カテゴリ:山口素堂資料室
素堂関連記事 去来抄 伊勢踊
1)去来抄
今年素堂子、洛の人に傳へて曰、蕉翁の遺風天下に満て漸々變ずべき時いたれり。 吾子こゝろざしを同じうして、我と吟會して、一ツの新風を興行せんとなり。
去来答云、先生の言かたじけなく悦び侍る。予も兼而此思ひなきにもあらず。幸に先生をうしろだてとし、二三の新風を起さば、おそらくは一度天下の人をおどろかせん。 しかれど、世波、老の波、日々うちかさなり、今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ、唯御残多おもひ侍るのみと申素堂子は先師の古友にして博覧賢才の人なりければ、世に俳名高し。近来此道うちすさみ給ふといへども、又いかなる風流を吐出されんものをと、いと本意なき事なり。 行ずして見五湖烹蠣の音を聞 素堂(烹蠣…いりがき) なき人の小袖もいまや土用ぼし 芭蕉
素堂子の句は深川芭蕉庵におくり給ふ句なり。先師の句 は予が妹の身まかりける頃、美濃の国より贈給ふ句なり 。ともに其事をいちなむたゞ中に来れり。此頃ある集(異本古蔵集)見るに、先師の事ども書ちらしたるかたはしに、素堂子の句をあげ、いり蠣のたゞ中に来ることをもて、名人達人と誉られたり。云々
寛文七年(1667)著 八年刊。
『伊勢踊』素堂翁句初見 春陽軒 加友撰 ◎松阪市史 第七巻所集
伊勢踊 加友序 紗の紗の衣おしやりしことは世中の狂言綺語にして一生は夢のことくなれともことにふれつゝ目に見こゝろに思ひくちにいふ霞舌の縁に引れてやつかれ若年のころほひより滑稽の道にをろかなるこゝろをたつさゆといへとも宰予か畫寝かちにおほくの年月を過し侍りぬまことに期すところは老と死をまつのおもはんこともしらす又爰にわれにひとしき二三子あつていはく此ころ諸方に何集のか草のとて誹發をあつむる事しはいまめかしされは都のえらひにうちのほせんをも流石に目はつかしまた田舎のあつめにさしつかはさんこともはたくちはつかしさはいへとをのれらうちこゝろをやりてなし置たるを月日をふる句になし行事いとくちおしくて予を時のはやりをとりの哥挙に物せよとよりそゝのかされて氣を 瓢箪の浮蔵主になりつゝ足拍子ふみとゝろかし手ひらうちたゝきて人々まねきよすれは赤ゑほしきたるとち腰うちひねり頭をふりてわれもとうたひのゝしる小哥ふしらうさい片はちやうのものはいふにたらすは哥舟哥田植えうた巡礼比丘尼樵夫の哥なとをとりあつめて小町躍や木曾踊住吉踊土佐踊是はとこをとりと人とはゝ松坂越て伊勢踊と名付答る物ならし ・寛文七年霜月日 加友序
伊勢踊 素堂入集句
1、予が江戸より帰国之刻馬のはなむけとてかくなん かへすこそ名残おしさは山々田 江戸 山口氏信章
2、花 花の塵にましはるはうしや風の神 信章 註…「はうし」は「法師」 3、餘花 雨にうたれあなむ残花や児桜 信章 註…「児桜」は「ちごさくら」 4、相撲 取結へ相撲にゐ手の下の帯 信章 註…。「ゐ手」は「ぬき手」か 5、相撲 よりて社そるかとも見め入相撲 信章 註…「社」は「こそ」
素堂と京都 甲斐国出身とされている山口素堂についてその全生涯を調査しているが、素堂の京都・大阪等京阪地方の事跡についてはほとんど伝えられて居ない。荻野清先生や清水茂夫先生がその著述に若干触れて居られるが、山梨県に於ては紹介されている書物は未だ未見である。素堂は晩年、京都に住む事に憧れて句作の中にもその気持ちが滲み出ている。擧堂編の『眞木柱』(元禄十年・1697)刊には 都ゆかしく いづれゆかむ蓮の實持て広澤へ と詠み、 又『とくとくの句合』素堂の自ら編した三十六番句合自句を左右に別け、判者も素堂翁の自判。 二十八番 蓮の實 小野川洛陽に住居求むとて登りける頃 予も又其志なきにしもあらず 蓮の實よとても飛な広澤へ 何故に素堂が爰まで京都に憧れたのかは定かではないが、元禄十年以降素堂翁の京都往きは頻繁になる。 ○ 元禄十一年(1698) 素堂 五十七歳 夏から秋にかけ素堂上京。芭蕉の塚の詣で発句二句を手向け(『続有磯海』)鳴滝で茸狩りをし(『橋南』)芭蕉の遺風が天下に満ちた今こそ新風を起こすべきと去来に語る。(『去来抄』) ○ 元禄十三年(1700) 素堂 五十九歳 三月、嵐雪が上京の為出立。義仲寺の芭蕉の墓を訪ね素堂に会い(『風の上』)京に入る。 ○ 元禄十四年(1701) 素堂 六十歳 二月二十日、素堂上京の為出立。