カテゴリ:野口二郎氏 文集
日日新たにしてまた日に新た 昭和三十七年一月・やまなし
『野口二郎 文集』昭和51年 編者 野口秀史氏 発行 山梨日日新聞社
一部加筆 山梨県歴史文学館
われわれのごとき民主的生活様式においては、われわれの一人一人が、わが国がどんなことをしているかということについて、正確な情報を得ることが極めて必要なことであります。われわれの政府及びビジネス界におこる日日の出来事は、すべてわれわれの生活に影響してきます。 以上のような日日の出来事を正確に報道する責任はわが国のフリー・プレスの双肩にかかっております。そして、この重大な責任は、この仕事に献身する選ばれた男女によってのみ、遂行できるのであります。 ◇ これはハワイ・タイムスが眸年十T月十八日に発行した低給二万号と放送界進出の記念号に寄せた、ハワイ州ウイリアム知事の祝辞の一節である。 私たちの山日が、ことし七月一日創立九十周年を迎えるので、日日新たにしてまた日に新たなるべき社名の下、同人一同いよいよ反省して、一段と向上を期さなければと思っていたおりから、この祝辞をフト目にしたので、そのサワリのところを、ここに紹介したのだが、州知事が、その立場から「わが国」「われわれの政府」と言っている下に「わが県、わが市、わが町村」と付け加え「われわれの自治体」と入れると、わが山梨県にもそのまま通用しそうで、おのずから身の引きしまるのを覚える。 この点、山梨放送の同人にとっても報道の責任には全く変わりはない。いや、世人からその速報性を買われているだけに、むしろヨリ慎重に、ヨリ公平にその正確さを期さなければならない。 ◇ 山日がわが地方紙の先頭に立って、創業九十年の記念日を迎えるのに対し、山梨放送は宿望の富士吉田テレビ局の開設を目の前にし、また六月には再免許とFM放送が具体化しそうである。 これは、大きく言えば近づく東京オリンピックに備える地方民放局の義務である。私たちは五輪馬術競技の野外騎乗を富士岳麓に誘致する努力をなお続けているが、万一これが空しくなっても、東京大会を機会に富士登山する外人客は、けだしおびただしい数に上るであろうし、中央線の複線化と中央高速度自動車道の実現は、県の開発計画の進展と相よって、五ツの湖畔(富士五湖)の観光的ウェイトを高度に飛躍せしめずにはおくまい。この岳麓にテレビ中継局の出現は、小さく言えば、県の開発方針への山梨放送の協力である。 ◇ 勢いのいいトラ年は、年頭から恐ろしく忙しい気構えである。故吉田義輝翁の一木句碑の建設も、市川海老蔵丈の十一代目団十郎襲名興行も、ことしのメモから取り除くわけにはいかないし、国体誘致に伴う選手強化は本格的の二年目に入る。せめて月なかばからは 「初場所やうちの茶の間の富士錦」 を楽しみたいものである。
山日世紀への行進 昭和三十七年五月・やまなし
山梨県史によると 「明治四年十一月二十日、甲府県ヲ改メ山梨県ト為ス」 と見える。 すなわち「山梨県」の誕生である。山梨日日新聞の前身「峡中新聞」第一号が半紙二枚折り八枚の小冊子形、木版刷りで
社中謹テ四方ノ諸彦ニ告ス 今般蒙官許峡中(こうちゅう)新聞上木シ無根ノ浮言匿名ノ投書ヲ省 キ務テ事実ヲ撰ブ刊行スベキ新聞アラバ 書集メラレ其住所姓名ヲ記シ売弘所へ寄セ給ハン事ヲ希望ス
と初名乗りをあげたのはその翌年、つまり明治壬申五年(一八七二)七月一日である。私は残念ながら、その官許状をなお探し得ないが、明治新政府は二年二月八日初めて新聞紙印行条例八頂、同付録五頂を制定しているのでこれに準拠した出版届に「出板可致事東京開成所印」と張り紙されたものではなかったであろうか。 この同じ五年七月一日甲府郵便役所が創設され、八月地租改正による大小切騒動が起こり、九月十七日山梨裁判所がお目見えして、初めて行政と司法とが成立した。思えば古い話だが、その間九十年、山梨日日新聞は文字通り山梨県と県民の皆さんと雨、風の苦楽を共にしつつ今日に至ったのである。 その曲折の跡は新聞題名の変遷にもそれと察せられるのであるが、当時月刊の「峡中新聞」は、明治六年四月の第九号から「甲府新聞」と改題すると共に句刊行となり、七月の第二十号から鉛活 字を使用、翌年七月には本処を八日町から常盤町に移し、西南の役を前にしての九年一月からは隔日発行となり、同年二月には日刊「甲府日日新聞」と改称、当時発行部数約五行二十礼節(日本新聞歴史による)と記され、現在の「山梨日日新聞」となったのは、その後、十四年一月四日からである。 中央線が人口四万の甲府に達したのは、明治三十六年六月十一日であるが山梨日日新聞は、その前年、常盤町から駅に近い現在の百石町に移転している。新聞発送の便を思っての進出であろう。その問、社長は
▲ 初代 内藤伝右衛門、明治五年七月(一八七二) ▲ 二代 野口英夫、明治十三年十一月(一八八〇) ▲ 三代 野口二郎、大正十一年二月 (一九二二)
私の代になって一番えげつなく、あと昧の悪い思いをしたのは、昭和十五年から十六年にかけての新聞統合である。言論報国の名のもとに行われた「峡中日報」「山梨民報」「山梨毎日新聞」など、同業故紙の併合で、最も困却したのは昭和二十年七月六日甲府空襲による社屋の全焼であった。 幸い大方の後援によって、二十三年九月現在の施設が成り、二十九年七月一日には山梨放送ラジオの、三十四年十二月二十日には同テレビの、それぞれ開局を見た。
▲ 四代 和田方弥、昭和三十二年五月(一九五七) ▲ 五代 野口英史、昭和三十六年三月(一九六一)
昭和四十二年には中央線の甲府までの複線化と、自動車中央道の河口湖町までの竣工が約束されているが、山梨日日新聞は、これを待つことなしに、山梨放送、印刷又新社とスクラムを組んで、甲府駅北口に山梨文化会館を建設、九十年来の皆さんの負託に答えつつ世紀への行進を続けようとしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月27日 09時40分20秒
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