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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月18日
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伊勢屋書店 内藤新三氏著 韮崎 『中央線』昭和47年

 

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

 わたしの七・八才のころだったろうか?

上諏訪にとついでいる叔母(母の妹)が、従弟の岩下文太郎とわたしに一台づつローラースケートの下駄をみやげに持って来てくれたことがある。わたしは嬉しくて嬉しくてしかたがなく、畳の上でごろごろとすべっていたが、「畳が切れるから外へ出てすべれ」といわれ、竹の棒をつえにしておっかなびっくりすべってみたが、なかなかうまくゆかない。ちょっと油断をするとすぐしりもちをついてしまう。そのうち年上の従弟の方はすぐ上達し、わたしはまだつえがなければすべれなく、毎日ヨチヨチしてころんでばかりいると、ある日篠原武雄という上諏訪で育ったいとこの友だちが、おれに貸せろと言ってすべり出し、今度はいとこと二人で町の中を競争ですべり歩き、こんなことが幾日もつづいて、持主の私より篠原武雄が使う方が多くこの時代のローラースケート下駄は車輪が木で出来ていたので、たちまちゴロが減り、といっても平均に減るのならいいが、乗り手の癖によって四輪のうら、前輪の二つが減ったり、外側の二輪が減ったり、内側の二輪が減ったりするのとあって、篠原武雄はどっちを減らしたかいま記憶はないが、ひどく下駄が煩いて真直に立っていられないようになってしまったことを今でも思い出す。

わたしはこんな癖のついた下駄でようやく滑れるようになったころは、もう何の輪っぱもひどく消耗し心棒もかなり痛んで、如何ともしようがなくなってしまっていた。

 

この篠原武雄の母親の実家は「清水」姓であるが、この君の母親が篠原姓の家へ嫁に行き、嫁入先で生んだ子を連れて出戻りになっていたので、婚家の姓を名のっていた。母親の実家は「伊勢屋」といい、国定教科書の販売は勿論他の書籍も手広くあつかい、この家で出版したものもかなりあったようだが、いま筆者の手もとにあるものは左のような教科書と一般の読物が一冊あるだけである。

明治十六年九月二日御題、編集人不詳、山梨県平民甲府市桜町三十六番地中山録朗出版の「山県大弐実録全」という三十六丁の小形本の奥付で、甲府市柳町三丁目微古堂他二十一名中に「韮崎駅伊勢屋彦左衛門、同保坂武右衛門」の両人の名が連ねられている。

明治二十九年六月版権譲受の。「小学甲斐地理史談全」荻原忠作著の奥付に韮崎伊勢屋・甲府柳町徴古堂・甲府桜町五明堂・谷村斎藤の芳香堂の名が連ねられている

なお教科書では明治二十八年一月六日印刷、同月十七日発行「小学校用甲斐国史」の奥附に、専売書韮崎伊勢屋・甲府桜町五明堂・甲府柳町芳又堂・甲府柳町微古堂・猿橋文詮堂・甲府柳正堂・谷村芳香堂の名が連ねられている。

 わたしたちの子ども時代には教科書販売は伊勢屋から百瀬書店に移っており、現在は文光堂がそのあとを引継いでいる。

 伊勢屋という家は今の栄月堂菓子店のところから、青竹というそば屋のところまでの敷地で、栄月堂のところは間口二間、奥行二間ぐらいの蔵座敷で、わたしの子どものころはいつも締めきってあって、いま「青竹」というそば屋のいるあたりが耶蘇の教会になってい、クリスマスのときばかり行って紙袋へ入れたお菓子を貰ってきたことを覚えている。

ここにいた牧師で「川島」という人があってこの家に私と同級の子がいたが、二年かそこらのつきあいだったので今はもう顔も記憶していない。

 「川島」が去ってからこの家は長い聞空家になってい裏の離れ座敷に何とかいう小学校の先生が住んでいた。

このころ横町に木本芳吉という餓鬼大将がいて、わたしたちはこの大将の傘下だった。ある日何処からどうしてはいり込んだか気憶はないが、木本芳吉につづいてこの家の前記の蔵座敷の二階に上り、金盥をたたいたり窓の鉄棒をたたいたりして大騒ぎをしていると、裏の座敷に住んで居る田島という教師がぬっと限われ、「何をしているか?やかましくてしかたがないじゃないか!」といってどなりつけられた。瞬間のことでわたしたちは度胆をぬかれて、みんな不動の姿勢になった。そのとき一人一人じろじろとにらみつけられたので、あした学校へ行って職員室へ、呼び出されるのではないかと思うと、その夜は落ち落ち眠れなかった。このとき、木本芳吉はす

ばやく何処かへ姿を晦ましていて、この場にはいなかった。まさに神出鬼没だった。

 のち、末木芳吉は大物になった。○○で何年かの体刑を喰っている。彼は徴兵検査のとき、検査官からこのことをつかれ、大勢の前でお目玉を頂戴した。甲種合格で海軍に徴兵されたがその後どうなったか?とんと消息を知らない。木本芳吉の父親は繭の仲質屋で、家ではかみさんが横糸(甲斐絹織物の横になる糸)をとっていた。

 明治何年ごろだったろうか?赤痢病が流行したことがあり、芳吉の父親七五郎はまっ先に感染し、舟山腰にあった避病舎に強制収容されたが、当時は伝染病で避病舎に容れられることをひどく嫌悪し、この七五郎も御多分にもれず夜中ひそかに脱走をたくらみ、番人に見つかって連れ戻されたことが幾たびかあり、このため病勢をこじらせついに帰らぬ客となってしまい、七里岩台上の狐塚という雑木林のなかの野天で火葬された。

 後に残された小母さんが果実や野菜類、子ども相手の駄菓子などを商なって生活していたが、不潔でとても買って食う気にはなれなかった。娘が二人あって二人とも器量がよかったので、いまはいい相手を見つけてそれぞれ幸福に暮していることだろう。

 その後、この家へ後家人にはいって来たおじさんがあり、この人が非常に奇麗ずきの人だったので、店は一変して姿をあらためたが寄る年なみで、この老夫婦は小母さんの子供たちのいる地を頼って去っていったまま、その後の消息はわからない。






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最終更新日  2021年05月18日 19時13分25秒
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