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2021年05月30日
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古関裕而と島原の子守唄
天草島の後家唄と島原の子守唄(植松逸聖氏著「中央線」掲載)
天草海こしや天草で シヨンガイナー
私しゃ天草 私しゃ天草 二十後家よ。
来た時やよっちょくれんな
アバラヤジャ アルバッテン
冷たか シヨーチューナット
冷たか ショーチューナット
温ためて シヨンガイナー
私しや天草 私しや天草 三十後家よ。
来た時や よっちょくれんな
アバラヤジャ アルバッテン
冷たか 布団ナット
冷たか 布団ナット
温ためてシヨンガイナー
私しゃ天草 私しゃ天草 四十後家よ。
これが天草の後家唄の一部である。確か、咋年五月の中旬頃だったと思う。九州の天草を舞台にした、NHK朝の連続テレビドラマ、「藍より青く」の中で、大和田伸也の扮する村上周一の父周造(佐野浅夫)が、炉端で酒を飲みながら興じて、民謡らしいものをうたうシーンがあった。その唄が、何という唄であるのかわからなかったが、メロデーが、縁故節や、島原の子守唄に大変よく似ているのに驚いて、渋谷の放送センターに勤務しておられる畏友、殿村逸泉氏に、唄の内容や其他についてお尋ねしたところ、あれは「後家唄」といって、古い昔から伝わっている民謡であるが、作られた場所も年代も分らないそうで、うたう時には、順番が違うこともあるし、適当にうたっているとのことである。
放送では、佐野浅夫氏や、番組担当の下村氏が、この唄を覚えていてうたったが、歌詞は、「真紀」に扮した女優、真木洋子の若さを考えて、「二十後家よ」というのを、「島育ちよ」と、変えてうたったという。但し書きに、ずっと以前NHKの総合テレビで森繁久弥が、これによく似た唄をうたったことがあるけれど、それは「後家唄」ではなく、別の唄であったとしるしてあった。
例え、それが「後家唄」であったとしても、森繁がうたえば、唄本来の姿が変って、所謂森繁節になってしまう恐れもあるわけである。天草の「後家唄」、「後家唄」なんていう名前の唄は、全国にも稀れでおそらく、こんな名前の唄はあるまいと思う。それではどうしてこんな唄が出来たのか、天草の歴史や、人情風俗等を調べて見たら、その因果関係もわかると思い、ほんの少し、外面から覗かせてもらった。
天草は、昔から肥後の国に属しており、現在の名称は、熊本県天草郡となっている。上島、下島、大矢野島、衡所浦島の外、大小幾つかの鳥から成立っている。本土の熊本県とは、不知火で有名な八代海を隔てており、肥前島原とは早瀬海峡でくぎられ、西方は波荒い東支那海にのぞんでいる。周囲みな海によってかこまれているので、天草郡というより、天草諸島といった方が、適切な呼びかたのような気かする。現在では、宇土半島から大矢野島、上島、下島と、天草五橋によって、本土熊本県と緊がれているが、昔は舟運による連絡しかなかったわけである。
天草は平地が少なく、充分な農耕作業が出来ず、半農半漁の経済生活で、其他の資源も人口に比例して少なかったので、島民の生活は豊かでは無かった。従って島民の中には出稼ぎのために島を離れるものが多かったようである。殊に女の出稼ぎ人は.「唐行(からゆき)さん」といって、売春婦となって外国へ売渡されて行った。「からゆきさん」とは、「唐人行(からひとゆき)」または、「唐(から)ん国行(くにゆき)」という言葉の縮まったもので、幕末から明治の一代を通し、大正の中頃まで祖国をあとに、北はシベリヤから中国大陸、東南アジヤ諸国をはじめ、インド、アフリカ万面まで出かけて行き、外人相手に春を売った海外売春婦のことをいうのだそうである。
その出身地は、日本全国に及んだというが、特に九州の天草や島原半島が多かったといわれている。結局は、天草や島原の自然的、社会的な貧困の中から生れでた裏話であって、今もってその数々の物語が語られているという。また天草は切支丹の島ともいわれている。生産カの低い、貧困を余儀なくされている地方であるだけに、切支丹が島民の間に浸透し、拡がって行ったのは当然であった。しかも当時の領主であった小西行長は、有名な切支丹大名であったから、その伝導力は燎原の火にも似て拡がって行った。切支丹の爆発的な伝播カと、その潜在勢カを恐れた豊臣秀吉も切支丹排除の気持があったようであるし、隈本(後熊本)の領主加藤清正は熱心な法華経の信者だったので、抑圧にカを注いだが遂に成らず、天草を放棄している。
慶長七年(一六〇二)肥前国唐津の寺沢広高が天草を兼帯所領して、下鳥の北西の突端、袋の浦(冨岡)に城を築いて城代をおいた。これが冨岡城である。現在はこの処に、富岡切支丹供養碑が建てられている。寺沢広高という人は、長崎奉行をつとめたこともあり、一応、切支丹に理解をもっていたので、幕府の切支丹禁令がでてからも壱岐、上津浦(こうづうら)、崎津などには教会もあって布教も行われていた。しかし慶長十八年(一六一三)になると、切支丹禁止令が強化されて、信者の大検挙や、宣教師の追放が行なわれた。
