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2021年05月14日
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閑日半話 藤沢山宇賀神縁起  

 

【註】誤字脱字有り

 

抑(そもそも)当山に安置し奉る宇賀神は、弘法大師の御作にして、御当家御先祖徳阿弥公御願状を添させられ、当寺に納玉ふ尊像也。

恭く其来由を尋奉るに、御当家は清和天皇の後胤八幡大郎義家公の御孫、新田大炊介義重公第四之御子、世良田四郎義季公五代之孫、世良田太郎政義公の御孫、徳川左京亮有親公〔割註〕後号徳阿弥。」御息親氏公〔割註〕後長阿弥。」恭親、〔割註〕後有髪号独阿弥、松寿丸。」応永二年十二月急難極連御遊がたく、右御三方御形を替させられ、仮に時宗の僧とならせ玉ひ、御本国上州新田領を脚立退、三河国に至らせ玉ひ、松平家酒井家両家を継せ玉ひし事。

其次第三河記、御年譜、後風土記、大成記、啓連記等に詳也。然るに相伝之一儀藤沢山宝庫尊像之未練を考奉るに、有親公御祖父政義公元弘合戦に、世良田太郎と名乗らせ、義貞公に従て鎌倉へ押寄せ、安東左衛門入道尚賢が三千余騎にて稲瀬川へ向ひたりける勢を、稲村崎より一散に蒐破り、義貞公と共に北条相模守平高時を亡し玉ひけり。

其後建武二亥年に義貞公と足利尊氏公と御一族の好みを逆らはせ玉ひ、数度の合戦に及ぶ。然るに義貞公討死し玉ひし後、義典公義兵を起し玉ふといへ共、終に亦討亡され玉ひし後、新田の御一門兵威日々に衰へ、太平記以後諸所に流浪し玉ひける頃、建武年中より四十年余の星霜を経たり。 

康暦元来年、美濃国土岐太膳太夫島田が識言にて、京都義満将軍と鎌倉氏満公暫く御中御快からざりし折節、思召ける旨ありけるにや、新田の一族里見、世良田、大島、額田、大舘、堀口、桃井、石堂の人々、御一族の好みを思召御憐慾有之、一生懸命の地を僅づゝ充行はれて、上州武州に安堵し玉ひける時、有親公上州徳川に住居を定させ玉ふと見へたり。故に三州に至らせ給ひし後、徳川を御名乗らせ玉ふなり。

其後康暦より五年至徳二丑年三月の頃、新田義宗公の御子新田相楽守行啓、信州大河原と云処に深く隠れ謀叛を企て、上州武州の軍兵を催しける間、有親公をはじめ新田御一門信州へ立越させられ、浪合と云処に御座しける。右両国の軍兵を催す使二人を、梶原美濃守道景が代官是を召捕へ、鎌倉へ披露しけるゆへに、鎌倉より討手向ひければ、国中皆相撲守に背きしゆへ、新田御一族浪

合にて過半討死し玉ひけり。中に新田相撲守父子、並びに有親公御父子討洩させられ奥州へ迯下り、相撲守御父子は岩城の近辺酒辺と云処に隠れ居玉ひ、有親公卿父子は塩釜辺に潜かに忍び居させ玉ひける。

然るに応永二亥年の春の頃、小山若犬丸奥州に迯下りて、宮方の余党を語らひ居たりしが、奥州は関東の御分国に成て、鎌倉より代官目代数多下り隠れ家もなかりしかば、奥州の住人田村庄司清包を頼みて、新田相操守井其従弟刑部少輔を語らひ、大将と号し白川辺え打出る間に、上州武州に隠れ居たる宮方の末葉悉く馳せ参ければ、鎌倉殿是を聞玉ひ、十ケ国の軍兵を引卒し、同三月廿八日御進発、同六月朔日白川の城下に御下向、結城修理大夫の舘に御座ます、大勢下向のよしを聞て、新田小山田等悉く退散して行方知れず成にける。

