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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月25日
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カテゴリ:戦国時代

 両雄ついに並び立たず 神山潤氏著 1972年

 

 柴田勝家は織田家の出頭人だ。彼が光秀の首をあげていたら、実質的に信長の後継者の位置を獲得したであろう。事情やむを得なかったとしても、その功を秀吉にさらわれたことは、あきらかに彼の体面を傷つけ、威信の失墜となった。

逆に秀吉の勢力は増し、織田家中は勝家、秀吉の両派に分れる形になった。

 勝家は清洲に家中の大名を召集して、信長の跡目を決めようとした。その席で勝家は三男信孝を推し、秀吉は信忠の子三法師丸を推した。信忠も京都で死んだが、信長の嫡男である。嫡男に子がある以上、それに継がせるのが筋目として正しいと、秀吉は主張した。

 秀吉の意見が通って、会場は終った。またしても勝家は敗れたのだ。その場はそれですんだが、両雄ついにならび立たず、やがて賤ケ岳の合戦となり、勝家は北ノ庄城(福井県福井市)で死ぬことになる。

 勝家の妻お市の方は信長の妹、絶世の美をうたわれていた。彼女は浅井長政に嫁して三人の女児をもうけたが、小谷落城の時、子供たちと城をのがれた。信長死後、信孝のとりなしで、三人の女児をつれ、勝家と再婚した。

 秀吉がお市の方にぞっこん参っていたという伝説がある。勝家にとられ、とりなした信孝と勝家を憎んだというのだ。北ノ庄落城の時、勝家は逃れることを勧めたが、お市の方は承知しなかった。

 「ご一緒にここで死にます」

 生き残って、秀吉の変にさせられてはかなわないと、彼女は考えたのであろうか。三人の女児は逃し、寄せ手の篝火を天守閣から見下しながら、最後の一夜を静かに酒を酌みかわし、勝家と共に自決した。勝家の慰めは、せめて、女の上の勝利感であったろうか。逃れた三人の女児は、長女が後の淀君、二女が高極高次の妻、三女が徳川二代将軍秀志の妻、三代家光の母である。

 

両雄の一雄は亡びた。信孝も亡びた。秀吉は天の加護を生かすために、大鳥の羽ばたくように、侵略と平定を重ねた。強敵毛利も、上杉景勝も頭を下げた。わずか一年の間に、彼は信長の遺産と、さらに広大な地域を勢力下においた。

しかしまだ二人、目の上のコブがいた。織田信雄と徳川家康である。信雄は舞の上手だけが得意の庸劣な人間だが、信長の威光はまだ彼の身のまわりに漂っている。

その背後にいる家康は、信長亡き後、秀吉が心から恐れた人間である。

 勝家を始末して間もない天正十一年(一五八三)五月、秀吉は石山本願寺の旧地に入った。そこを修繕するのに秋までかかり、それから本式に大坂城の建築にとりかかった。この工事は一日三万から六万の人夫を使って、完成までに三年を要したが、その間に小牧の戦いが起った。

 信雄が、禿吉に買収されたとして、老臣三人を斬った。これが戦いの発端である。家康は迅速に兵を動かし、清洲で信雄と打合せ、清洲から一里半の小牧に陣を敷いた。天正十二年三月のことである。

 この戦さはそうたいしたことにならずに終ったが、一時は

「天下動乱の色あらわる、いかに成行くべきやらん」

と、公家坊さんも怯え、人心すべて恟々とした。何しろ天下は二分され、宗教集団まで動員された。 戦いは禿吉方が不利であった。小牧の堅陣がぬけないので、三河に入って背後を突こうとして、池田勝人父子、禿次などが問道から侵入したが、家康に裏をかかれ、禿次は長久手に二千五百の戦死者を残して敗走、池田勝人父子は戦死した。

 これ以後、両軍はにらみ合いの状態になった。家康の方は小牧の堅陣にこもって動かず、秀吉の三倍の大軍もこれをぬく自信がなかった。小牧はそのままにして、秀吉は信雄の居城加賀野井城を攻めおとし、さらに竹ケ鼻城を手中におさめた。

 秀吉も家康も、とことんまでの熊茶な喧嘩はしなかった。長久手で多くの首をとられたお礼に、秀吉は右の二城をわがものにした。これで五分の別れ、秀吉軍も家康軍も撤退して、天下の動乱を心配された戦さも、あっけなく終った。

 その年の十月、秀吉は信雄に使者をおくって、和解を申しこんだ。人をたぶらかすことの巧い秀吉の手に乗って、信雄は和解を承諾した。十一月十一日、桑名の西にあたる矢田河原で二人は和睦の誓いをした。この時秀吉は平伏して、

 「今日よりは全く主君と仰ぎ申すべし」

 などと信雄をおだてあげた。

 

 信雄は家康にひと言の相談もなく和解した。家康は出しぬかれた形だが、苦情はいわなかった。今度は仲裁役にまわった信雄が、禿吉に人質を出して和議を整えるように動めた時にも、家康は拒まず、一子於義丸を質として送った。秀吉は十二になる於義丸を元服させ、羽柴秀康と名乗らせて河内国に一万石を与えた。

 これで和平は整ったが、家康は秀吉に対し、敵国の態度をくずさなかった。

 

天正十三年(一五八五)春、秀吉は紀州(和歌山県)に兵を出し、信雄、家康と結んだ雑賀党、本願寺門徒征伐にとりかかった。一か月で平定、ついで四国の長曽我部元親討伐のために、八万の軍勢をもよおした。長曽我部も家康に通じ、雑賀党と共に大坂を突こうとした仲間だ。

