2295736 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年05月18日
XML
カテゴリ:著名人紹介

伊那の高遠 思い出すままに 中村元和氏著

 

韮崎 『中央線』昭和47年

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

 伊那節の一句に

  

木曽へ木曽へと積み出す米は

        伊那や高遠の余り米

 

という句があります。この高遠が私の祖先の住んでいた土地で、いまは桜の花の名所として有名であります。私の現住所は、静岡県清水市にあって、甲府市の山梨大学工学部電気工学科に勤務していますが、原籍は長野県上伊那郡高遠町になっていますから、高遠出身と言えます。

私の祖先は、高遠の内藤藩の家臣でしたから、江戸への往復には、この甲府の町を通ったと想像しています。然しながら私の曽祖父(中邨元起)の代までは高遠に居住していました。その後は転々と住所を変えて今日に至っています。現住所が変わっても原籍地を変更しなかった理由は、何となく変更したくなかったからであります。高遠の地には、目下私の家も、土地もありませんが、曽祖父および、曽祖父の父(中邨元恒)の記念碑がありますから、何回か足をはこんだことがあっても、住んだことはありません。又現在親戚、友人が殆どいませんから、人的つながりはないと言えましょう。残っているものは祖先の記念碑と業績(後で述べますが進徳館)とであって、これに心がひかれている為でありましょう。同時に、知らず知らずのうちに、私の心の支えともなり、私もあれくらいのことをしたいと念願していたものと言えましょう。

 私の父(元)は唄京の第一高等学校を卒業し、ひきつづき京都帝国大学工学郡上木工学科を卒業しました。卒業後一時、住友の別子銅山に勤務しましたが、古河鉱業所足尾銅山に勤務するようになり、私は足尾銅山で明治四十一年に生まれました。その頃の足尾銅山に行くのには、現在のような鉄道がありませんから、東京から日光まで汽車に乗り、日光から細尾峠を越えて、駕籠で行ったのを覚えています。足尾に小学校の三年の終りまで住んでいて、その後唄京に来て小学校卒業、つづいて東京府立第四中学校を卒業しました。

この頃毎年一回中村家に関係のある子供が約三十人、中邨弥六(祖父の弟)の家に集まりました。この家が、東京の乃木神社のそばにある乃木坂の中ほどにありました。

 私は其の後、第一高等学校をへて、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業したのが昭和七年、直ちに日立製作所に入社し、茨城県助川町(現在の日立市)の日立工場に勤務しました。中邨弥六は、その後、神奈川県国府津町に移り、病気療養をしていましたから、私も何回か見舞に行きました。何時の時か、はっきり覚えていませんが、私が、その時第一高等学校の理科に入学していたのを知って、「理科を勉強すると、理に走って非人間的になるから、そうならないように心掛けなさい」と言って私に、ドイツ語の歌曲の本を手渡しました。甚だ残念ながらその本は、目下私の手許にはありません。これが、私が弥六に会った最後であったような気がします。大学を卒業するまでの間、履歴書を書くたびに高遠町を機械的に書きましたが、行ったことなく過してしまいました。

この間に高遠にかんして心に残っていたのは、現在高遠公園にある祖先(元恒、元起)の記念碑のことでありました。大正の始め、元恒、元起に従五位が追贈され、その記念碑が高遠公園に建てられました。この除幕式のとき、私は小さかったので出席出来ませんでしたが、私の姉が出席しています。当時の写真を見て、この状景は深く脳裏に刻みこまれていると言えましょう。

 私の姓は現在、中村と書いていますが、この字を書き始めたのは祖父の時代からで、曽祖父の時までは中邨と書いてあります。どういう理由で、こうなったのかわかりませんがひきつがれで今日に至っています。ただし、中邨弥六の方は、ひきつづき邨の字を使っていました。邨の宇は、現在の当用漢字にありませんから、今になってみれば、村の方が便利です。日本の総人口の姓の中で、中村姓の人間は極めて多く、多い方から数えて八番目であったと思います。「オーイ中村君」と言う歌が流行したのもこのためでしょう。同姓が多いために、姓だけでは区別出来なくて困ることもありますから、私は印鑑には中村を使用せず中邨を使っています。小学校の時代は、一組に同姓が二、三人いるのが通例でした。

