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雷電為右衛門【あまりの強さに禁じ三手を命ぜられた大剛力の大関】
高橋紀比古(のりひこ)氏著 『別冊歴史読本』「伝記シリーズ」 昭和53年 新人物往来社 一部加筆 山梨歴史文学館
明和四年(一七六七)一月、長野県小県(ちいさがた)郡東部町に生まれ、名を太郎吉という。前後に雷電を四股名とする力士が数名いることから世に雲州雷電とよぶ。 少年期から馬をかつぐなど膂力(りょりょく)を発揮し、生地近くを巡業中の浦風林衛門に弟子入りして江戸へ出たのち、谷風梶之助に預けられた。 天明八年(一七八八)、出雲松江藩主松平治郷(はるさと)抱えとなり四人扶持を給され、 寛政二年(一七九〇)十一月、本所回向院場所に雷電為右衛門の名で一躍、西方関脇に附け出された。 時に身長六尺五寸(一九七センチ)、体重四十五貫(一六八・八キロ)といい、晴天十日間をつとめ、幕下友千鳥・大関(横綱)小野川と預りになったほかは八勝無敗で優勝、華々しいデビューを飾り、江都をうならせた。 寛政六年三月場所は看板相撲鰭ケ嶽(ひれがたけ)が関脇に附出しとなり小結にさがるが、一場所で復帰し、翌七年一月、谷風が現役中病没したあとをうけて三月から西方大関に進んだ。以後、大関在位十六年を数える。
無敵を誇る雷電だが、ついに横綱を免許されなかった。当時最強の力士でありながらなぜなのか今もって謎である。「寛政力士伝」などの張扇では、寛政四年三月場所に、越ノ海を俯殺した四海波なる力士を雷電が土俵上で閂(かんぬき)に極めて投げ殺し、この仇討相撲が災いしてついに推挙されなかった、とする。だがこうした事実はなく巷談にすぎない。 なお、文久元年(一八六一)、佐久間象山筆で建立された「力士雷電之碑」文には「三手」があまり強烈なので禁じられていたと刻す。雷電の禁じ三子とは「張り手」「鉄砲」「閂」だという。 『甲子夜話』巻七十は 「雷電と云し、長七尺にして大剛力の大関〔予も嘗て識れり。面は馬の如く、長は鴨居を越たり。信に多力者なりし〕」 とか、 「歌妓のために頬を撲れ、あいたたと云て目を瞑りたり。傍人笑はざるは無かりし」、 「少婦に謔れたるに、この婦雷電の胸を衝たれば、即後ろへ倒れ」 てみせるなど、柔剛両面の姿を記す。また、力士には珍しく文字を能くし、巡業の様子を綴る『諸国相撲控帳』、雲州相撲頭在任中の控書『万御用覚帳』を遺す。
文化七年(一八一〇)十月場所後、稽古中に腰を痛めたといい、翌八年二月場所を全休したが 老齢でもあり完治せず、引退する。
江戸相撲における成績は、 二五四勝・一〇敗・一四預り・二引分け・五無勝負。 通算三二場所中、優勝二七回、連勝四四と伝わる。 黒星のうち同一相手に不覚をとったのは常ノ山(のち大関花頂山・市野上)の二敗だけであり、小野川喜三郎との対戦は、小野川が晩年だったこともあり、二勝・二預り。 引退後は松江藩相撲頭となり、文政二年(一八一九)主で雲州抱え力士を率いて各地を巡業し、みずからも土俵入りだけつとめた。 なお、小島貞二氏の研究に拠れば、赤坂報土寺再建のおり、雷電が梵鐘を寄進したところ幕府禁令に触れ、住職は江戸追放、雷電もまた押込に処され、のち女房八重(おはん)の故郷千葉県佐倉市臼井に移り住んだという。昭和五十三年、佐倉に「天下第一流、力士雷電之碑」が建てられた。 小高説とは異なるが、通説では文致八年二月、江戸四谷伝馬町で病没。法名「雷声院釈関高為輪信士」。赤坂台町(港区)報土寺に葬られた。
【註】長野県諏訪大社入り口階段の左側にも「雷電」の石像がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月15日 06時41分36秒
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