カテゴリ:東京の歴史文学
江戸発展の三つの段階
『江戸史跡考証事典』
著者 繁田健太郎氏 発行 新人物往来社 昭和49年12月 一部加筆 山梨県 山口素堂資料室
さて、入国当時のこの江戸が、大きく首都へ飛躍するには幾段階もあった。行政区画の変遷により七段階に分ける説、大火ごとに膨脹するさまをとらえて十三変とする説もある。 が、ここでは江戸の成り立ちから、いわば、『江戸名所の系譜』をさぐるのが目的である。橋や塔や寺院の建物は、沼と竹薮のこの地にいつ作られ、どこへ移されて現在地にあるのか。個々の変遷は各項にゆずり、都市形成の大づかみの流れを見たい。その系譜の中で見て、個々の名所はぐっと存在の意義と興味を増そう。 ところで江戸の膨脹は、常識的に大火をチャンスにくり返された、或る程度の都市計画の成果ということができよう。町づくりの常識的な経過をたどっている。 だが、その都市計画は封建割下のそれであった。すなわち防衛および舟運の便のほか、中央集権の要どころとして、緻密な配慮がなされていることを見のがしてはならない。いかにして江戸城を守り、諸大名を押えるか。 なおその上で、家臣の生活物質をいかにしてたくわえるか。 江戸の都市計画はつねにその課題の上に立てられた。住民パワーの強い現代と違い、老中の一声できまる封建割下の計画であった。これ抜きにして江戸の都市構造は考えられない。 この政治的計画の視点から、江戸の発展は次の三段階にしか分けられない。 一、天正十八年二五九〇)から明歴三年(一六五七)の 大火まで。これが一寒村から目本の首都へ急膨脹する 「建設期」である。 二、次に閲歴の大火から、延享二年(一七四五)の六道火事に至る江戸の「拡大期」。 都市計画が強力に進み、膨脹する江戸をよく規制した。 三、次に六道火事のあと幕末まで、過密都市の弊害を生じ、「人返し」などで人口の減少をはかった。すでに押えがきかず、都市政策は破綻のまま幕末を迎えた。 「無統制期」または「破綻期」ともいえるであろう。
くり返すようだが、江戸名所はこの三段階の都市計画を経て、ほぼ現在地を見出した。そして永い歳月の下、それぞれの地になじんで、名所としての風趣をなしたのである。
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最終更新日
2021年05月16日 09時12分29秒
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