 だから、長曽我部討伐も、家康のつばさの一枚をへし折る意味があった。

七月、元親降伏、秀吉は彼に土佐一国を与えて、四国を分割した。息つく間もなく、今度は越中(富山県)の佐々成政を攻めた。彼もまた家康に通じた一人である。成政は簡単に頭を下げた。

 佐々成政の前に、秀吉は関白になった。豊匝姓を名乗ったのはこれからである。氏も素生もない土百姓から、関白になったのだ。有史以来の出世頭である。

 ところで家康だ。於義丸を人質に出した上に、彼のつばさであった雑賀党、長曽我部、佐々など、みな秀吉に頭を下げたのに、家康だけは恭順の意を表さなかった。禿吉は妹朝日姫を家康に娶せることで、家康を懐柔しようとした。家康もついにそれを承知した。

 朝日姫は秀吉の母と継父筑阿弥の問に生れた子供だ。佐治日向守の妻であったのを、無理やり離婚させたのである。朔日姫四十四、家康四十五であった。秀吉はなおその上、母を家康の人質とした。家康は始めて大坂に出て、秀吉に恭順の意を表した。

 これで家康の方はひと安心、秀吉は大軍をひきいて九州におし寄せた。島津義久も坊主になって軍門に降った。

 秀吉が京都に大仏殿建立を思い立ったのは、天正十四年(一五八六)であるが、これも大坂城同様、派手に大がかりな工事であった。全国から巨石、名木を集めた。棟木は富士のふもとにあったのを選び、この一本を大坂に運ぶだけでも、人夫五万人、金千両を要した。十七年に、木造に漆を塗り、彩色をほどこした十六丈の大仏と、大仏殿が落成した。

 この大仏造営に必要な、釘その他の鉄具をつくるとの口実で、秀吉は民間にある刀、槍、鉄砲など、一切の武器をとりあげた。これは寺社、町人、百姓まで、徹底的に行われた。民間の一揆、百姓の野武士化をふせぐための処置であった。

 

次に全国の検地を行った。命を拒んだ場合は、城主は城に追い入れてひとり残らず撫で斬りにする。百姓も一郷二郷まとめて同じく撫で斬りという、きびしい命令で行われた。

 天下統一は成ったが、まだ完全ではない。小田原の北条が残っているし、奥羽の伊達もはっきりしない。天正十八年(一五九〇)春、秀吉は大軍を指揮して小田原をかこんだ。この役について、こんな話が残っている。

 

織田信雄が、北条と示し合わせて前後より挾み討ちにすれば、まちがいなく秀吉を討つことができると、家康にいった。そんなことをして天下の信を失うことはできないと、家康は答えた。秀吉がわずか十四、五人の部下と共に陣中にいたことがある。井伊直政が、今こそ秀吉を討つ時だといった。籠の鳥は殺せない、と家康は答えた。

 

こんな話が残るところを見ると、秀吉と家康の聞に、どこかしっくりしないものがあって、それがはたの目にもひびいていたのであろうか。家康の二女徳姫が北条氏直の妻であるというような関係から、そんな話が生れたのかも知れない。

 

また、有名なのは一夜城の話だ。実際は八十日かかった城であるが、できあがった時前面の樹木を伐り払ったので、北条の方からは一夜にしてできあがったように見えた。それで一夜城の名が残った。

 小田原城は七月に入ってから落ちた。落城のひと月前、伊達政宗が小田原にきて頭を下げたので、この方も落着した。

 一世紀にわたる乱世の間にも、商業は発展し、鉱山はひらかれた。その富の集積が、桃山時代の絢爛な文化となった。

朝鮮役は、国内を統一し、巨大な富をにぎって、栄華をきわめた秀占の、相僕でいう勇み足のようなものではなかったか。

 何ごとも思いのままになった秀吉に、唯一つ欠けたのは、子供のないことであった。

ところが天正十七年五月二十一日、愛妾淀君が淀城で棄君、鶴松を生んだ。秀吉五十四、始めての子であるが、鶴松は三つで死んだ。秀吉は落胆のあまり、東福寺に行ってもとどりを切った。

 鶴松が死んだので、秀吉は秀次を養子にして、関白職をゆずった。秀次は秀吉の姉日秀と三好一路の間に生れた子で、秀吉の甥にあたる。長久手では無謀な行動のために家康に大敗して、秀吉のきびしい訓戒を受けたが、四国に従軍して近江で四十三万石、その後織田信雄の旧領尾張伊勢を与えられて百万石、聚楽第に住んだ。

 禿次に関白職をゆずったのは、もはや子供は生れないと諦めたからであろう。しかし、文禄二年(一五九三)八月三日、淀君は大坂城で秀頼を生んだ。これから秀吉と秀次の間がおかしなことになり、禿次叛逆の噂が流れ、高野山で切腹、妻妾二十九人が三条河原で斬られて、畜生塚が建つようなことになった。

 禿吉の晩年は不評であった。外には片づかない朝鮮役があり、内には大規模な土木の工による苛斂誅求があった。秀吉のたくましいエネルギーに、民間資材も消費しつくされる観があった。

秀吉の諸大名も、正妻北政所党と、淀殿党に分裂、それが朝鮮役にも影響した。慶長三年(一五九八)八月十九日、秀吉は死んだ。六十三、死ぬ前に五大老に幼い秀頼のことを託した遺書は、今日もわれわれの胸を打つ。

  「返す返す、秀頼のこと頼み申候。五人の衆、たのみ申上候。

委細五人の者(五奉行)に申しわたし候。なごり惜しく候。以上」

   秀頼こと成り立ち候ように、この書きつけの衆として頼み申候。

何事もこのほかにはおもいのこす事なく候。かしく」






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最終更新日  2021年04月25日 15時42分54秒
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