カテゴリ:北杜市歴史文学資料室
北杜市高根町誌(合併以前)俳文芸 序
【註】素堂や黒露についての記述内容に間違いが多いがそのまま掲載する。
俳諧は近世に生まれた抒情文芸である。貞門の俳諧・談林の俳諧・蕉風の俳諧と成長し日本文芸の一分野となった。 山口素堂は近世初期の俳人であり、この俳諧の成立と発展に大きく貢献している。 素堂は甲斐国巨摩郡教米石村山口(現在の北巨摩郡白州町上教来石山ロ)に生まれ、山口家の甲府移住とともに甲府魚町にて成長する。家は酒造業を営んでおり、『甲斐国志』に「頗ル家富ミ時ノ人山ロ殿卜称セリ」とあるように資産家であったが、家業を継ぐ意志はなく江戸に遊学する。 江戸においては林春斎について漢学を学ぶが、北村季吟と関係があったらしく当時の素堂の俳諧は貞門の俳諧から出発する。 談林の俳諧は西山宗因によって起こるが、延宝三年(一六七五)東下した宗因を迎えて桃青(芭蕉)と共に百韻を興行するに及んで談林俳諧に転向し、延宝四年二人は『江戸両吟集』を興行するが、それに参加共鳴している自分たちの喜びを素直に詠んでいる。 梅の風俳諧国に盛んなり 信章(素堂) こちとうづれもこの時の春 桃青(芭蕉) 風」は「梅翁」すなわち宗因を表わしており、談林謳歌の叫びである。 延宝七年(一六七九)三十八歳の春、官を辞して上野不忍池のほとりに隠栖し、素堂と号し退隠の生活にはいる。自らの生活をはじめ俳諧についての深い反省で、談林の軽薄な俳風に飽きたらなくなってきて新風を考えていたのであった。この生活は貞享二・三年(一六八五、六)頃にはさらに静閑の地を求めての葛飾の地への移住となり、隠士の境涯に徹するようになる。 談林からの脱皮をはかる俳諧はその理想を漢詩の世界に求めた。 天和の漢詩文調の時代になるが、素堂の教養の中心は漢学であったのでその素養を生かし『虚栗』所収の「荷興十唱」に代表される多くの佳吟を発表し、続く貞享期にも高踏清雅の俳句を詠んでいる。 浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらん (虚栗) 市に入りてしばし心を師走かな (続虚栗)
素堂と芭蕉は同等の人生観をもっていたが、素堂が先行していた。これは文芸観についてもいえる。延宝八年(一六八〇)の『誹枕』の素堂の序に彼の新しい文芸観をみることができる。 旅を人生とした杜甫・李白・西行・宗祗・肖柏への共感であり、これらの人々のめざした心境は 漢詩・和歌・連歌とジャンルは異なるが、文芸の本質性においては変わりなく俳諧も同様であると述べている。 芭蕉は『笈の小文』においてこれと同様のことを主張しているが、『誹枕』の成立年代を考えると素堂は芭蕉より早くこの考えをもっていたとみてよいと思う。 素堂の漢詩文さらに日本の古典に関する高い学殖・俳諧における卓見・脱俗高踏の俳風は芭蕉の深い共感を誘い、尊敬する友人であったことと思われる。 俳諧の成立と発展は素堂と芭蕉によってなされたといってよいと思う。 日本の俳諧の成立と展開に大きな足跡を残している素堂であるが、高根町の俳諧はこの素堂の系譜によって生まれ成長していくのである。素堂によって葛飾蕉門が形成されるが、門人山口黒露によって引き継がれる。黒露は少年のころから素堂に師事し俳諧をはじめとして筝・茶の湯等を学ぶ。享保二年(一七一七)前年没した素堂の追善集『通天橋』を編集するなどして甲斐の俳諧に宗匠(甲府稲中庵)としての活動を始める。
この門人に小食稲後(甲府稲中庵二世)があり、この門人に高根出身の坂本喜兵衛・俳号幸松園利躬がいる。 『葛飾正統系図』(嘉永三年日日 一八五〇)には「黒露、稲中庵、甲陽の産、素堂の姪、山口氏を称し、素堂に江府に従ひ、後桑梓に帰りて門人多し。(中略)門入超早庵稲後、其門人幸松園利躬」とある。 稲後段後、覚政三年(一七九一)早超庵稲後一周忌追善俳諧集『こぞのなつ』が刊行される。題名の『こぞのなつ』は昨年の夏六月二十三日の稲後の死を回想しての命名であり、 莫湯僥香のいとなみにはかなき月日たちめくり今や一周の忌になりぬ。 其子某志深くして翁の生前の友とちあるは門弟の人々につのりて、 追善の一葉を催す」(友人潮南の序) 友人門人の深い師の思慕によっての出版であった。 広過てとはづかたりや涼み台 『こぞのなつ』に利躬が載せている追悼句である。師への思いが出ている。この利躬の句の前に長沢の桃流の句が載っている。 蝉さへもしきりになくや墓の前 長沢 桃洸 桃流の前は若神子の春米、東向の汀亀の各句が載っており、続いて長沢の桃流、箕輪の利躬となっているが、このように同地方の者が一緒にのっているのは門人であったことと思われる。桃流の句は墓前で師の生前を思い出し涙にむせんでいる心境がよく表現されている。高根町の俳諧は素堂の流れをくむ葛飾蕉風の俳諧によって始まっていくのであり、利躬は高根町の俳壇というより甲斐俳壇の中心的存在として高く評価されていた俳人であった。長沢の桃流については他に文献がなく書くことができないが、利躬と共に活躍していたことは間違いない俳人であり、今後調査研究していかなければならないと思う。まず利躬について書くのがその業績からいえば順当であるが、隆枝は利躬の伯父になるので隆枝から書いていくことにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月23日 04時29分31秒
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