カテゴリ:韮崎市歴史文学資料室
少年祭事記 志村黙栄氏著 韮崎『中央線』昭和47年
一部加筆 白州ふるさと文庫
序
彩色した雛の羽根で飾った竹笛が 風船のしぼむ息で鳴く 「キュワー」 紙火薬の破裂する するどい音と香ばしいかおり 神楽がだらりだらりとはやす こんにゃくの大鍋には鮪の頭が 情ない眼をみひらいて ごとりごとり動く 私は買う気もなく女の子と並んで 海鬼灯の美しい色どりにみとれる ほこりっぼい春の風
どんど焼き
正月が済んで、冬休も了りまた寒い三学期が始まって間もなくやってくる祭は一月十四日のどんど焼きである。 栄一の部落には道祖神が三つあった。「東しんちょう」「西んちょう」「心村」と、大きく三つに分けた小字に、各一つづつ道祖神の名詞があって、そのまわりの一寸した広場が子供のたまり場になっている。どんど焼きは住村ではやらなくて昔から西んちょうに合流した。 栄一の家は東しんちょうに所属していたので、どんど焼きは東しんちょうに加った。だからこの小さい部落でもどんど焼きはニケ所で行なわれた。 東しんちょうの道祖神は栄一の家から北へ三百米ばかり隔れた四ツ角にあった。 下を広く上に行く程せばめて積み上げたいりっぱな砦の上に石の桐が祭ってある。そのまわりは一寸した広場になっていて、青年が力較べをする石がころんでいたり、機械体操と呼ばれる鉄棒が立っている。 そこの角に紺屋という屋号.の部落で只一軒の店があって、酒、煙草、塩、駄菓子、一寸した日用品などひさいでいた。 十三日に青年が、各家をまわって正月の飾りや竹や繩や、又若干の賓銭を集め歩いた。家々では米をひいて団子を作る。主に蚕の豊作を祈って繭玉であるが、外に瓜やなす南瓜俵などもある。それを団子バラという山梨の枝にさして、家の中へ飾る。暮し向きのよい旧家程大型のものを作る。栄一の家のは天井へとどく程大きいのを大黒柱へ結いつける。 栄一達はその下をくぐって遊んだ。近所の子供が見物にきて感嘆の声を上げるのをきくのが得意であった。母は、「後の始末がねえ、こんな固いまづいもの誰も食べなくて、おしまいには捨てちもうのでもったいない話さ、ほんとはもっと小さいのを作ればいいだけれど、昔からのしきたりでそうもいかず」 と、こぽすのを聞いたことがあるが、栄一は大きい方がやはり立派でいいと思った。 十四日、学校が了って駈け足でもどってきて早遠道祖神道へ行ってみると、もうすっかり仕度が出来て、広場には竹や藁や松の葉で立派な小屋ができて、小さい子供達が小屋から出たりはいったりして遊んでいる。道祖大明神の太織が立てられ、祭提灯もづっと沿道に立ち並んで、石桐には五色の紙で切ったしめがまわされ、神酒まで供えてある。しめというものは通常白紙であるが、どういう訳か道祖神のそれは色紙を使用した。だらだら太鼓を打ったり、かくれんぼや陣取りなどして夜になるのを待つのである。 日常よりやや賑ぎやかな品数のある夕食の膳もそこそこに明るい中に用意しておいた針金に通した団子と、正月年棚に上げた書初をふところに道祖神場にかけつける。すっかり暗くなる午后六時頃になると、道祖神場は老若男女で一称になる。大人たちは日常はなかなか飲まない不廉な酒に顔をてかてか光らせて盛んに軽口をとばしている。 この道祖神祭だけ女の子は化粧をすることを大ぴらに許されるのである。小さい子は鼻筋だけ一筋練り白粉を塗るだけだが、大きい子は濃い化粧をして口紅までつける。男と女のへだたりのようのものがはっきりして、栄一にはこの晩の女の子は近より難い存在に見え、なにかねたましく、羨しく、悩ましい気分にさえなるのであった。ふだんはさほどにも見えない子が、いい着物を着て化粧するとみちがえる程なまめかしく美しくなるのであった。「そろそろ始めるか」と四、五人の青年がかねて用意の大松明に火を入れて、小屋の四方から一斉に火をかける。