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2021年04月30日
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カテゴリ:飯田蛇笏の部屋

蛇笏の文学と風土 と蛇笏 
  対談 飯田龍太&上田三四二

 

『俳句』四月号 角川書店 昭和五五年

 

一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

飯田 わたしは、もちろん生れる前ですから若山牧水なんていう古い方は存じ上げないんですが、非常に印象的ということになると、前田普羅さんです。これは戦後間もないころ。水原さんとか、

富安さんとか、中村草田男さんも加藤邨さんも、俳句の方々はたくさんお見えになりましたがね。

 前田普羅さんの場合は、別にわたし、そこに座を同じくしてお話伺ったというわけではなかったんですが、非常に印象的だった。というのは、おやじとほぼ同年ですね。正確にいうと一年上、年譜の上では前は一年後のように書いてあったのが、実際は一年早く生れられているんです。

おやじは明治十八年、ところ、が正式なその後の調査によると十七年です。ただ、俳壇的な出方はちよっと前田さんの方が後になりますから。まアある意味では見事といいますか、非常に仲が良かった。

 前田普羅さんの非常に身近な人が、わたしの親戚で医者かおりまして、もともと「雲母」だったんですが、普羅さんの作品も非常に好きだと。それじゃ君、少し普羅さんの方を応援して上げたらどうだというようなことが、大正のおわりか昭和の初め頃ありましてね。それからずっとその人は普羅門におって、年とってから郷里の境川へ帰って来て、ここの診療所長をしておって、まア、んな関係もありまして。「面夷」という雑誌をやっておったんだけれども、戦争中休刊になった、雑誌の統廃合で。それじゃ作品を、「雲母」にわたしと一緒に出したらどうかと、友だちですから。それで前田普羅さんもそれじゃそうしようかということになった。戦後になって自分も雑誌をやりたいというような気持も強くなったし……。

 

もう一つ、これは普羅さんが帰られてからおやじがわたしにふッと洩らしたんですが、どうも普罹が結婚するらしいって、深刻な顔をしていましたね。(笑)どういう意味で深刻かそのときわからなかったんですが。というのは二人で俳句以外にもそんな身辺の相談などもあったんじやないでしようか。そのとき普羅さん非常に意気軒昂としていました。ところが、帰るときの後ろ姿に、その意気軒昂となんか違うものがある。うまく説明できないんだけれども、その作品と、前田普罹という人のその晩年の姿とが、いつもこう、いったりきたりして……。

 

 上田 重なって。

 

 飯田 重なりましてね。それがすぐ

「秋風の吹きくる方に帰るなり」

というような晩年の作品に結びついてそのときの結婚も結果としては芳しくなくて、晩年は恵まれなかったようでしたね。そう頻繁に行き来するということはなかったようですが、おやじも普羅さ

んの作品が好きで、なにか心許した友人というふうな印象をお互いに持っておったんじやないかという感じ受けますがね。

 まア、今度上田さんわざわざいらっしやっていただいて、誠につまらない山村だという印象だろうと思いますが、十年、十五年ぐらい前はもっとひどい山坂だったんです。アツという間に舗装されたりして。でも、その前はこれから三十分ぐらいくだった所からは大変な山坂だった。それを喘ぎ喘ぎ登ってくる。

 

 上田 小林富司夫さんですか、『蛇笏百景』の中で、あの方は何回もここへ来ていらっしやるようですけれど、そのときの道順がやはり、どっかでバス下りて、三十分ぐらいかかって後ろを見ながらだんだん坂を登ってきて、ここへ到着する、そういうふうに書いてありましたね。

 

 飯田 小林君の場合は戦後しばらくたってからの関わりなんですが、戦前はもっとひどかった。特に初期の蛇笏の作品に思いを致す場合は、非常に辺鄙な片田舎でしたから。今の境川の現状を見てそのまま当てはめると、ちよっとこう、作品内容に大仰なところが見えてきますね。

 

 上田 きようもさっきちよっとあたりをご案内いただきましたけど、後ろの狐川も岸の竹藪が切られて護岸工事ができていますし、まア、かなり様子が変わっているでしようが、後山ですか、後山ですか、後ろの丘を上がりますと桑煩がありまして、そこがかなり広い斜面の桑畑で、そこから盆地の向うに南アルプスの嶺がみえますが、あれはどちらの方向になりますか。

 

 飯田 あれ西ですね。

 

 上田 ちよっと霞んでいましたけど、ずうっとよく見えましてね。「芋の露連山影を正しうす」、連山という言葉がわれわれ読者の頭の中にあって、離れない。その句を思いながら眺めておりまし

た。実際にはあの句は後山からの眺めではなくて、どこかお薬かなにかを取りにいらっしやる途中で詠まれたとかいうことですね。

 

 飯田 そうなんです。行き着けの親しいお医者さんがこの隣の村におりましてね。そしてちようど大正三、四年頃はやや健康が旧に復しつゝあったころですね。

 話が前に戻りますが、蛇笏に触れてこう、改まってお話を伺ったり、こちらからもまたお話するというのは、これがおそらく初めてだと思いますね。(笑)

 

 上田 俳人の方は比較的そういうことは、なんというか、玄人ですからね、どちらかといえば避けて通られるようなこともあるのかもしれません。そこへいくとわたくしなどは素人の臆面のなさで、(笑)何でもお聞きしたいと思うんですけど。

 

 飯田 今おっしやった大正三、四年頃の作品には二つの原因があるんじゃないかと思います。高浜虚子さんが俳壇へ復活したという、それに対して自分も意欲を燃やした。それからもう一つは、健汝に自信がついたこと。また、明治の末にこちらへ帰って来た理由はいろいろ詮索されますが、わたしも改めて、おやじ何で山ン中へ帰ったんだということか一度も聞いたことありませんしね。それは一番辛い質問でしよ。だからそういうこと聞いたこともないし、本人もそれに触れたこともないから、一切の書物を売って学業放擲し、なんて、なかなかかっこいいことを言ってますが。まアそれにはそれでいろいろ世俗的な、具体的な理由もあることはあるんです。しかし根本は健康上の問題でしようね。

 

 上田 そういうことで。

 

 飯田 当時は十二貫ぐらいしかなかったですからね、いまの目方でいうと四十五キロですか。そして自分は結核だと思いこんでいたんだ。これは思い過ごしだったんですがね。

 結局しかしそういう健康に対する不安、それが四、五年のあいだ毎日近くの山を歩き回ったり、秋になると茸とりにいくというようなことをしたりして、大正に入って二、三年だっと自分の健康にもかなり自信がついた。たまたまそのとき医者にいったのもちよっとした目の病気ですからね。風景が鮮やかなというだけでなくて、そういう裏から支えるものがあった。で、案外さらりと生れたんじやないでしようかね。






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最終更新日  2021年04月30日 06時25分32秒
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