爰に有親公御父子、同年極月末御本国なれば、上州新田額の内祝人村に潜に御忍び立帰られ、徳川御居住の節、由ある民家に隠れ居させ玉ひしひけれども、鎌倉より捜し求強くして、御身を隠させ玉ふべき便りもなかりける。此上鎌倉へ召捕はれ父子三人恥を晒しヽ浅間敷死を遂なば先祖の名を汚さん、よくよく弐人の御息を御手に懸け、御身も必至の御覚悟を極めさせられ、既に御自害と思召詰られ、御本尊宇賀神に向はせられ、御運の拙きを御かこち嘆かせ玉ひし内、暫時まどろませ玉ふ夢中に、脱衣の僧鼠色の衣を手に持ち来たり、此の衣を汝に授くべし。形を引替て此危き処を迯れ出べし、天道いまだ汝等を誅罰し玉はず、急ぎ此場を立退くべしと。再三宜ひける間、貴僧は何方より来らせ玉ふ、いかなる御方にておはしますと問せ玉へば、我は是諸国修行の僧也。少しの木陰を栖とし、念仏往生の道を勧めて、今後の山寺に止宿すと云。其声と共に夢は覚させられける。有親公は俯きて夢の意を案じ玉ふに、実に武勇盛なる時は戦ひ、兵威衰る時は命を全ふするの夢、是大将の武略此に止る。我今急難遁れがたくして、必至の覚悟を申る、夢中に父子の身命を全くするは、是偏に宇賀神の加護なりと、感喜の御涙に咽び玉ひ、再度宇賀神に向はせられ拝礼し玉ひ、子孫栄達の宿願をぞ掛させ玉ひけり。扨側に人あり、此里に寺なきや、僧はおはしますかと問はせ玉へば、山の後に偏行の聖人おはしますと答へければ、それより弐人の御息を伴ひ、彼聖人の宿所へ至り玉へば、遊行十二代尊観法親王御札化益の宿地なり。

則有親公上人にまみへ、今我等父子共身の上急難極運遊れ難く尊師の座下に来る。願くば形を替御弟子と成て当難を斑れん事をと頼ませ玉へば、則上人御弟子となし玉ひ、有親公、親氏公御剃髪なして、有親公を徳阿弥、親氏公を長阿弥と御名を改めさせ、無紋の沙弥となし玉ひ、恭親公をば有髪の喝食になし玉ひ、独阿弥、松寿夫と御名改させられ、御父子共に我舎下にしのび居玉ふべきよし上人の玉ひければ、有親公かゝる不幸にして形を替、父子御恵みに依て随従あるべきとの事、是子孫相続して運を開くの基本也と宣ひければ、上人御衣を授させ玉ひけるに、鼠色の衣なり。有親公余りに不思議に思召、霊夢の始終を語らせ玉へば、上人夢の意を考られ、実に以て小は大に敵すべからずと云古人の金言あり。今唯此場を退き時の至るを待たせ玉ふべしと有ければ、有親公実にもと思召し、我時を得一度は京都鎌倉を責落さんと御心に含ませ玉へども、今唯義満、氏満が為に本国を立退くは口惜き次第なりと、御牙を噛ませ玉ひける。扨上人へ向はせられ拝礼し、尊師願くば我子孫類集東国に栄耀せん事を恵ませ玉へ、我存命なる程は尊師の御憐慾を忘るべからず、心願を願はし尊師の跡を奉ぜんと、御盟ひの御言葉を演玉ひ、其の場を去らせ玉ひけり。去程に親氏公、恭親公とは、直に上人に随従し玉ひけるとなん。有親公は上人並びに愛子の離別をなし玉ひ、御守本尊宇賀神に向ひ丹精をこらし御願文を書誌させられ、上州の地を出て隠遁行脚の御身とならせ玉ひて、徳阿弥と名乗せ、相模守藤沢寺へと心掛させられ出立玉ふ。

程なく藤沢寺に御著有て、暫く逗留し玉ひけるが、爰も鎌倉近所なれば人口の恐れを慮はからせられ、御守本尊宇賀神の尊像、並に御自筆の御願状を添させられ、藤沢山に納め玉ひ、永く東国の後栄子孫に及ん事を醤はせ玉ふ。刑具御願状に日、

 

   迎僧寄志願

 同姓逆賊震猛威、吾逼極運 経稔崇敬宇賀神 有今急難為嘆祈

其夜鼠色脱衣僧来、汝可送衣、求貌出此囲、天命未殺罰、

非時速可去、再三加詞、師何人、諸国偏行者、枝葉天覆処為住、

宿後山夢覚、信武勇士追敵、弱将逃命之夢、有己辱臨生、

終尊為向拝拝二世誓盟、士側候、隣里有個耶、山後偏行在聖、

此時志ユルマリ、求道迎僧、不孝道本、盛衰□(日之)有皃移、

送衣ハタシテ鼠色、驚怖心ニアフレ、披夢事、聖退而可待時、

我起念、為逆党出国活前恨也、子々累彦誓東国栄、在命不離尊、

志願アラハシ、奉師跡隠茂山、上邦為独歩、丹誠勿空、

誠恐誠惶頓首再拝。

    歳鬼宿、月大簇、日向五徳  徳 阿 弥

 

