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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月24日
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カテゴリ:山口素堂資料室

山口素堂と禅宗文化&芭蕉 その一

 

 素堂と芭蕉は俳諧によって結ばれた師弟、親友、兄弟のような関係であると色々解説される。

 文芸的な芸術家の芭蕉に対して、素堂はあまりにもアカデミックな学術家のため、後世取り上げられる事も少ない。素堂のその文学的原点をとらえるには芭蕉と同様に、禅宗文化の面から論じて見たい。些か脱線しそうな感じもするが、素堂に至るまでの流れを追って見る。

 

** 禅宗文化 **

 

 初めに禅宗各派の動きを見ておくと、臨済禅宗は初祖栄西の正治二年(一二〇〇)開山の鎌倉・寿福寺(建長寺派・五山 第三)建仁二年(一二一一)の京都・建仁寺(五山 第四)建長五年(一二五三)中国元の禅僧・蘭渓道隆(大覚禅師)が北条時頼の招きで鎌倉・建監寺を開山(五山第一・建長寺派大本山)

 

 【註】 尚、蘭渓道隆は寛元四年(一二六四)長崎に来日、文永九年頃讒言によって甲斐に配流、のち許され鎌倉に戻ったが、再び甲斐に流され東光寺(甲府)で布教する。

 弘安五年(一二八二)時宗の開基、無学祖元(仏光国師)開山の円覚寺(円覚寺派本山・第二)同じく第五の浄妙寺は始め真言宗極楽寺と言ったが、建仁元年に蘭渓道隆の嗣法月峯了然が入山して禅寺となり、浄智寺(第四)は弘安六年(一二八三)兀庵普寧の開山で、鎌倉幕府期の五山である。

 続く夢窓疎石(国師)は初め天台を学び、のち各地を遊学して顕密を究め、その後ち建長寺の一山一寧らに参じ、万寿寺の高峰顕日に就いて学び印可を受け、建武元年には 勅命で京都・南禅寺に移り、夢窓国師号を賜り五山を歴往。北条貞時・後醍醐天皇・足利尊氏など支配層の帰依をうけ、京都・鎌倉間を往来し、尊氏に勧めて安国寺・利生塔を建てさせたとも云い、後醍醐天皇の冥福に天竜寺を造営させた。夢窓門下には春屋妙葩・義堂周信・絶海中津(仏智国師)・龍秋周沢ら五山文学に登場する人がいる。

 

宗峰妙超(大燈国師)は花園・後醍醐天皇の帰依を受けて大徳寺を開き、臨済禅の宜揚につとめ、弟子の関山は妙心寺を創建して、両寺ともに五山の権勢を余所に坐禅工夫に精進し、法脈を長く維持してのちの主流となった。

 臨済禅は、元々比較的厳しく禅風を守るものと、緩やかなものとの二派があり、夢窓国師は後者の系統であって、五山の主流となった。

 

曹洞宗も道元禅師以来門弟養成の禅僧修行に努めていたが、嗣法四世榮登山紹瑾(常済大師)はこれまでの方針を転換して、元享元年(一三二一)能登の風至郡櫛比の庄の真言道場・諸岳寺住持定賢律師の請により、永平寺より入山して律宗を曹洞宗の禅苑に改めた。この年、後醍醐天皇より藤原行房の勅額「総持寺」を賜り、翌年曹洞宗総本山勅額大道場となった。

 尚、総持寺は明治三十一年火災に遭い、同三士九年貫主石川素堂師が横浜市鶴見への移転を決し、同四十四年移転した。

 

瑩山師は祈祷的な要素を入れると共に、北陸地方を開拓して農村に勢力を布殖し、その高足明峰素哲の系統雪山玄呆は、正慶二年(一三三三)甲斐の大井春明の招きで西郡に入り、寒厳義尹(法王派)の法流鶏岳永金、総持寺二世峨山韶の系統(峨山脈)と相次いで法線を伸ばし、榮山の法孫・丁庵慧明は応永元年(一三九四)相模の南足柄に大雄山最乗寺を開山、関東方面への拠点となり、その法流は甲信二国に伸びた。

 了庵の法嗣大綱明宗・その法嗣吾宝宗(そうさん)・その門弟拈笑宗英・雲岫宗龍(雲岫一派) 州庵宗彭(州庵派)は、拈笑が東信、雲岫・州庵は甲州と法線を広げて、雲岫派が甲州の曹洞最大の教団として繁栄を見た。

 論旨からすると大分脱線したが、禅宗文化を江戸時代まで解説するためには、小論の何十倍もの紙数を必要とする。これを避けるためには掻い摘んで進めていく。

 我が国の漢詩文は、平安時代に於いて貴族社会を中心に盛んであったが、末の頃には末法思想と共に下火となっていった。

鎌倉期に入ると禅宗文化の流入が盛んとなり、その中心勢力を成したのか武家で、禅宗の修業方法が[自力を原理とする、精神の鍛練を重んじる事]が彼ら武家社会の気風と合致することにより迎え入れられ、その文化流入に力を尽したのが、禅僧をはじめと した僧侶や、政治的力を失った公家・貴族らが多く、中国の影響を受けた禅宗文化が交易により多く輸入され、禅僧は政治・外交の面でも活勤し、文化形成に貢献している。

