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頴原退蔵先生 中村幸彦氏著
『国文学』十月臨時増刊 解釈と教材の研究 「国文学への招待」「国文学者名鑑」 昭和42年発行 学燈社 編集・発行 保坂弘司氏 一部加筆 山梨県歴史文学館
先生の学問は、一言で評すれば豊瞻(ほうせん)である。その対象の近世文学全般から中世に渡る広範さは、今更言う必要はあるまい。 日本の西随(せいずい)五島の藩儒医の家に生をうけて、長崎師範時代から漢詩を試し、東京高師から京大の国文科に進学の時、児鳥献吉郎先生の御不興を蒙ったと言う。その頃まではむしろ漢文学を得意とされたようである。もっとも渡辺水巴吟社で、燕子の号で、句作を始めたのも、高師時代であるから、俳諧への関心は既に抱いていたのであろう。 京大で藤井乙男先生に接したのが、勿論、その学問の方向を決定的にした。その傾倒ぶりは、「君等には藤井先生の偉さはわかるまい」と、よく話されたのにもうかがえる。酒盃の間お二人で、楽しそうに書物の話をされた様が、今も髣髴(ほうふつ)と思い出される。 博覧多識や資料への厳審さは、師ゆずりであるが、晩年、近世語研究を志してからは、たださえ広い読書範囲は、近世の書物全般に広がった。そのマスターが又早かった。 一つの対象に取組めば一年で恰好がつき、三年で学界の上に出られると、よく我々学生を激励されたものである。その結論の出し方は、今の若い研究者は、少しあきたらぬ点を感ずるかも知れない。と言うのは、近頃の学界には、資料がなくとも、研究者の頭をもって、微細にまで穿鑿(せんさく)する風があるからで、しかしこれは危険がともない、時に寒痩の感がないでもない。 先生の如く、博捜の資料の上に立って、止まるべき所に止り、他は余意に残すべきはずのもので、豊かさはそこに生じる。文章は癖がなく理はよく通る。語彙は豊かで、興に乗ずれば十分の詩味をもたたえる。その原稿が、これも早く書かれた。あの内容に富んで、理路整然たる数々の名論文は、全く下書きなしで出来たものである。 晩年方々から専門外の文章を望まれる時になって、「作文だからなア」と、てれくさそうに下書きをされるのがおかしかった。この豊瞻(ほうせん)さは、先生の天賦と平生の努力の結果であるが、奥さんのお話では、先生は諸事に楽天的で、生涯楽しんで好きな学問をされたと語られた。先生も若くなくなられたし、筆者などまだ不注意で、先生のお口から、その人生観や精神史をうかがう機会がなかったが、奥さんのお話のようなお気持も、その仕事の豊かさの原因であったのであろう。 先生は昭和二十三年八月三十日、満五十四でなくなられた。ここに先生の御逝去を思えば、又しても、生涯の仕事とされた、近世語辞書の完成を見なかったことが、残念でならない。天は何でもう十年の齢を先生に与えなかったのであろうか。その後二十年、筆者など、先生の遺業をそのままにして過ぎて来た。自ら顧みて慄然と慙愧と焦燥を感じることがある。先生の詩句各一を末にかかげておこう。 「薜蘿禅堂帯朗雲。 深院境霊忘世紛。 百尺層山斜日落。 清風樹底梵音聞」(「山寺落日」十七才作)。
「海女深く息づく秋の潮哉」(「志摩にて」、晩年作)。
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最終更新日
2021年04月28日 06時04分59秒
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