恭右御願状の旨を解し奉るに、

「同姓逆賊震猛威」とは、是京都義満将軍鎌倉氏満公の事なり。

「吾逼極運」とは、奥州塩釜辺の御住居没落の後、上州新田祝人村に御隠れ居させ玉ふ応永二年極月末の御事なり。

「鼠色脱衣僧」とは、遊行上人自身着服の鼠色の衣を脱て、徳阿弥公へ授玉ふ時の姿を夢中に感じ玉ふ也。

「枝葉天覆処」とは、上人の一所不住にして、山林河海莫非道場といふ事なり。

「弱将逃命之夢」と書せ玉ふは、是則大将の場に御身を置せ玉ふ御詞也。

「有巴辱臨生」とは、必死をまぬかれ玉ふと云事なり。

「不幸道本なり」とは、菩提の道に人の本と云事なり。

子々累彦誓東国栄」と書せ玉ふは、誠に以御当家御開運東照宮御出興まします処の御前兆にて、有がたき御事なり。

「奉師跡陽茂山」とは、上人に仕へ奉り深山幽林に隠遁して跡を隠さんと名利をすてんと云事なり。

「上邦為独歩」とは、上都の方へ独歩し行脚せんと云事なり。

「丹誠勿空」とは、徳阿弥公御自身は御還相くして隠遁行脚の姿となれども、子々累彦東国に栄へなんと志願丹祈を空敷し玉ふ事なかれと、宇賀神へ祈誓し玉ふ詞なり。

「歳鬼宿」とは、応永三年をさし玉ふなり。太平記の頃は、宜明暦を以て二十八宿の星を以て其年々に配当し置事なり。然るに応永三年は二十八宿の中鬼宿星に当るゆへに、星鬼宿と書せ玉ふなり。

「月大族」とは、正月の異名を大族と云ゆへに、正月を指て月大族と書せ玉ふ。

「日向五徳」とは、元日の事なり。正月の元日を鶏の日といふ義を以て、「日向五徳」と書せ玉ふなり。鶏に五徳ある事は、武文男信仁の五徳を具するものなり。

韓詩外伝に、一戴冠文也、二足擣距武也、三散在前敢闘男也、四見食相呼仁也、五守夜不失□(日之)信也、

以上是鶏の五徳の出処なり。

正月元日を鶏口と云事は、正月元日より七日迄の日を、鶏、狗、猪、羊、牛、馬、人の七を、次々の如く朔日より七日迄に配当する故に、元日は鶏の日なり。

今此処西日といふべきを、日向五徳と書せ玉ふなり。

上来御願書の趣大概此意を以拝見すべきか。右御願状を添させられ、宇賀神の尊像を藤沢山に納め奉りて、上人の御修行所へ詣んとて、都の方へ独行し玉ふ。爰に上人は西上州、信州、甲州、遠州と修行し玉ひ、大知波の白雲寺馳逗留あらせられける砺になりければ、徳阿弥公此地に至り白霊寺に於て再会成せられ、夫より上人に随身し玉ひ、同五月の頃三河国大浜称名寺へ移らせられ、数日御札化益させられける。

爰に称名寺住持其阿弥陀仏は連歌の達人にて、近里道村の連歌の師たりけるが、松平村太郎左衛門、酒井雅楽前、両家共に連歌の弟子なれば、或日上人住持に宜ひて連歌興行あり。則松平、酒井の両家も其席に列なりぬ。執筆をば長阿弥公勤られける時、両家に長阿弥公と喝食松寿大殿との容体を熟と見て、此両人尋常の人にあらず、由緒あらん事を上人に尋奉るに、上人両家へ其御由緒を包まず語らせ玉ふ時に、両家談合て上人へ願はれけるは、我等両家近郷の百姓にて貧しからざれども、家を継べき男子なし。上人願くば長阿弥殿には御還俗を御免し、松寿大殿と倶に我等両家へ与へ給はば、御兄弟に跡を相続させ度旨、頻りに所望有ければ、上人悦び斜ならず、則所望に応じて長阿弥公に御還俗を許させ玉ひ、酒井雅楽前説氏と名乗せ玉ひ、後に一子を儲けさせられ、酒井徳太郎親清と名乗せけり。是今時酒井家一統の元祖なり。松寿大殿をば松平村太郎左衛門方へ被遣、後に松平太郎左衛門泰親公と名乗せ玉ひ、御子二人御出生あり、嫡子を竹若大と申て、太郎左衛門の家を継ぐ、二男竹千代先後に信光公と申奉る。是御当家御先祖なり。徳阿弥公は松平村に庵室を修訪、永享十二年迄此処に御住居なさしめ玉ふとなり。上人は称名寺を立玉ひ、其年〔割註〕応永三年。」七月京都七条道場に着せ玉ふと云々。






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最終更新日  2021年05月14日 17時24分59秒
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