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2021年05月16日
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カテゴリ:著名人紹介

江戸千七百余町 大江戸を作った三つの要因 

 

『江戸史跡考証事典』 

 

著者 繁田健太郎氏

  発行 新人物往来社 昭和4912

  一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

 秀吉がまだ小田原の北条を攻めていたとき、参陣の家康に、

「いずれ落城したらそなたに進ぜるが、ここを居城にするつもりはあるか」

 と聞いた。関東ではこの小田原か、頼朝が幕府をおいた鎌倉しか適地はない。小田原城がどんなぐあいに落ちても、形骸だけは残るだろうから、恐らくここを根拠地にするだろうと家康は答えた。ところが瞬間、秀吉は意外なことをいった。

「いや、家康殿。鎌倉より東に江戸というところがある。形勝の地ゆえ居城はそこになされ。それがよい」

秀吉のその一言で、後に世界一の大都会となる江戸の誕生がきまった。家康は特に反撥もまた謝詞をのべるでもなく天正十八年(一五九〇)八月一目、江戸入りをした。

 ところが、ひどい。当時の江戸城は担ぎ上げの土塁に、海に向って建つのはみすぼらしい木戸門、本丸の建物ときてはこけら葺で、玄関の式台として舟底板が三枚ならべてあるだけであった。小田原の出城で遠山景政、がいたが、本城落城まえに放棄したものである。

城の東方は一面潮入り葦原で、武家屋敷や町家を割りつけようにも使える土地は十町あるとも思えない。西南は凸凹の台地であり、その末は丈なす草原が限のかぎりつづく武蔵野であった。

 城祖太田道灌の歌、

 「我庵は松原つづき海ちかく 富士のたかねを軒端にぞ見る」

 を家康はとうぜん知っていたが、これではあまりに見透しがよすぎた。今の地形にあてはめてみれば、丸ビルから日比谷公園あたりまで入江で、日本橋・京橋・銀座・築地の一帯は海面すれすれの州であった。

 城の背面はどうかといえば、麹町から四谷にわたる台地、市谷・牛込の台地、それに駿河台から本郷に至る神田山の台地、その西方には小石川台地が波のように起休していた。

 これら台地にふる雨は、流れ下って後楽園から神田三崎町あたりに沼をなしている。その末は南に流れ、現在の大手門まえの堀をとおって日比谷の入江に注いでいた。平川である。また永田町台地と赤坂台地の谷間には、湧水による細長い溜池ができ、ずっと赤坂溜池の名を残していた。

 転じて、本郷台地の東には上野・谷中台地があり、一帯の雨水を集めて不忍池をなしている。それはさらに東の方、今の下谷にあった姫池、千東へかけての千束池へつながり、すえは隅田川へ落ちていた。この辺り、ワンワン蚋(ぶよ)のとぶ川と沼地の低湿地であった。

 以上をひっくるめて想像すれば、武蔵野の果てのでこぼこ合地の一角に江戸城が建っており、入江はその土塁間近まで追っている。だから前面はほとんど海、わずかに隅田の河口ちかくに、猫額大のデルタを見るにすぎなかった。

 背面の台地は高所で四〇メートル、縦に走ってところどころ沼地を作っている。神田、桜田など耕地の遣名といわれるが、ぜんたいに沼と葦原の荒蕪地といって憚らない。

 当時、百軒ほどの漁師の宗が、京橋、銀座あたりの渚

に住んでいた。が、長雨や大風のときは高潮となり、いつも家が水浸しになる。そのため漁師たちは妻子や世帯道具を舟に乗せ、日比谷の入江ふかく避難して来た。

そして後の馬場先門あたりで、岸辺の松に舟をつなぎ、炊事の煙を立てているのが望まれた。何とも東国らしい、蕪雑な風景というほかはない。

「こんなところに住めるもんか。体のいい迫っぱらいではないか」

と家来たちは憤慨した。むりもないことで、家康は小田原北条の旧領関八州をもらったとはいえ、代りに金の産地甲斐をはじめ、血で贖(あがな)った駿河・遠江・信濃は取りあげなのである。地味ゆたかな東海地方と、こういう荒蕪地と引換えでは間尺に合わない。東国というだけで、敬遠され、追放されたという印象が強い。なじみのない土地の統治はむずかしく、必ず一揆が起るに違いない。その時、それを口実に家康を屠(ほふ)り、将来の禍根を断っておくのが秀吉の腹づもりだとは誰の眼にもあきらかであった。

