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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月21日
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カテゴリ:山口素堂資料室



 さてここで余り知られていない素堂の晩年について紹介したい。素堂と芭蕉の関係は兄弟以上のものであった事は一部俳諧研究者により究明されているが、それは延宝年間からのことでそれは他の追随を許さないほど密着していた。芭蕉は元禄七年十月十二日に大阪にて死去する。素堂は妻の死の忌中であり、大阪へは行けなかったがその後京阪に訪れる際や句作の中で芭蕉への思慕があふれている。

 

素堂の序文、跋文、詩文、漢詩、和歌などは今まで余り紹介されてはいない。先頃お亡くなりになった清水茂夫先生は素堂について研究しておられて、その著「山口素堂の研究」にまとめてあったが、『山梨大学研究紀要』に掲載されている為に世に出る機会に恵まれなかった。先生も右記の序文や跋文の全容については触れてはいない。この中には「不易流行」などの俳論や多くの俳人に俳諧の方向を示唆する内容を持つものも含まれている。 さらに『松の奥』・『梅の奥』や『素堂口伝』は偽書ではなくこれも多くの俳人たちの参考書として大切に継承されていた。

 

『素堂口伝』の「仮名口決」は信濃の小林一茶も保持して参考にしていたものである。

『利休茶道具図絵』「序」(山田宗著)などは茶道の指南書で宗 は利休継承千宗旦の一番弟子で長い間小笠原家の茶道頭を務め晩年に江戸に暮らした。有名な「赤穂四十七士」が討ち入りした吉良家にも出入りしていた人物であり、当時の超一流の茶人である。その書の序文を著した素堂の名声と地位の高さが忍ばれるものである。 素堂の地位の高さや忙しさは晩年まで続き、芭蕉も生存中素堂を「先生」と呼び、何かと相談していた。素堂と芭蕉の間柄は親密であり、素堂と芭蕉で詠い上げた幾つかの俳諧集はお互いの良さを更に引き出す結果となった。あの有名な芭蕉は『奥の細道』の紀行中にも素堂の書を保持していた事が記されている。

 

 芭蕉の弟子とされる河合曾良(長野県上諏訪出身)と素堂は芭蕉亡き後も親しく交友があり、芭蕉生前中の書簡は素堂 曾良 芭蕉、芭蕉 曾良、素堂で遣り取りされていたものが多く見られる。芭蕉の弟子とされる多くの俳人は素堂の知識や俳論を慕う者も多く、宝井其角、服部嵐雪、向井去来など枚挙に暇がない。

 また時の老中秋元但馬守や風流大名内藤風虎との関係は成年時代からの素堂の地位の高さを示している。

 

六、知られていない素堂像

 

 素堂の事蹟で全く伝わっていないのが、俳論や序文と跋文である。それは松尾芭蕉をはるかに凌ぐ多さと内容である。俳論については『松の奥』(元禄三年)と『素堂口伝』があり、山梨県立図書館に蔵されている。

 『松の奥』は研究者により偽書扱いされていて、『素堂口伝』も殆ど読まれていない。芭蕉と同時代に生きて俳諧の隆盛に尽くした素堂の事蹟は、芭蕉の研究者にとって迷惑な存在であったに違いない。芭蕉が素堂の事を記した書簡なども偽書扱いされているものが多く、全て認めると芭蕉の事蹟の評価に大きく影響するからである。 






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最終更新日  2021年04月21日 17時32分14秒
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