(『元禄俳諧集』)八月、素堂上京し越年。(々) ○ 元禄十五年(1702)素堂江戸へ帰る。 ○ 元禄十七年(1704) 素堂 六十三歳 四月上旬 素堂京都に向かう。(『元禄俳諧集』)この年素堂は越年か。 ○ 宝永 二年(1705) 素堂 六十四歳 三月支孝が上京し、来遊中の素堂と会う。(呂錐・六之宛支孝書簡) 素堂は支孝・座神編『すの字』に序文を記し、閏四月に京を去り、五月まで鳴海の蝶羽亭に滞在し江戸に帰る。 ○ 宝永 四年(1707) 素堂 六十六歳 春、素堂上京し『東海道記行』を草す。(『白蓮集解説』) 【参考】 ○ 延宝 二年(1674) 素堂 三十三歳 『廿会集』北村季吟 信章(素堂)歓迎興行。 霜月二十三日江戸より信章のぼりて興行 いや見せ字じ富士を見た目にひえの月 季吟 世上は霜枯こや都草 素堂 冬牡丹はなはだとしはやらせて 湖春 ○ 寛文 五年(1665) 素堂 二十四歳 『素堂の研究』荻野清氏著。素堂は寛文五年大和を訪れている。 註…残された句からすると、時期的に少々早そうである。出かけた時期としては、延宝・天和・貞享の頃数度に亘ったと 考えられる。小川健三氏) ○ 年不詳 予が若かりし頃。難波津にて興行(素堂序文 「蟻道が句のこと」) 春日の山の下手代めか 藤原の又兵衛とそ名乗ける 梅翁(西山宗因) と付けられしを、人々興に入侍りき。云々 ○ 元禄十三年(1700)素堂 五十九歳 嵐雪を悼む辭 (宝永四年・1707 嵐雪歿) 嵐雪子は芭蕉の翁とひとしく、予が市中に住しころより逢なれて、凡みそちあまりの舊知音也。(中略)洛陽に遊ひしころ、大津四の宮にて、本間佐兵衛丹野事勧進能の沙汰を聞きまかりけるに、嵐子も彼浦にありて、山本氏の別業にて、両三日相かたらひ、それより高観音にうそふき、からさきにさまよひ、八町の札の辻にてたもとをわかちしより面会せず。云々 (素堂家集より)
さて素堂と京都を結ぶものそれは何かというと様々な事柄が推察される。先ず茶人であり素堂翁が號したとされる【今日庵】の所有者でもある山田宗偏と素堂翁の関係が挙げられる。宗偏は宗旦四天王の随一人者で宗偏流の素堂開祖をした人物で京都鳴滝に四方庵があり晩年江戸の四方庵で歿したが素堂翁と関わりは深く宗偏の茶書にも素堂は序文を記している。鳴滝の傍らには素堂の句作に見える【広沢の池】もあり素堂と京都を結ぶ線の一本である事は間違いないものと思われる。 素堂の『松の奥』と『梅の奥』は元禄三年(1690)の著した俳諧秘伝書であるが、後世大野酒竹氏・荻野清先生は偽書とされて居るが、清水茂夫先生は違った見方をされている。私は素堂が書されたものであると信じている。著述ご時代を経る中で写す人物の挿入が有り、内容が変る事は諸書にもよくあることである。 又、一人の人物を崇め奉る為に他の人物の著作物を疑書・偽書とする類はこれもよくある事であり、俳諧に於て芭蕉をまるで神人の様に計らい汚れた所や同時代の俳人達を全て芭蕉を中心にしてしまって居る刊行書もあまた見受ける。素堂が芭蕉に対しての人間的な接し方や影響は深く芭蕉の俳諧や人生に刻まれているのにそれさえも多くの書物は省き芭蕉を中心に置きたがる。芭蕉の生き方を認めある時は諫め励ました素堂の当時の俳壇に尽くした功績と共に高く評価しなければならない。極言すれば「素堂が居なかったら現在のように神格化した芭蕉像も有り得ない」という事である。『松の奥』についても清水茂夫先生がご苦労なされて調査研究され、山梨大学の『学芸部研究報告』に発表されて居られる。研究報告は、素堂の人生・俳諧・和歌・河川改修等多岐にわたりその洞察の深さには敬服する。その中の『松の奥』の中の著述にも見逃せない記述が随所に記されて居る。
※……亦道の邊に清水流るゝの歌は、そゝき上たるるが如し、至極きょうなる所と持明院殿は仰せられしなり。 ※……予一とせ鎌倉一見の時 目には青葉山ほとゝきす初鰹 ※……愚老中頃池の端に住居し侍りしに 塔高し梢の秋の嵐より その後服部嵐雪 笋やかり寐の床の隅よりも と云し、よりと云ひよりもと云面白し。
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最終更新日
2021年05月23日 13時13分17秒
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