 が、当の家康は相変らず無言で、いそがしく城づくり町づくりの指令を発していた。

「まず玄関の船底板だけでもお取替えになっては……」

 という家臣にも、ただ笑っただけで答えない。何か大きな目標をとらえ、そのため細かいことはどうでもよかった。時に家康の胸中にあったのは、この転封を機会に戦国末期にふさわしい、兵の動員態勢を作るにあったというのが定説である。

中世の武士は土着の豪族が、農兵を率いて出陣する形である。だから統制が取りにくく、極端なことをいえば収穫期になると、合戦を目前に勝手に帰国したりする。これでは集団戦に勝てないので、兵農を分離して兵を城下町に住まわせ、その代り家臣として完全に扶持するのが理想であった。父祖の地とのつながりを断ち切るのに、転封のこの時期がいちばんよかったとするのである。

 確かにそれもある。が、いまひとつ、秀吉がお為ごかしに言った通り、案外江戸は形勝の地ではなかったのか。

 都市は交通と防備上、河口に発達するのが世界的な通例である。理想的には河岸つづきの台地を背負い、前面に河口の三角洲、がひろがってほしい。台地は何より防衛に役立つし、からっとして住宅地に最適である。また三角洲は三角洲で、舟使の利があるため商・工業地として誂え向きといえた。この台地と三角洲は、両々相侯(あいま)って理想的な都会として機能したのである。一般に前者を山の手といい、後者を下町といっている。

 家康の目は天正十八年の江戸が、この山の手・下町を持つ理想の都会に発達する可能性を見てとった。下町の形成にはそうとうの埋立工事が必要であろう。が、そんな手間ぐらい、将来の大飛躍のまえに物の数ではない。第一、候補地は、東国でここをおいて他になかった。家康が根をおろしたわけである。

 家康は江戸城の改築より、まず城下町の建設に全力をあげた。家臣団を城下に住わせるには、食糧および生活物質、それに武器・弾薬の供給者たる商人・職人を一日も早く集めねばならない。その居住地を割り当てねばならなかった。

 すぐ着手したのは掘割鑿で、低地の溜り水を海へ吐き出すことを計った。そして掘り上げた土で沼地を埋め、まず常盤橋の東に町人街を割りあてた。これを古町といい、以後、ここを中心に市街地がひろがってゆく。

 とりあえずの武家地もきめなければならない。そこで江戸城の背面に大番組など旗本屋敷を、その東方、田宮台には役人屋敷を割り当てた。前者は後の番町であり、後者はおなじく代官町である。その他の家来は今の麹町・青山・本郷などに屋敷地を与えた。

 当時の地図を見ると、やたらに沼と竹藪の目立つ新開地だが、すでにこの時から山の手・下町の区別が画然とっけられている。

 この辺地にも産土神として、江戸城内に山王社があった。これを今の三宅坂に移し、後々まで江戸市民の氏神とした。神田明神はまだ神田橋近くにあり、山王社とともに江戸を二分して尊崇をあつめた。そのほか王子権現・芝神明・高島天神・品川稲荷など深い樹海の中に見え隠れしていた。

 浄土宗増上寺は日比谷にあったが、すぐ芝へ移されて徳川家の菩提寺となった。また天台宗浅草寺は、頼朝以来の信仰を集めて隅田河畔にあった。ほかに吉祥寺・青松寺・総泉寺・東光院など点在して、荒涼の風土にやや趣きを添えていた。

 

 江戸発展の三つの段階

 

『江戸史跡考証事典』 

 

著者 繁田健太郎氏

  発行 新人物往来社 昭和4912

  一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

 さて、入国当時のこの江戸が、大きく首都へ飛躍するには幾段階もあった。行政区画の変遷により七段階に分ける説、大火ごとに膨脹するさまをとらえて十三変とする説もある。

 が、ここでは江戸の成り立ちから、いわば、『江戸名所の系譜』をさぐるのが目的である。橋や塔や寺院の建物は、沼と竹薮のこの地にいつ作られ、どこへ移されて現在地にあるのか。個々の変遷は各項にゆずり、都市形成の大づかみの流れを見たい。その系譜の中で見て、個々の名所はぐっと存在の意義と興味を増そう。

 ところで江戸の膨脹は、常識的に大火をチャンスにくり返された、或る程度の都市計画の成果ということができよう。町づくりの常識的な経過をたどっている。

 だが、その都市計画は封建割下のそれであった。すなわち防衛および舟運の便のほか、中央集権の要どころとして、緻密な配慮がなされていることを見のがしてはならない。いかにして江戸城を守り、諸大名を押えるか。

