カテゴリ:俳人ノート
おお、のざらし芭蕉 深澤七郎氏著(山梨県)
俳人芭蕉は十六世紀の中期から世期末までの芸術家である。その一生は放浪であり、その頃の言葉では「旅」と言った。 二十世紀の旅は、飛行機、汽車、自動車だから十六世紀の旅とはほとんど比較出来ない。芭蕉の旅はヮラジという藁で編んだ草履を足に結びつけて歩く方法である。駕篭とか乗馬の方法もあったがそれは女性や老人、馬は特別の場合だけ僅かに使われただけである。だから十六世紀の芭蕉の旅こそ或るときはつらく、或るときは楽しく、旅という味わい、流浪という味わい、それは行く先も決まっていない、また、ゆきつく場所にも用事はない、ただ、草鞋をはいて歩いているあいだに、生きている感覚を覚えることが出来たのである。流浪はすべての身のまわりの物体、事情から離れることが出来る唯一つの方法である。孤独という部屋にとじこもることの出来る唯一つの方法である。だから、流浪は或る意味では社会から逃げることかもしれない。何かに追われる、追い出されることかもしれない。 芭蕉の一生は流浪であった。そのあいだに數多くの詩を口ずさんだ。彼の詩は五、七、五の一七文字の詩である。これを俳句という9僅かな文字の組合せなので彼の死後になって、似せものの彼の俳句もつけ加えられた。それは似せものであるという確証もなく似せものだと決められる。だが、似せものだと処理されもしない。俳句という口ずさみ程度の僅かな文字の詩は、時にはそっくり同じ詩も誰かによって口ずさまれる。また、時にはだれかによって彼と同程度の格調の詩も口ずさまれるからである。俳句が第二芸術とか第三芸術とか呼ばれる理由も、そんなところにあるのかもしれない。 俳句はそんな口ずさみの詩ではあるが、放浪することが彼の生活のすべてだったのだと想像出来るだろう。それに彼は生まれたのは伊賀の上野というだけしかわかっていない。 父は松尾与左衛門といい、母は百地姓から来ていて、兄は半左衛門という。もうひとり又右衛門という兄があったとも言われる。妹が三人あったそうである。彼の幼名は、金作、又は半七、又は藤七郎、又は忠右衛門、又は甚七郎と言われていてこれもはっきりしない。 生まれたのは伊賀上野ということだけで父母、兄妹、彼の幼名さえもはっきりしない。彼は俳句を作るたびにそのときどきの様子をこまごまと書きしるしているのに生いたちや、家庭の事情などははっきりさせていないのである。それは、なにかの理由があるようである。 一説には芭蕉は伊賀の忍者の生まれだそうである。忍者は特別な部落民のような扱いをうけたらしい。それは、同族だけの団結などの生活方法が一般人から嫌われたらしい。だから、俳人としての芭蕉ほどの者にも何かしら隠したかったかもしれない。 俳句と忍法とは全然つながりはなさそうである。だが、芭蕉の一生は忍者とは切っても切れないつながりがあると私は思う。忍者は一定の年令になると生国を立つ。それは、修業のためでもあるし、仕事のための場合でもあって、その終焉はどこで、どうなっているかその生国の者、いや、肉親さえも知らない。 芭蕉の流浪もその血の流れに一脈の通ずるものがあるようには思えないだろうか。「野ざらしを心に風のしむ身かな」は芭蕉四十歳の野ざらし紀行の時の句である。野ざらしというのは行き倒れて死んだ人間の死骸が、野にさらされて骨だけになった姿のことだそうである。十六世紀ごろにはそんな白骨が旅のには見られたようである。この句は、そんな野ざらしの姿になってしまうかもわからない、 そんなことが感じられる旅であるという意味だそうである。 野ざらしの句が代表するように、彼のほとんどの句がロマンチックなのは見のがせないことだと思う。悪く言えば少女趣味だが、彼のやさしさ、善良さ、悲しみ、淋しさの陶酔は「もののあわれ」をあこがれ、追った流浪、それは、野ざらしをあこがれたのではなく、野ざらしを覚悟した放浪なのである。つまり、彼は淋しさ、悲しみに陶酔する流浪だっ たようである。 芭蕉は流浪中の生活費などどうしていただろうか。おそらく俳句を好きな人たち、理解ある人たちの家を泊まって旅をつづけていたのだろう。俳句の師という、職業であったようである。現代の授業料とか月謝などのシステムではなく、ワラジ銭という〃つつみ金〃を貰って旅をつづけたようである。これも別な言いかたをすれば、乞食のような、物もらい的な旅の場合もあったかもしれない。それでも旅をつづけたのは「旅がが好きである」などという簡単なものではなく、流浪の習性、渡り鳥のような血の流れがあったからである。 一六九四年、数え年五十一歳で芭蕉は大阪で死んだ。生いたちはパッとしないが死ぬときははっきりしている。その年、十月十二日、午後四時ごろ死んだ。野ざらしではなく、死骸は大津の義仲寺に舟で運ばれて葬られた。 その頃は弟子のような存在も多くあったようである。後の世では俳聖とか呼ばれるが、その頃は俳句の先生、師匠という存在だったのではないだろうか。ほんとは、野ざらしになって、どこで死んだか、生いたちも末路もわからない、どれが彼の句でどれが似せものだかも判らない、ただ、そこには俳句があればいいのではないだろうか。 詩や小説はその人の生いたちとか、終焉などはどちらでもいいのではないだろうか。詩は、そんな口ずさみを生んだその土地、その風情だけがそこにあればいいのではないだろうか。詩と、その詩を生んだ土地は母と子と同じなのである。だから彼はその生い立ちなどは書かなく、その句の説明する随筆だけをこまごまと書いたのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月29日 18時56分42秒
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