カテゴリ:飯田蛇笏の部屋
蛇笏の文学と風土 目の句、耳の句 対談 飯田龍太&上田三四二
『俳句』四月号 角川書店 昭和五五年
一部加筆 山梨県 山口素堂資料室 上田 先程、「川瀬にまじる風の音」って出ましたけど、これは耳の句ですね。蛇笏はぼくはだいたい目の耳というふうに考えているんです。目と耳とに分けると、俳句というのは短歌よりいつそう目の文学だと思うんですが、蛇笏は中でも目が確かで、たとえば「連山影を正しうす」、これなど目がすごいんですね。それから「極寒のちりもとどめず」というのも岩を見通すというようなところがある。そういう非常に強い視線が蛇笏の本領だというふうに思うんですけども……。 同時に、やはり耳ということを思ったんですけど、それは先程言いました、 「くろがねの秋の風鈴鴨りにげり」、 これは耳ですね。それから今言いました 「秋たつや川瀬にまじる風の音」。 もう一つあげますと、滝の句で、 「冬滝のきけば相つぐこだまかな」。 みんなわたしは好きで、蛇笏にはそういう耳の句に非常にいいのがあると思うんですね。
飯田 あるいは 「雪山を匍ひまはりゐる箇かな」。 いま上田さんおっしやったことでふッと思い付くことはね、蛇笏の耳は鮮やかに聴こえるものを聴きとめていますね。それから、高浜虚子は聴こえないものを聴いている感じがする。たとえば 「風が吹く仏来給ふけはひあり」。 わたしは虚子と蛇笏の差はいろいろな面であると思うけれども、その気配というものを高浜虚子は非常に正確に具体化しているという感じがしますね。そこが、こういうところに土着して、こういうふうに雰囲気もし~んとして、要するに物音が一つ一つ個性を示しますね。そこに住んでおる環境の違いというものもあるんじやないかと思うけれども。しかしこれまた、蛇笏の音ということはいままで誰も触れていませんね。
上田 そうですか。面白いですね。
飯田 しかしそれは虚子と蛇笏の違いというものを端的に示しているような感じがします。虚子はどっちかというとボヤッとしたものに正確な姿を。蛇笏ははっきりしたものをもつと鋭く、シャープに……。これはね、やはり住んだ環境の違い。土着の人間というのは見えるものを見、聴こえるものを聴きとるという。で、虚子の作品なんかの場合は抽象的なものでも具体化するというふうな……どっちがいいということはわたしにはわかりませんが、少なくとも虚子の作品の一つの特徴だと思いますね。そういう傾向を一番最初に示しだのが、二十歳のときの 「風が吹く仏来給ふけはひあり」。 風というものは単なる景物にすぎない。ところが蛇笏の場合は風そのものを詠いますね。
上田 そうですね。
飯田 そういうところで虚子が蛇笏を認めて下すつたろうと思うし、また蛇笏が虚子に対して終生畏敬の思いを捨てなかったのは、語感の上でも感覚の上でも相共に許すところがあったんじやないかという感じを最近受けますね。それは虚子の作品をいくばくか読んでみて……。
上田 蛇笏のシャープさといってもいいんでしようね。それからこれもちよっと思い付きみたいですけど、たとえばその 「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」、 そこには、一種の視覚があると思うんですよ、「くろがねの」という。【くろがね】がなければこの句は成立しないわけですね。それから「川瀬にまじる風の音」、これもやっぱり「川瀬」というものを蛇笏は見ていると思う。目の前で「川瀬」を見て「風の音」。だから目と耳と二つになってるわけですね。 それからもう一つあげた 「冬滝のきけば相つぐこだまかな」。 これも「冬滝」をやっぱり目の前にしていますね。【冬滝】は見えない所にあるんじやなくて、見えてるんじやないかと思うんです。この「冬滝」ていうのは近くの所だといわれているそうで、これはどこでもいいとぼくは思うんですけど、どうなんですか。
飯田 ときどきそういう質問されて一番困っちやうんだ。(笑)
上田 そうでしようね。どれが風鈴ですかというのと同じことで。(笑)いや、それで、話をもとへ戻して、この句にも、どこか目がひっついていると思うんですね。 蛇笏の耳の句で、ただ一つだけぼくの気が付いたのに、「寒蝉の」--何でしたっけ……。
飯田 「なみだにむせぶごとくなり」
上田 気がついた範囲ではそれだけがただ一つ、純粋に耳の句だという気がしたんです。この句も取り上げられないんだけれども、 「寒蝉りなみだにむせぶごとくなり」。
飯田 そう、触れた人ありませんね。
上田 それだけが蝉を見ていなくて、耳だけを持ってしてる句だと思うんですけど、こういうのは蛇笏にはめずらしいんじやないか。 俳句白身が口口の働きを主とする詩型なのに加え、蛇笏自身とりわけ目の人だというのに、耳の句で三つ、 「匐(はらばう)ひまはりゐる谺(こだま)かな」 を加えで四つ、耳でいい句があるなんてね、嬉しいなと思う。
飯田 晩年の句にたると、目の作用はある一つの時間で消そうとするというか、これは年齢のせいもありましようが、特に消そうという、そんな意識ではないかもしれないけれど、たとえば 「光陰をはずえにわする冬の鵙(もず)」。 これらあたりは、そういう人生観というか、自然観というか、そこに自分の感慨をこめたという、ある意味では老化かもしれませんけれども。その前の句になると、 「冬鴎のゆるやかに尾をゆれるのみ」 というのがある。同じ目でも目の使い方が違うと思いますね。でも、その作風にはある一貫した、相手をきッと見て仕留めようというような、意志の力というか、そういうものはかなり、生涯流れておつたんじやないでしようか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月10日 06時14分59秒
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