なおその上で、家臣の生活物質をいかにしてたくわえるか。

江戸の都市計画はつねにその課題の上に立てられた。住民パワーの強い現代と違い、老中の一声できまる封建割下の計画であった。これ抜きにして江戸の都市構造は考えられない。

 この政治的計画の視点から、江戸の発展は次の三段階にしか分けられない。

 一、天正十八年二五九〇)から明歴三年(一六五七)の 大火まで。これが一寒村から目本の首都へ急膨脹する 「建設期」である。

 二、次に閲歴の大火から、延享二年(一七四五)の六道火事に至る江戸の「拡大期」。

都市計画が強力に進み、膨脹する江戸をよく規制した。

 三、次に六道火事のあと幕末まで、過密都市の弊害を生じ、「人返し」などで人口の減少をはかった。すでに押えがきかず、都市政策は破綻のまま幕末を迎えた。

 「無統制期」または「破綻期」ともいえるであろう。

 くり返すようだが、江戸名所はこの三段階の都市計画を経て、ほぼ現在地を見出した。そして永い歳月の下、それぞれの地になじんで、名所としての風趣をなしたのである。

 

 ‥‥江戸、一寒村から日本の首都へ……

 

『江戸史跡考証事典』 

 

著者 繁田健太郎氏

  発行 新人物往来社 昭和4912

  一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

 まず第一の建設期はどうか。家康の江戸入城から八年後の慶長三年(一五九八)、秀吉の死によって家康の比重がぐっとあがった。翌々五年(一六〇〇)に関ケ原戦がおこり、家康はみごと対抗勢力をたたいて政権に近づいた。が、むやみに急ぐことをせず、また三年おいた同八年(一六〇三)、やっと将軍職に就いている。

 江戸が急激な膨脹を見せたのは、実はこの時点からである。江戸城は大名の居城から、幕府の政庁となったため最高に威容をととのえねばならない。江戸は地方都市でなく、首都の役目を果さねばならなかった。殊に諸大名が人質として、妻子を江戸においたことと、参観交替のため多数の供侍を住わせるため、広大な屋敷地が必要となった。

 家康は将軍就任と同時に、諸大名に命じて大規模な海岸埋立て工事をはじめた。山の手の神田山を崩し、豊島の洲といわれた城の前面を広く埋めたのである。

動員された大名は福島正則・結城秀康・松平忠吉・前田利長・伊連政宗・細川忠興・黒田長政・加藤清正などで、高千石につき一人の割りの人夫供出であった。担当地区の埋立てがおわると、功を残す意味で出身国の名を町名につけた。尾張町・加賀町(今の銀座)などみなそれである。

この時の工事で北は日本橋浜町のあたりから、南は今の新橋まで、後の土一升に金一升の地区ができあがったのである。

 すでに江戸の景況を聞き、一旗組がどんどん集って来た。徳川の旧領三河・遠江・駿河の町人は勿論、近江や伊勢の商人もやって来た。幕府はこれを歓迎し、特に自力で町を聞く者を喜んだ。

 摂津佃村の漁民が、今の佃島へ移り住み、漁場を開発したのがよい例である。進んだ上方の漁法で江戸湾の魚をとり、急増する江戸市民の腹を満たした。日本橋東岸でそれが商なわれ、やがて魚市場へ発展すると、この地が江戸の中心的商業地区となるきっかけを作った。

 今の銀座から日本橋へかけ、埋立地はあっという間に商店櫛比(しつび)の盛況を見せた。商売は呉服・蝋燭・木綿問屋などさまざまであった。またそのころには、浅草寺を中心に多少あった人家が商店に変った。また今の麹町・赤坂・牛込・芝あたりにも、商家らしいものがぼつぼつ軒を並べた。

 商家はそれぞれ出身地を屋号とし、伊勢屋・駿河屋などといった。川柳に、

 「繁盛さ江戸往来に国づくし」

 とあるのがそれ。

 この建設則の町割りには、一区画を縦横六十間と定め、まん中に二十問四方の空地をとった。区画と区画の問には、幅四丈(約十二メートル)の道路を設け、この区画の集団によって街をなしたのである。一町とはこの一画をいい、道をへだてて向き合う側で町名をつけた。何町何丁目の「丁目」もまた、この六十間四方の区画につけた呼び方である。

