年十月十四の大政奉還である。しかし、大政奉還といっても組織は昔のままなのである。出てくるのが、西郷・大久保が岩倉に上書した意見。

『王政復古のご発表があると、一混乱は生じます。なにぶん二百有余年間、天下泰平の旧習に染まりきってきた人心です』、ガーンと一発、武力を発動しなければ誰も驚きません、と続けた。

 

   岩倉 その二

 

 出て来るのが徳川家の処置。

『さればこそ去々月十三日(十四日)の密勅をも賜わったのでししょう。どうか異論を排して 徳川氏を諸侯の列に下し、官位一等を降し、尚領地をも返上して朝廷に対して謝罪すべです』前言を平易にした)

やがて史上有名な「小御所会議」がくる。

明治天皇が御学問所に出御。出されたのが維新の大号令。

「徳川内府ノ大政返上、将軍職辞退断然キコシメサレ……摂政、関白、幕府等廃絶……上下ノ別ナク至当ノ公議ヲツクシ……奉公イタスベク候コト」。

岩倉と玉松操(国学者)合作の勅文が読みあげられる。

 幕府も、摂関政治も消えた。席は小御所に。土佐の山内容堂が猛弁護論をぶちあげた。ロがすべり

「二、三の公家の陰謀にして、恐らくは天下を盗もうと幼い天子を擁し……」

とやった。

 岩倉が間髪を入れず噛みつく。

「慎まれよっ、先刻の大号令をなんとおききか。聖上は不世出の英主ぞ。今日のこと一つとして帝のお考えによらぬものなし。幼い天子を擁し天下を盗むとは何たる不敬……」

畳を叩いて怒鳴った。大変なお公家さんである。容堂は失言を詫びた。

 こんどは岩貪がこの機会をのがさず逆襲する。やがて休憩。この時間に、薩摩兵を指揮、御所の警備に当っていた西郷吉之助が参与の岩下左次衛門を呼び、様子をきいた。

 「口舌ではラチがあき申さん。これじゃと岩倉はんに申されよ」

右拳をグンと前に出した。岩下はこれを岩倉に伝える。怪物岩倉はうなずいた。やがて彼は議定の安芸藩世子浅野長勲(ながこと)を呼んだ。同藩は日和見である。

「長勲殿、容堂の暴論をどうお思いか。今日という今日は私も覚悟をしました」

いいながら、ポトリ、と落としたものがある。鎧通しである。ゆっくり拾う。長勲の顔色が変わった。先刻まで容堂弁護論に廻っていたのがこれで変わった。本当かどうかこのあたりが岩倉らしい。結果は歴史にとどめられているように岩倉のテクニカル・ノックアウト勝ちに終わっている。

 それもそうだ。岩倉の意志は鋼鉄の強靭さが真骨頂なのである。明治初年、鉄道建設における岩倉の説得力は妙に迫力があった。

「やむなくご遷都になった。が、ご祖先の山陵は皆関西にある。時々、ご参拝になろう。そのつど今日のような行幸では、沿道の人民が困ろう。さっと汽車でご通過なら何でもない。陛下のご孝心にも鉄道は大切じゃ」

 

   岩倉 その三

 

 逆に上野の丘を崩し、不忍池を埋めよう、という馬鹿者を抑えつけたのは彼である。この鋼鉄の意思は大西郷をも倒した。征韓論の折り、西郷が遺韓(けんかん)大使にきまっていたのを岩倉がひっくり返した時である。岩倉はただ

「反対であるというのがわしの信念じゃ」

と、これをくり返した。

 岩倉の信念は、

「わしの目の玉が黒いうちは断じて……」

である。どうにもならない。西郷もまた、岩倉の太政大臣摂行の報に、万事休す、と諦めた。

 最終会議のあと西郷は、

「勝手にしなされ」

と立つ。さがりながら、

 「1右大臣(岩倉)はようふんばった」誰にいうともなく呟いたという。

 明治七年、岩倉は暗殺されそうになったが、しぶとく生きのびた。だが、天下を勤かした異相の鉄血公卿も病には勝てない。

 明治十六年七月十九日、明治天皇は岩倉をお見舞いになられた。お言葉があった。

 「前右大臣如何」と。

岩倉は拝礼が出来ず、合掌しつつ、

 「臣は陛下の万歳を祈るのみ」と。

この日二人の子息を呼び、

 「生きて既に国家にお役に立てない。今や、死は眼前である。私の死で人々に苦労をかけたくない。葬儀は簡素にしてくれ。墓碑等のこともどうか御先祖を越えないようにしてくれ」

 と遺言した。翌日逝った。五十九歳。国葬である。






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最終更新日  2021年04月21日 05時55分19秒
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