 私が生れてから、これまでの聞に高遠に行こうと思えば、行ける筈でしたが、何故か積極的に行くに至らなかったと言えます。当時父も健在でしたが、墓詣りに高遠に行くようにと、父から言われたこともなかったようでした。これは、祖父の時代から別の戸籍となった為と思います。昭和七年大学を卒業した年の夏、徴兵検査がありました。それまでは在学中でしたから検査延期になっていました。検査は手続きをすれば、現住所で受けることが出来るようになっていましたが、この際、原籍地に行ってみようと思い立ったわけです。

茨城県助川町(現在の日立市)を夕刻出発して、上野に着き、新宿発の改行列車に乗って早朝伊那駅に着き、バスで高遠町に着いたのは、まだ早朝でしたから、宿を定めて、散歩に出かけました。初めてみる高遠町は、三峯川とその支流の合流点にある静かな町でありました。宿は町の中程にある古い家でしたが、その名前は覚えていません。宿を出て、橋を渡り、高台にある高遠公園にゆき祖先の記念碑を見て、つぎに道徳館を見ました。ここが祖先が活躍した所かと思うと、一木一草にも何か意味があるように思われました。とにかく大きい事をやったと言う実感と、今まで遠方にあった祖先が、急に現実の姿として目前に現われた気がしました。原籍地の場所は畠

になっていたので、夢の跡というような淋しい気持がしました。それから、祖先の墓のある寺に足を運びました。

 翌朝は早く起きて、徴兵検査をうけました。何処でどんな風に行なわれたのか、詳しいことは覚えていません。最後に司令官の前で質問をうけました。今でもはっきり覚えていることは「お前は、どんな仕事をしているか」と「月給は、いくら貰っているか」でありました。日立製作所に勤務していると答え、月給は百円だと言ったら、「沢山貰っているなあ」と言われ、最後に、仕事に励むようにとさとされ丙種合格と言い渡されました。そこで検査は終り、私は直ちに日立市に帰りました。

 其の後、ひきつづき私は、現在の日立市に住みました。日本の国は、次第に戦時体制に移り、会社の仕事は忙しく、毎日残業の連続となって、高遠町に出かける暇はなくなってきました。こんな状況が終戦まで続きました。

        (背水)

<註)中の父淡斎は医業の傍ら高遠に塾を開き漢、蘭の学を教え、中は高遠藩主の典医となり、その子黒水は藩校進徳館の開設に尽力してその筆頭儒(教授)となった人です。

なお中央線九号の「高遠城址を訪ねて」中に紹介された伊沢修二の父母に当る勝三郎・多計の結婚媒酌をし修二にも厚く目をかけ、彼を大学南校の貢進生として第一位に推薦したのも黒水です。

 又、中村弥六は進徳館・大学南校を経てドイツに留学、林学と山林行政学を修め日本最初の林学博士となった人です。そして政治に興味をもち衆議院議員当選十回、支那の孫文と交り、或はフイリッピン独立志士の援助などした人。その娘婿久四郎は漢学の大家、次いで明は名大教授として位相幾可学の権威でした。筆者の元和氏は現に山梨大学教授工学博士ですが、工学部長、山梨工業会長などされ本県工業教員の単位認定講座をもしばしば担当され県教育界に多大の貢献をされていますが、何にしましても中村家は高遠藩における名門でして代々医学、教育の面で偉大な足跡を残されています。本県と高遠とは信玄以来深い関係があり、中村氏もまた深く山梨を

愛され、ここに「伊那の高遠」がよせられたのです。(小沢)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年05月18日 17時45分03秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X