 この方式は永続しなかったが、多少のおもかげは後々まで残った。ともあれ低湿地の葦原が、見る見るうちに町家に変ったのである。

 「月の座をふさげ花の江戸になり」

 は、葦原にどんどん町家が建ってゆくさまをいっている。

 またこれよりやや遅れ、慶長末年から元和(一六一五~二三)にかけ、神田に職人町ができたことも忘れられない。

 先に崩した神田山は、今の錦町から柳原へかけての一帯であった。その跡地を平らにし、おもに諸職人に割り当てたのである。

 鍛冶町・鍋町・紺屋町・蝋燭町・白壁町・大工町など、みな職人だけの町であった。神田はこのとき職人町として特徽づけられ、後に、

 「仇(あだ)な深川、いなせな神田、人の悪いは飯田町」

 といわれた。深川の仇は辰巳芸者のこと、飯田町には悪御家が住んでいた。神田のいなせはもちろん職人のことである。

 なお神田山の崩し残りは、最後まで駿河残留の旗本が移って来て、その名も駿河台といった。

 ところでその後江戸城はどうか、ここらで一瞥の必要がある。

 幕府が普請計画を発表したのは、銀座を埋め立てた翌慶長元年(一六〇四)六月であった。同時に東国大名に石材の調達を、伊予今治の城主藤堂高虎に城の縄張りを命じた。

 起工は翌々十一年(一六〇六)からで、中国・四国・九州の大名に命じて本丸殿舎を造営させた。また本丸・二の元・三の元・および東北雉子橋より南西溜池の落日に至る外郭の石垣を築かしめた。天守閣の建造に着手したのも同年のことである。

 五層の天守閣は翌年完成、同年に北の元の造営を終え、江戸城はまさに天下の大城郭たる威容を見せた。大坂城の周囲が二里なのに対し、江戸城のそれは四里の長さに及んだ。

 元和元年(一六一五)豊臣氏を屠(ほふ)り、家康が諸大名の死命を制すると、さっそく普請を再開して江戸城の仕上げ工事を急いだ。本丸殿舎の拡大や桝形の改築、さては石垣の修理まで容赦なく諸大名を順使した。その賦課は藩経済を危うくるほどで、伊達政宗の負担額のごとき、人夫四十二万三千余人、大判金二千六百七十六枚に上っている。大名は苛酷な賦課に苦しんだが、今は幕府の忌諱にふれることを恐れ、ひたすら工事に精を出した。

 元和九年(一六二三)、家光が将軍になると、西の丸拡張工事のためまた大名を大動員した。まるで経済力を殺(そ)ぐのが目的かのように、二の丸・三の丸の完成を命じている。

そして寛永十三年(一六三六)に、外濠掘堅の大工事がおこされた。このとき外堀は西側から、赤坂~四谷~市谷~牛込間が成り、神田川につらなって城の背面を包んだ。その南方は溜池に発する既設の掘割で、これで渦巻形の外堀は、ぐるりと城を巻きこんで完成した。

外濠に設けられた郭門には、浅草稿門・牛込・市谷・四谷・虎ノ門などあり、以後その内側を外郭といった。

また内濠には清水・田安・半蔵門、さらに日比谷・馬場先・和田倉・大手の請門があり、この内側を内郭といった。「郭内」というのは「総郭内」の略で、今の丸の内だけをいうのではない。神田川以南で新橋以北、四谷門以東、さらに隅田川以西を指している。

そして総郭の外を、「江戸廻り」または「地廻り」といった。

 さてこの総郭の完成とともに、江戸城全体の普請も完結したということができよう。三代、二十五年にわたる大工事であった。

 ところで諸大名が人質として、妻子を江戸においたのは家康時代からである。そのための江戸屋敷が、内郭・外郭に割り当てられた。『慶長十三年江戸図』を見ると、さすが内郭には本多・酒井など譜代大名を、外郭には前田・毛利・細川・黒田など外様大名を配している。

 当時、請大名は威勢を示すため、江戸屋敷に桃山様式を移して豪壮華麗を競った。楼門・彫刻に善美をつくし、眼を奪う偉観として江戸の建設期を飾った。

 

明暦の大火による江戸の都市計画

『江戸史跡考証事典』 

 

著者 繁田健太郎氏

  発行 新人物往来社 昭和4912

  一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

 明暦三年(一六五七)正月十八目、本郷丸山の本妙寺から出火、猛火は翌々二十口まで衰えを見せなかった。ために四十五年がかりの建設もむなしく、江戸はその三分の二を失った。

