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2021年05月02日
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カテゴリ:飯田蛇笏の部屋

蛇笏の文学と風土 秀句は実景を超える 対談 飯田龍太&上田三四二

 

『俳句』四月号 角川書店 昭和五五年

 

一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

上田 あの句を読んで一番感じるのはやはり風土の問題で、実際それはきょう、そういう所を実際に見せていただいたわけなんですけど、確かに連山はこう、その形のままに連なってるわけなんですね。

つまりあの句ができたのは連山があってできたんですけれども、逆にいえば、あの句ができて連山の方が影を正したという、そういうところもあるんじやないかと思う。われわれは連山を見ると

きに、あの句をどけては見られなくなっているわけですね。連山の方が句によって正されている。そういうところがある。それがぼくは文芸の持ってる力だと思いますね。

 いい例えではないかもしれませんけど、木曽路なんていうとすぐ藤村の「夜明け前」の最初のところが浮かんできて、それをどけて木曽路を考えることができないような形になりますでしょう。それからセザンヌとサン・ビクトワール山との関係もそうですね。それ、セザンヌがたくさん画いていて、実際の山はそんな特別な山じやないんですが、セザンヌが描いたためにその山が生きているというところがある。その山というのはセザンヌの絵と似ているけれども、ちよっと違うんですね。どっちがほんとうのサン・ビクトワールかというと、変なことになるけれども、やっぱりセザンヌの絵の方がほんとうなんで、それをもとの山の方が真似ているという……。

 

 飯田 ああ、わかりますねえ。

 

 上田 そういう妙な関係が成立しますね。「連山影を正しうす」というのも同様で、それを通さなきやわれわれに現地の連山が見えてこないというところがある。そういうのがすぐれた作品と対象との関係じゃないかと思います。

 

 飯田 そうですね。そういわれたら、作者にとってはそれほど有難い言葉はないでしようね。また、特に俳句のような短い詩型は、やはり自然に貫禄を什けるぐらいの作品でなければ優れた句とはいえないかもしれませんね。

 たとえば、わたしもそういうこと一度触れたことがあるんですが、前田普羅の

「奥白根かの世の雪をかがやかす」、

あるいは

「駒ケ嶽凍てゝ巌を落しけり」、

まアここに見えたときの一連の作品ですね。五句とも。

「茅ケ嶽霜とけ道を糸のごと」

とか、先ほどちよっとご覧なっていただいた

「茅枯れてみづがき山は蒼天に入る」というのもね、あの一連の五句、前田普羅の代表句というのだけれども、実際われわれ朝夕白根を見、甲斐駒を見ても、実景はその句にはかなわない。(笑)奥白根なんていう言葉は普羅の造語ですからね。奥白根も前白根も中白根もありやしないんですよ。しかし奥白根といわれるとある距離然も生れるし、そして「かの世の雪」というのは奥という言葉にピッタリで。大変な気持の昂揚があって、しかも昂揚をあらわに感じさせない表現の巧みなところもありますしね。

 やはりいま上田さんおっしやったこと、わたしなんかここに住んでおって、自分の作る作品も幾らかそういう自然により近づくような傾向があるんですが、自分の作品と、そういう優れた作品を比較して見たときの、作品の位のちがいというものがどういうところから生れてくるかというと、ただ描写するだけだとか、見事に描くとかいうだけでないなにかがあるように思います。対象そのものに貫禄がついて、白根山でも甲斐駒でも、野でも山でも川でもいいけれども、向こうからこう、ウン、よくやってくれた、ありがとうといわれるようなね。

 

 上田 そう。そう。

 

 飯田 それで、いまいわれたこと、なるほどなアとしみじみ感じますが、詩には、わけても俳句にはそういう要素が強いんじゃないでしようか。そういうこと感じたのは先ず前田普羅の作品と、それから高浜虎子の

「遠山に日の当りたる枯野かな」

という句。

 

 上田 ごく初期の句ですね。

 

 飯田 たしか明治三十三年の作品ですから、年配からしても二十代ですね。でもその遠山というのはどこの遠山であろうとかまったことないと。しかし作品の上ではやはり厳として存在するというような、二重構造みたいなところがある。遠山の句は非常にソフトな作品、連山の句はかなり意気軒昂とした作品ですけど、一つの共通点はある。ただ、そういう作品は、必ずしも意図して生れるというものではないようですね。

 

 上田 そうでしようね。虎子の「遠山に日の当りたる枯野かな」というのは、今ソフトとおっしやっだけど、ほんとにそうで、どこということなくいい句で、すっと入ってくる句だと言えますね。

 それから蛇笏の場合、蛇笏の晩年にそういうソフトな句があるように記憶していますが、連山の句なんかはむしろ非常にハードな作品でして、その恐ろしい視力というんですか、まア目だけじやありませんけど、いわゆる心眼といってもいいようなもので「正しうす」というのを見ているわけですね。

 それにもう一つ、すぐ思い出すのは、代表句で

「極寒のちりもとどめず巌ふすま」

という句がございますね。その【ちりもとどめず】というのもね、同じような状態で、なんか岩が蛇笏の目にこう押されてですね、ちりを全部払ってしまったというぐらいの、(笑)岩の方が、岩襖だからほんとに堂々とした岩なんだけど、その句によって泣か与えられているので、心眼と心力というんですか、目と心と一緒になったものがぐッとそこへ注ぎ込まれて、そしてその句ができたと思うんですね。それによってほんとに、自然がなんかこう、身繕いをしましてね、それは真実の身繕いなんです。

 






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最終更新日  2021年05月02日 07時39分05秒
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