カテゴリ:韮崎市歴史文学資料室
韮崎『中央線』昭和47年 逸見路考 内藤賢一氏著
一部加筆 白州ふるさと文庫
肌寒い曇り空から、時たま雨の粒が白く乾いた土の上にころがる。 団子の北のはずれ、県道に岐れて坊沢に下る道が今に残る逸見路である。その下り口に散茶の石の塔にまじって、半ば土に埋った、右三十六丁 山道左二十一T✖✖の古き石の道しるべを左に見て、双葉町郷土研究会員十六名は、谷あいに三々伍々下ってゆく。昭和四十八年二月十八日の事である。暫らくは道の形をとどめていたが水の流れも少い坊沢を跳石伝いに渡ると生いしげった枯すすきにおおわれた急の登りになって、すでに道はない。 つる草や、野いばら、すすきを掻き分けて登る。登りつめると県道に出る。拡巾工事中の道を暫らく行って、右山道、左逸見道の道標の処を畠道に入る。枯草をふみしめてゆけば或るときは桑畑の畦道であったり、葡萄畑の境であったりする。昔この道がもっと広く、荷を積んだ馬が二頭並んで歩けた道だと云う。そして、これが人の往き来も激しい道であったのだろうか、荒れ果てて人一人がやっと通れるだけの処が多い。 勝頼公の一行が新府落成の砺、この道を落ちて、行ったのだと云ふ。この空の様に重い悲哀を胸にかみしめて、敗戦の身を声もなく足音をしのばせて行ったことであらう。 すっかり裸の雑木林の中は明るくわくら葉をふんで山に入れば、すでに道ではない。沢である。木の葉と石ころの曲りくねった急の沢を降ってゆくと川に出る。何を物語るものであらう、雑子石の地名を残す矢川の岸の大石、勝頼公の一行も、この石を眺め、このそばを通って今私達の降って来た沢を登って行ったものと思われる。川から一寸登りになり街道を横切り、米黄道を登る。この道が或時代には逸見路であり、又咸時代には小尾街道であった。そして或場所は小尾街道であり、穂坂みちである。そして棒道とも呼ばれたのである。楯無堰に添って行くと道の端に塔の 崩れた六部塚がある。立派な石塔である。この道の歴史を辿りゆく時、悠久のそのかみの事ども結ばれて佗びしくも又、多くの人の悲しみを誘へ祀耐孵に立てば、ここから望む新府城のたたずまい、炎を上げて燃えていたであらう城の姿が鮮烈に甦る思いがするのである。 そしてこの看回塚がその時のことを私たちに語りかけているのかも知れない。
春霞立ち出づれども幾たびか 後をかえして三ケ月のそら 武田勝頼公夫人詠 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月19日 05時30分58秒
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