 焼失したもの大名屋敷五〇〇、旗木鼠敷七七〇、寺社三〇〇、橋六〇、町屋は片町を入れて、一・二〇〇町、焼死者は実に十万七千人にのぼった。江戸城も天守閣をはじめ本丸・二の丸・三の丸を焼き、将軍はあやふく西の丸へ逃げて難をまぬかれた。

 この大大の教訓は、江戸の火災がすぐ政治不安を呼ぶことである。大名の取潰しで、当時、街に浪人があふれていた。城攻めには風上の放火、が定石なので、諸国へ謀叛のデマさえ流れた。

 どうしても火災を防がねばならない。江戸はこのとき大規模な都市計画にふみきった。

 御三家の屋敷は城内北側にあったが、火を呼ぶため郭外へ移して空地とした。尾張・紀伊家は麹町に、水戸家は小石川の外濠ぎわに屋敷が定着した。

 常盤稿から辰ノロ、竹稿・雉子稿へかけての江戸城北側と、東側一帯の大名屋敷もこのとき郭外へ移転を命じられた。冬の北風を考えてのことで、城へ飛火せぬようあと地は火除地とした。護持院ケ原などその名残りである。

 次に八丁掘・矢之倉(目本橋)・馬喰町・神田など閑静地の寺を、深川・浅草・駒込・目黒など閑静の地へ移転させた。寺社が移転すると門前の町家もついてゆき、それだけ新開地がひろがった。霊岸島・本所へ移った寺もあり、川向うの開発がはじまったのもこの時である。

 火防対策は考え得るすべてを尽している。

 日本橋白銀町に高さ二丈四尺、東西十全町の土手を作り、おなじく日本橋南詰の万町から、当時、魚菜市場として賑わった四日市の間に、高さ四間、東百二町半の土手を築いた。また日本橋・京橋間の三ヵ所に、人家を退けて広小路を設けた。さらに神田では鍛冶町・楠町間の長崎町を、すっぽりつぶして空地にした。すなわち町地の要所に、土手や広小路を設けて延焼を喰いとめようとしたのである。

 また今まで主要道路は、幅六間だったのを十間にひろげた。これは延焼防止というより、避難時の安全対策として計画された。

 防火用水もじゅうぶん考えられた。芝・浅草の両新組や、神田川をぐっと拡張した。そのほか江戸川の付け替えや、川向うへの両国橋の架設、さては下町ぜんたいに、竪川・横川・十間川の壁開もおこなわれた。

 回匿大火後の都市計画は、かくて防火に重点がおかれたかに見る。が、実は同時に遠い江戸の将来を見越し、防衛上からも高い次元で計画は立てられている。計画原図は知る由もないが、実現した新しい江戸の構造は次のようにできあがったのである。

 

 江戸城の正面、常盤橋から丸の内へかけての内郭は、さらに内桜田・外桜田、それからずっと愛宕下まで、主として外様の大大名が上屋敷をつらねた。

 その東方が商某地で、草分けの古町を中心に町家が櫛比した。

 一方、城の背面の番町から、飯田町・小川町・駿河台にかけては旗本屋敷である。そして内郭・外郭の中間旭市には、大名の中屋敷や旗本屋敷、それに寺社・町屋がここだけはやや入りまじって建っていた。

 さらにこれとは別に、浅草・谷中・牛込・四谷・芝・三田などに、中心部から移された寺々が寺町を作った。後々までそのおもかげを残している。

 このほか外郭の外、いわゆる地廻りに大名の下屋敷、または寺格の低い寺などが配された。

 遊廓は江戸のはじめ、日本橋の東北方葺屋町で営業したが、この大火を談合に浅草の北へ移転させられた。これを新吉原といって、名称上、元吉原と区別した。

 なお附加えておけば、東海道・中山道・甲州道中の道路ぞいに、追い追い町家が並びはじめていた。それはそれで、一種場末の風情を生みつつあった。

 以上が明暦大火後の江戸である。立案および実際の指揮者は、……知恵伊豆で名高い松平伊豆守であった。

そういえばこの構造の中に、政治的と思われる幾つかの配置に気づくであろう。

 城の背面、北東の台地に旗本を住わせたのは、搦め手がこの城のウイークポイントだったからである。敵にその台地から、火矢を浴びせられてはひとたまりもない。旗本屋敷でがっちりと固め、その弱点を蔽ったのである。

 前面の内郭を、譜代大名邸で埋めたのもその意味である。特に西大下の内郭、今の皇居前広場には、老中・若年寄など要職の屋敷を配置した。請願・陳情などここで引受けたので、屋敷といっても官街の意味が強い。退職すれば後任者が入れ替った。

