カテゴリ:飯田蛇笏の部屋
蛇笏の文学と風土 直観を支えるもの 『俳句』四月号 角川書店 昭和五五年
一部加筆 山梨県 山口素堂資料室
上田 そのことでちよっと思いつくのは帆の句が割合あるのに気が付きました。新月は帆にほのめきぬ、なんて句。
飯田 それはあります。あります。
上田 「潮干舟新月は帆にほのめきぬ」。 これ、好きなんです。それから海の句も割合出てくる。あれ、どこですか、湘南かどっかへ避暑にいらっしやったようなこともあったのでしようか、割合海の句があったりして、帆とか海とか、そういうのが蛇笏の一種のロマンチシズムの、外へ出るとか、そういうものの一つの形かなと思ったりして読んだんですけど……。 ちよっと前へ戻りますが、先ほどの自信がなかったということですね、「連山影を……」で。これは短歌の方でいいますと、迢空の代表作‥で、 「葛の花 踏みしだかれて、邑あだらし。この山道を行きし人あり」。 これは奥熊野での作という説と壱岐での作という説とかあって大体は壱岐ということになっているんですけど、それはともかくとして、これは迢空もあまり自信がなかったといいますね。人にいろいろいわれるまでは、自分では代表歌という気はなかった。だんだんいわれてきて、それから自分でも短冊に書いたりして、結託、代表作になった。 だから先ほどの「連山」も、できたときはぼくは「できたア」という気がされたんじやないかと思ったんだけど、そうじやないというのは面白いですね。
飯田 短歌の場合もそういうことあるわけですね。
上田 作品のできの、一種の偶然性というものは俳句の方が大きいと思いますけどね、飛躍がありますから。だけど短歌もやはり同じように、作者の自信とそれが名歌として残り評価されるということとは必ずしも合わないんですね。
飯田 ただ俳句のような短い詩型の場合は、それが偶然という形で表われても、支えるものには必然がありますね。
上田 そういうことですね。
飯田 あの前後の蛇笏の作品にもそれがはっきりしておるし、それから虚子の場合にも非常にはっきりしておりますね。明治三十三年前後、非常に若い頃でもやはり立派な作品が周辺にありますしね。
上田 それから先ほど安住しきれなかったという、それは大事なことを聞いたという気がするんですけど、芭蕉の場合だと晩年近江に住んだりして、割合に郷里に近い所におりますね。それからだんだん郷里に近づくような形で、本当は西への旅のつもりだけど、大阪で亡くなりますね。 一方、蛇笏の場合は最後まで、家郷を離れるという気はないわけですね。安住しなかったといっても、出てしまうとか、そこまでは考えていらっしやらない。
飯田 それは「落葉ふんで人道念を全うす」という、その方の重荷の方が常に大きかったんでしょうかね。
上田 それで押しちゃうわけね、押し殺すわけですね。
飯田 ええ、押し殺すんです。ところが全部は押し殺せないでしよう。だからそれがいつもじわじわッと、滲み出てくる。というのはね、例証しては失礼になるかもしれないんですが、堀口大串先生がお見えになったときに、こっちは素人だから図々しい、先生、ああいうエロチックな作品の生れる秘訣は何ですかって、(笑)ここでお酒飲みながら訊いたんです。いやア、わたしはじッと押えていますから滲み出るんです、と。(笑)実に明快。そういうところが蛇笏にも見えますね。
上田 蛇笏にもそういう、たとえば乳房とか、女の肉体や生理を見詰める眼があって、それが一種の暗い情熱を背後にして、なんか今言われた滲み出たようなものがありますね。初期にはそれがちょっと物語的な句になって、 「かりがねに乳はる酒肆(しゅし)の婢ありけり」 とか、非常にじわッと滲んで出るような一種の濃情というものがあります。それからぼくの好きな句で、これも女の句なんだけど。 「帯の上の」……。
飯田 「乳にこだわりて扇さす」。
上田 実にうまいと思う。なんでもなく作ってあって、ちっとも句の、形の上では苦労のあとはないんだけれども、見ているところが、実に的確です。ああいうところ、先ほどの「乳はる酒肆の婢」とか 「三日月に余り乳すつる花弁のもと」 とかよりも、もっと年代は後でしようし、もうちよっとさらッとしたところがありますけど、なんか女を見る視線の確かさというんですか、そういうものが出ている。
飯田 そういう色気とは違うんですが、表現の微妙さを楽しむという要素は久保田万太郎さんなどには濃密にあったですね。 これは初めて申し上げることなんですが、世俗一般は、蛇笏と万太郎との関わり合いを、ある面では正確に理解していませんね。まア俗な話ですが、なにやらその芸術院の問題なんかで、最後まで久保田万太郎さんは強引に居直って反対してね。だから窪田空穂さんなんかわたしに、なんですッーなんていってね。亡くなる少し前お目にかかったときに、ある席で。たまたま二人だけの席だったけど。あの方、いわば蛇笏にとつはぼ先輩以上の意味あいの方です。 窪田さんて方は。それで自分の後輩というので非常に愛情を、その他二、三のこともありますが……。 そういう世俗的なことだけで万太郎と蛇笏、確かにそれは両者肌の合わないとこもあるんですが、俳人としての実力を認めておったという点では、これは大変なものだと思うんですよ。万太郎は俳句うまいねッというんです。それで久保田さん自身もね、たとえばこういう例があるんです。久保田万太郎に、 「飯田蛇笏君、ことし還暦ときく。この人とは、そのむかし、東洋城庵にて、ともに『国民俳句』をっくりたるよしみあり」 という前書きで。 中坂のおもひでともる霞かな という句があるんです。中坂というのは、明治末当時ね、虚子が一時俳句を離れたあと東洋城を中心にして寄り合った、万太郎が暮雨と称した頃。国民俳句というのは、わたしのとこに切抜きが残っていますが、それ見ますと、やはり光っておるのは久保田暮雨に蛇笏ですね、そして相共に許しておった。作風が非常に違うんですが、万公なんていうんだけどもね、片方は。(笑)
上田 それは面白い指摘ですねえ。大変大事な……。
飯田 たとえば 「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」 とかね、これ蛇笏認めないはずないですよ。それ晩年の作品ですがね。それ以前の作品にしても、俳句のうまみとしては絶妙です。その絶妙というのはやはり月並をよく知り抜いた人ですから、万太郎っていう人は。 蛇笏自身もその方面には決して無関心ではなかった。そういう作例は幾らでもあると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月02日 08時37分45秒
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