それと同時に太鼓打ちが威勢よく太鼓を打ち始める。この太鼓はどんどやき太鼓と言って、独得の打ち方をするもので、別に大した技術も修練も必要としないが、力まかせに打つので体力腕力がいるのである。四角の浅い桝形の台にはめた太鼓を、小太鼓方と呼ばれる一人が、二本の揆でドコドコドコと調子をとるように平均に打ち嗚らす。大太鼓方と呼ばれるもう一人は、踊り上るようにカー杯揆を振り上げて、強弱巧みに揆をさばき午ら二拍子で太鼓を打つのである。 ドンドロコ ドコドコ ドンドロコ ドコドコ ドンドンドロコ ドンドロコ ドンドロコ ドンドロコ
こんな調子に聞えるまことに勇壮な太鼓で、大太鼓方は寒中の寒いのに襦袢一枚の双肌抜ぎで、玉のような汗をかく、それでも長くは続かず、別に揆を持って待期中の一人が、「代れ」の合図でとびこんで巧みにつないで又打ち続けるのである。「うわーっ」という喚声とともに、じりじりと青松葉の燃える音青竹のパンパンとはぜる景気のよい音とともに、火は中央に燃え上った。 道祖大明神の幟も、太鼓を打つ人も、群集も皆一様にあかあかと照し出された。金粉を撒いたようの火の紛が、空一面の星とまごうかのように舞い上っては消え、舞い上っては消える。火勢の最も盛んの折りをねらって子供達は書初めを火に投ずるのである。火勢にうまく乗って高く上がれば「手が上る」と言って字が上手になると言われているので、皆きそって高く上げようとする。毎年一枚や二枚は皆嘆声を上げる程高々と上るのがある。暗い空に赤く映え乍ら、はじめの方からメラメラ燃え乍らただよう清書をみて「誰やんのだ!誰やんのだ!」と子供達は一斉にはやす。 栄一は宇が甚だまづいせいか、五回どんど焼きに今年こそと気背って書初めを投じたが、いつもすぐだらしなくくろい灰になってしまって、五回とも二尺(約60cm)とは上に上らなかった。 六年生の時のどんど焼きは、大正天皇崩御の諒闇のため中止されて行なわれなかった。ちなみに彼の記憶ではどんど焼きの晩はいつも星の降るばかりの晴天であった。 西んちょうのどんど焼きは、栄一の家から田を二枚程へだてた小高いところで行われた。ここは小人数のため毎年東しんちょうより早かった。そして西んちょうの子供達は東しんちょうへ合流してきた。 或る年など栄一がまだ夕食の膳についている中に、狂ったように西んちょうのどんど焼き太鼓が鳴り出したので、慌てて箸を捨てて庭にとび出すと、栄一の家の土蔵の白壁をまっ赤に染めて、西んちょうのどんど焼きが今燃え上ったところである。 栄一の部落は村の北端の一番高いところに位置していたので、よそ部落のどんど焼きの燃え上るのは勿論、遠いよそ村のどんど焼きのかがりさえみえて、その上太鼓の音さえ遠く近く響いてきて、この晩程こころの浮々する晩はなかった。火勢が収まって、うづ高い薬大の山となる頃、団子を焼いてたべる。顔ばかりカッカツと熱くて、火のそばへ寄れないので、誰が考えたのか、針金へとおした団子を遠くから投げ込んで焼いた。女の子も男の子の真似をして焼いた。これは悪い風邪の予防になると言われたが、煤臭くて、にがくて、旨いとは思わなかった。 明くる朝早く道祖神場へ行って昨夜の灰を少し貰ってきて、水へ溶いで家のまわりへ撒き歩くのである。 蛇も百足虫もどけどけ 俺は鍛治屋の婿殿で 槍も刀もたんとある いい年をした父が、真剣の顔をして、尻をまくって、こんなことをぶつぶつ言い乍ら家のまわりへ灰水を撒き歩いた。 まあこの灰には魔除けの効能があるということであろう。 (この稿了り) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月19日 05時06分51秒
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