 外様を外郭へ移したのは、すでに支配体制の確立により、間近に抱きこんでおく必要がなくなったからであろう。また内郭に大きな建物のあるのを、幕府は防火上敬遠したためでもある。

 さらに寺社を外郭、または地廻りへ移したのは、郊外の発展を狙うとともに、万一、江戸が攻められたとき、この外郭線によって防戦するためと考えられる。

 両国橋の架設は大大の折り、火に追われた市民が川にさえぎられ、多くの焼死者を出したためである。が、それよりも膨脹する江戸の人口を、川向うに吸収するためであった。この一帯はまだ水陸模糊(もこ)たる沮洳(しょじょ)地であり深川八幡だけがポツンと海中に出でいたのか、毎日出る江戸のゴミで埋め立てた。それから三十年と経たない元禄期には、深川地区に「六万坪」または「十万坪」という広大な埋立地が自然にできあがっていた。知恵伊豆の計画は、どれを見ても一石二鳥、あるいは三島を狙っていないものはない。

 それはとにかく、このとき江戸は画然と山の手・下町に分れ、前者は武家、後者は町人の町となった。両者は性格も機能も大きく違うが、互いに唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係をなして首都の使命を果した。江戸の位置と地形が、よく家康の期待に背かなかったのである。

 

 江戸が世界一の都会となる

 

 江戸は天和二年(一六八二)十二月、ふたたび明暦のそれに上まわる大火に見舞われた。俗に「六道火事」という。火は六日間も江戸の空を蔽ったが、大して死者を出さなかったのは、火除地平広小路のお陰である。この経験により、六道火事の後は大道路のほか、多くの新道・横町を避難用に作った。このため古町に見た整然たる区画が、いつしか崩れて街筋は複雑多岐の様相を呈した。

 江戸の町数はそのころちょうど八百八町あった。が、ほどなく元禄(一六八八)の大飛躍期を迎え、それは鰻のぼりにふえた。

 正徳三年(一七一三)には九三三町、延享四年(一七四七)には早くも、六七八町となった。そして天明年間(一七八一~八八)の調べは、何と一、七七〇余町となっている。町数はこれが最高で、「江戸八百八町」の二・二倍はあった。

 人口は享保六年(一七二一)の調査で、武家が五二~五三万大、庶民も同じく五二~五三万人、合せて一〇四万人から一〇六万人とされている。これは当時ヨーロッパで最大の都会、パリの五四万人をはるかに越え、まさに世界第一の都会であった。

 また、日本の人口は当時二、八〇〇万人だから、約その五パーセントが江戸に集中し、早くも過密都市の弊害を生んだ。幕末の天保十四年(一八四三)には、それが一一〇万にも膨脹している。

 山の手・下町の特徴は、人ロ増加とともにいちじるしくなった。大名屋敷には六万坪を占めるものがあり、一方、下町の裏長屋は「九尺二間」で、わずか三坪しかないものもある。

 「真壁を隣でかえす江戸の町」

 は、人家の個室ぶりを謳っている。何とも凄まじい相違だが、身分・階級が封建制のバック・ボーンだから、これが当然である。

 その山の手と下町との間に、ひどく異なる生活感情と文化が育ったのは、これまた当然といわねばならない。山の手の武家は静的で作法に叶い、武術をふくむ教養を常に心がけた。これに対して下町の庶民は、動的で無作渋で教養がない。それをかえって自慢にした。山の手の文化が漢詩や和歌、または能楽だったとすれば、下町に育ったのは俳諧であり、狂歌であり、埓もない戯文や落噺であった。両者の間には、すべてに画然・賎然たる差異が認められる。この差異もまた、世界の都市のuppertowndowntownに共通するものである。

 だが言葉を変えれば、この差異があるかぎり、江戸時代の封建制はまことに安泰であった。が、下町の町人に財力がつき、逆に武家の経済、が破綻すると、旗本株、御家人株が売買されて両者の身分が混淆した。武士も戯文や落噺に興じ、みずから下町の「べらんめえ」ことばを好んだ。それは封建制の矛盾が積り依って、みずから崩壊する姿にほかならない。そして江戸は終った。

 それはともかく、江戸から東京ヘ一貫して存在し、名所と遺跡をあるごとくあらしめたのは、この山の手と下町である。 『江戸史跡考証事典』






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最終更新日  2021年05月16日 10時38分46秒
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