カテゴリ:北杜市歴史文学資料室
地蔵になった男 菊島信清氏著 韮崎『中央線』昭和47年
一部加筆 白州ふるさと文庫
去る一月五日のドキュメンタリー(NHK総合夜7・30)を見ていた私は、ハツと驚いてしまった。その人の顔は見えないが、たびたび呼ばれる…宮沢…という苗字と、物理学校という言葉を聞いているうちに、四十年来私の記憶の底に眠っていた男が、頭をもたげたのである。 当日の山日記事によると さる十一月二十六日長野県の飯田市郊外 (下伊那郡松川町生田)で、お地蔵さまの開眼式があった。その名を「芳重地蔵」という。 七十才を過ぎて、三年前東京で亡くなった宮沢芳重さんは、その半生を自分の理想とする、大学設立のために血の出るような努力をしてきた。郷里の飯田市には、芳重さんが送りつづけた図書二千冊を収めた宮沢図書館が建てられ、高等学校には、天体望遠鏡を収めた観側室が寄贈されている。地元の人は、芳 重さんを「神のような人」とあがめて、地蔵を建立したのである。その芳重さんは、東京では、日雇いをして暮らしていた。とある。 昭和六年四月某日、私は東京牛込の神楽坂附近をぶらついていた。下宿をさがすためである。当時私は横浜の学校を出て、東京駅前の会社へ通っていた。勉強ずきでもないのに、夜は神楽坂横にある物理学校(現東京理科大学)に籍をおいた。 そんな事情で、通勤通学に便利な神楽坂附近を物色したのである。 日曜日であったと思う。私は仕舞家(しもたや)の格子戸に(同居人を求む)という広告を見付けた。まあよかったと、早速とびこんで、そこに見た人が宮沢さんであった。黒い事務服を着、度の強そうな眼鏡をかけ、鉢の大きなジャンギリ坊主で、血色の悪い顔が今でも眼にうつる。 宮沢さんの下宿は素人下宿で、六十を通ぎたと思われる後家さんが経営しており、下宿人は十二、三人は居だろうか、殆んど物理学校の学生であった。 宮沢さんは二階の六畳間を十二円で借りていたが、同居人を入れて、部屋代を切半にしようと考えたのであった。宮沢さんにとって部屋代十二円は、とんでもない高額負担だったから。 次の日曜日に、横浜から越して来た私は、それから半年ばかり、彼と同居することになった。 宮沢さんはその時三十才を過ぎていたと聞いたが、物理学校数学科三年生で、昼間部に通っていた。 私は会社勤めの帰途、物理学校をのぞくという塩梅(按配・あんばい)なので、同居といって も顔をつきあわせるのは、朝と夜のほんのひとときである。 私は荷物(といってもフトンと行李だけ)を運びこんだ晩、宮沢さんを近くの市営神楽坂食堂へ誘った。引越そばをふるまうつもりで、夕食は何にしましょうかと聞いたが、何でもよいというので、月見そばをたのんだ。 私は元来食いしんぱうで喰べ方が早く、特にそばは大好物なので、またたくまに食べてしまった。たべ終って、さて宮沢さんの方を見ると、中味が殆んど減っていない。そばは嫌いだったのかなと思い、聞いてみたら、いや好きです。という。そんならパンパン喰べればいいのにと思ったが、ご本人はケロッとして、一向に慌てないのである。 ボーイなどコソコソいいながら、こちらをぬすみ見しているようで、私はなんだかきまり悪くなってしまった。そしてその一枚を三十分もかけて平らげたのに、まづ度胆を抜かれた。 あとで判断したことだが、宮沢さんの不断の食事は余りに質素なものだったので、月見そばなんというご馳走を、いそいで食べてしまう訳にはいかなかったようだ。 同居して二三日経ったころ、朝のひととき宮沢さんの姿が見えない。どこへ行ったのだろうと不審に思っていたら、布団など入れておく押入れの中から、ゴソゴソ音がする。 こんなに明るくなっているのに、大胆不敵な猟族どもめがと、勢よく唐紙をあけたら、なんと宮沢さんが、暗闇に鎮座しているではないか。私がおどろきあきれて問いただすと、朝食をしているのだという。そんなら部屋でたべればよいのにと言ったら、恥かしくて、たべる物を私に見せられないという。 宮沢さんはその頃、一日の食費を十銭であげていたのだった。当時は不景気だったので物価は安かったかも知れないが、それでも支那そばが十銭はしたし、東京市営食堂の定食も一日四十銭はかかった。 宮沢さんの主食は食パンのきれはしであり副食は季節の生野菜とそして昆布であった。昆布といっても、吾々がたべる広巾の葉のところではなく、茎から葉にうつる境目のとこで、いい加減の袋に一つ五銭とか聞いた。早稲田の校門近くにその店があったようだ。 この昆布が又何とも言えずおいしかった。噛む程に丁度よい塩味の中に甘味があってしかも磯の香り充分である。 主食であるパンは、食堂で捨てるようなところを看貫(かんかん)で買ってくるので、なんぽたべても、一食二銭ぐらいにしかならない。なんと合理的、経済的な食事であったことか。 