 それは鎌倉・南北期を挟み、室町期には臨済禅と共に全盛期を現出したのである。つまり禅宗寺院の格式化であるが、始めは鎌倉中心での寺格を五山と称した。後に官寺内での最高位に列する五寺を京都・鎌倉各五山として、院宣等で五山十刹が定められ、五山の僧等は修禅の外に儒教・漢詩文・絵画の成作と中国の流行を逸早く取り入れ、武家・公家等も相次いで漢詩文や儒教的な教養が流行して、日本の漢文学中でも優れた「五山文学」が生まれたのである。

 

 宋学と五山文学

 

宋学は中国末代の北宋・周敦により開かれ、程明道(程顥)程伊川(程)兄弟に 継がれ、南宋の朱熹・晦庵)によって大成された儒学で、古代よりの儒学とは違い、禅宗や道教の影響を受けて思索的でより哲学的となった学問であり、儒学の正統と認知され、大学・中庸・談話・孟子の四書が五経と共に尊重された。

辞典等によれば、五経(易・春秋・書・礼記・詩)の経典を研究する外に、特に四書 (論語・孟子・大学・中庸)を聖人の道を説いた言として服視し、人語名分談によって立場と結合し、字句の解釈よりも儒学の精神・哲理に重点を置いて、宇宙の原理、人性の研究を主とする性理学とされる。また進んで道徳政治の学と基定され、程朱の学あるいは朱子学とも云われるようになる。

 この宋学は鎌倉時代に円爾や弁円を中心に、禅僧によって伝えられ、鎌倉期の末から南北朝期に虎関・夢窓・中厳円月・玄恵ら五山の禅僧問で行われ、室町期には更に研究が盛んになり、公家の中にも広がった。最も宋学興隆に貢献したのが義堂周信で、末期には岐陽・瑞渓・了庵・桂庵らの学僧を出した。

 これらの禅僧は修禅の外に儒学(儒教)を研究し、また漢詩文を盛んに作った。中国の流行を早速に取り入れたものだが、上流武士や公家らも相次いで取り入れ、漢詩文や儒教的な教養が流行し、地方にも波及していった。この五山の学僧を中心とした漢詩文学を「五山文学」と呼んでいる。

 また漢詩文の第一人者は南禅寺の学僧・虎関師錬や、夢窓国師の弟子・義堂周信で、同門の絶海中津は双璧をなし、惟自得厳らの頃(応仁)が隆盛期であり、横川景三らの詩僧の頃までは盛んであった。その後は次第に衰退して行った。

 義堂周信は禅宗の胆俗化と共に、禅僧が漢詩文作成に没入することを厳しく戒めているが、時代が下るにつれ、詩文・絵画の製作に専らになる禅僧が出た。つまり詩僧と云われる人々、絵画では雪舟もそれである。

 禅宗と宋学・五山文化は、前述の通り不離一体なので、室町期の五山禅僧を中心とした漢詩文の復興は、宗風はあるが「自己の悟道の境地」を詩文で表現する風も有って、純然たる詩文にも関心が深まって行った訳で、末学も禅僧の多くが心を寄せ、岐陽文秀 (一三五三~一四二四)が朱子の「四言葉註」に和点を加え、桂庵玄樹(一四二七~一五〇八)は岐陽系の末学を学んで応仁元年(一四六七)還明使に随行して中国に渡り、文明五年(一匹七三)程朱の学を学んで帰朝した。時に世は「応仁の大乱」の最中で有ったが、文明十三年(一匹七七)朱子の「大学章句」を出版し、これを受け継いだ藤原惺窩によって朱子学として大成され、徳川時代に全盛期を現出することになる。

 藤原惺窩は冷泉為純の子で、若くして僧となった人で京都相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の基礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講授はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山脈の学僧であったのである。

 博学強記と云う林藤山(道春)は京都の人で、祖は元武士で町屋に下って商いを営んでいた。羅山は弱年で五山の一つ建仁寺に入って勉んだが、僧になるのを嫌って戻り、惺窩に師事して朱子学を学び、師の推薦により徳川家康の侍講に召し出された。当時は学問で立身する者は僧侶に限られていたことから、剃髪法體命じられた。以後儒学者は元禄二年に剃髪が廃止されるまで続けられた。

 寛永七年羅は上野忍ケ岡に土地を与えられ家塾を建てた。また尾州侯徳川義直の援 助により先聖殿(孔子廟、後の湯島聖堂)が造られ、後に家塾は寛文三年に弘文院号を与えられた。元禄三年、将軍綱吉の命で忍ケ岡より湯島に移転となり、先聖殿が湯島聖堂を、家塾が昌平坂と改められて、林家は歴代が弘文学士・昌平黌(国子祭酒)を継承することになった。羅山もまた五山の禅宗に関係していたのである。






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最終更新日  2021年05月24日 07時16分13秒
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