私は同居するからには、彼に同調することとし、私にもパンを食べさせてくれと懇願し聞届けてもらった。 それから朝食だけ合食することになった。勿論明るい六畳聞で堂々と。 パンはバターかジャムをつけて喰べるものという先入主を見事追い払って、何もつけないパンが何ともいえずおいしいことがわかったことは、私の一生にとって、まことに有難いことだった。パン本来の味を知ることが出来たのだ。 ところが、その年の七月頃であったか、出勤中の私は、急に腹が痛み出した。その日、朝だべたパンの切れはしに青カビ(緑青のような)が浮いていたことを思いだし、悪い病気ではないかと心細くなり、早速医者に診てもらったが、幸い心配するようなものではなかった。 しかし、私としても、宮沢さんが部屋で朝食をとっていることでもあり、無理してまで彼に同調する必要もなくなったと考え、それ以後は外で朝食した。 宮沢さんの生活は簡素の一語につきる。寝具も薄いフトンー枚で、のり巻き寿司のように、グルグルッと体にまきつけ、壁際へ寄りかかって、そこで一日が終わる。 ある日曜日、上野の帝国図書館へ行こうということになり、電車賃(七銭だったと思う)は私が出すから、一緒に行きましょうといったが、頑としてうけつけず、彼は神楽坂から上野までかけ足した。 貧していても、他人の情にすがりたくないという気持だったらしい。 私は宮沢さんが生活の資をどこに求めているか興味を持ったが、せんさくする程ひまでもなかった。以前どこかで働いて貯めた金で食いつないでいると、誰からか聞いた。 そんなある夜、私は九段前の大橋図書館からの帰り途、たまたま飯田橋に差しかかったところ、橋の上に人ざかりを見た。何だろうとのぞいたら、宮沢さんが例の黒い事務服を着て、人の輪の中央に居るではないか、そばに天体望遠鏡(多分五十倍位のもの)をそなえつけ、のぞきたい者に五銭で見せていたのである。つまり彼氏のバイトであり収入源の一つでもあった。 私は同居のよしみで、ただでのぞかせてもらったが、土星の環がはっきり認められ、大東京のど真中で見上げた星空の神秘さに打たれたのだった。 宮沢さんはその頃、ひまさえあれば、職業紹介所をかけめぐり、職さがしをしていたようだが、うまくいかなかったらしい。 こんな訳で短い期間ではあったが、私は心ひそかに、奇人宮沢さんと同居できたことを誇りにしたものである。 ところがひょんなことで、二人は別れねばならぬことになった。 宮沢さんが自分の部屋に寝ず、廊下に寝はじめたのである。当然のことながら、廊下を通るほかの下宿人から又句が出た。二階の廊下をしめ出された彼は一階の廊下にうつったが、ここでも反撃をくった。 同居人としての私は気が気でない。どうして廊下などへ寝るのですかと詰問すると、部屋には南京虫がいてねられないという。しかも、その南京虫は横浜から私が運んだものだという。私も頭に来てしまった。 というのは、私が同居して間もない頃、太股や腕など虫にくわれて赤くはれ上がるので宮沢さんに、この部屋には南京虫が居ますねといったものだが、彼はとり合わなかった経緯がある。 結局私が身をひいて下宿をかえた。爾来四十年余の才月が流れた。 聖人といおうか、君子といおうか、まことに浮世ばなれした人ではあったが、女性に対し、まるで無関心というではなかったようだ。 私どもの下宿のそばに、吉岡弥生の経営する病院があった。吉岡弥生は当代一流の女傑で、近隣の人の信望も厚かった。 そこへ宮沢さんが…嫁を世話してくれ…と頼みこんだところ、学生で無収入の人にお世話は出来ませんと断わられたという話が、下宿のおばさんから、みんなに吹聴された。 又、たまたま私の母と妹が上京し、私どもの部屋ヘー晩泊ったことがあった。 その後私が帰省した時、妹が笑いながら、宮沢さんからラブレターのようなものをもらったが、むづかしくてよくわからないとのことだった。残念ながら、私はその手紙を見なかったが、宮沢さんの一面を垣聞みてほほえましく思った。 私は今でも、名利をはなれ、理想につき進んだ宮沢さんが好きである。長い間の労苦が報われたことを心からよろこび、霊の安からんことを祈る。 宮沢さんの故郷、長野県下伊那郡松川町の教育委員会がつくった「宮沢芳重氏年表」によると、宮沢さんは昭和45年H月27日東京の病院で食道癌のため亡くなった。満七十二才であった。 死亡当時の肩書(?)は 日本天文学会々員・科学基礎論学会々員・研数学館生徒・緑の会々員・禁酒同盟会員 全日自労組合員・東大白菊会々員(被解剖者)等であった。(48・2・26)お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月18日 19時43分15秒
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