マルコスという宣教師も上津浦を追われたが、その時、「当年より二十五年目に美しい童子が現われて、諸人の頭にクルスを立てて云々」と、後の天草四郎の出現を予言して去ったそうである。その後の二十五年目にあたる寛永十四年(一六三七)は大凶作であった。とくに前年の寛永十三年の天草は、特にひどかったそうである。しかも寺沢検地は生産カを超える年貢の取立を行ったので、この非道な検地収奪に、島民の怒りは遂に爆発して、寛永十四年十月、島原におこった一揆に呼応して天草の島民もたった。これが世に云う切支丹の蜂起である。そこで熊本城主細川氏はこれを鎮圧しようとして天草に出兵したところ、富岡城を包囲攻撃しておった一揆軍は、細川軍来援の報せに、急遽全員天草を捨て島原に渡った。
その時の一揆軍の総勢は、男女合せて一万四〇〇〇人で、天草の全人口の半分近く島を離れたそうである。マルコスの予言通り出現した若武者天車四郎を中心とする原城の一揆軍の勢カは強く、幕府軍の総指揮官板倉重昌が戦死した程であったので、驚いた幕府は、老申松平信綱(知恵伊豆)佐派遣して、これを制圧にあたらせることになった。松平信綱は、折柄、平戸島に来ていたオランダの軍艦に依頼して、海から原城を砲撃した。オランダ新教と、ポルトガル旧教の争いを利用したわけであるが、卑劣なこのやりかは、民衆からも攻撃軍からも反対の声があって、オランダ軍艦も平戸へ引き揚げていってしまった。
細川忠則、光尚の父子は二万八○○○余の兵力で攻めたてたので、原城は寛永十五年二月二十八日に落城した。その時、本丸への一番乗りをして、天草四郎の首を取って手柄をたてたのは、細川軍の陣佐左衛門であった。原城が落ち、一揆は終了したが、一揆軍は全員三万四千人が玉砕し、攻撃した幕府軍も、八干人もの死傷看を出したという悲惨な戦であった。反乱の責任者として、島原城主松倉勝家は斬罪に処せられたが、大名の斬罪は類例がなかったという。
一方、非道な検地収奪をした寺沢堅高は丸天草の領地を没収され、果ては自殺してしまった。それで寺沢家は断絶してしまったそうである。大名も斬罪にあい自殺して果てもした。三万余人もの民衆も壮烈に戦死して一応一撲は終ったとはいうものの、切支丹は絶滅することは出来なかった。
これを契機に、切支丹は益々深く潜行し、根強く拡がって行ったので、幕府は、寛文五年(一六六五)、切支丹鑿奉行をおいて取締ったという。寛永十六年、鎖国令が発せられたのも、この切支丹一揆が大きな原因の一つであったということである。天草というところは、この切支丹一揆のみならず、鳥民の宿命というか、島の経済事情がそうさせるのか、随分昔から一揆や騒動の繰返しであったようでかる。(中略)
大漁を祝い、美酒に酔い、茶屋女の三味線に乗せてうたった数々の唄の中から、有名な、「牛深ハィヤ節」が生れている。
牛深ハイヤ節
サアサ ヨイヨイ
ハイヤーエ― ハイヤ可愛や
今朝出た船はエ 何処の港に
サ一マ 着いたやらナー
エーサ牛深三度行ヤ 三度裸
鍋釜売りても 酒盛りゃしてこい
戻りにゃ 本渡瀬戸徒歩渡り
「牛深ハィヤ節」では、唄のはじめに「ハィヤー」とうたいだすから「ハィヤ節」という名がつき、「鹿児島ハンヤ節」では「ハンヤー」とうたいだすので、「ハンヤ節」という名がついている。共にハンヤ、ハイヤ節の元唄で同一系統の唄である。
「牛深ハイヤ節」は北上して、五島ハイヤ節、呼子ハイヤ興宮津ハィヤ節となり、崖渡ハィヤ節が変じて佐渡おけさになって、なお日本海を北上、庄内ハイヤ節から、津軽アイヤ節、南部アイヤ節となっている。鹿児島ハンヤ節は、根占ハンヤ節、屋久島ハンヤ節と、鹿児島県内各地を廻って、太平洋岸添いに北上して、下田節、三崎甚旬、安房節、塩釜 塩釜甚旬になっている。
牛深三度行や、三度裸鍋釜売りても……
牛深の港は、天草の中でも最高の歓楽地であった。文字通りの酒池肉林の巷であったに違いない。男と光は茶屋女の手管にもてあそばれ泳がされて、うつつをぬかし、丸裸にされて追帰された。それでも一度覚えた酒と女の味、鍋釜売ってもまた遊びに来た。牛深ハイヤ節はそんなことうたったものである。
天草の後家唄にも、甲州縁玖節にも、唄の中に(シヨンガイナー)という噺子言葉が入っている。この(シヨンガィナト)という噺子言葉の意味は、「仕様がないなあ」という諦め言葉のように聞えるが、本当はそうではなくて、「勝凱ナー」という言葉の変化であって、戦勝につながるものであると、何かの本に書いてあったようだし、また誰かに聞いたこともあったが、何れにしても真実性に乏しいのが残念である。
まあ、単なる噺子言葉であると、受け取っておいた方が、まず無難である。(シヨンガィナー)という噺言葉にも多少の変化があって、それぞれの唄によって違っているが、唄によって、別々に分類すると次の通りになる。
(シヨンガイナー)天草の子守唄、甲州縁故節、岡崎五万石、(長唄)藤娘(端唄)、
梅は咲いたか。
(シヨウガイナー) (宮城県) さんさ時雨、えんころ節。
(シヨンカエ) (長唄)蓬莱
(シヨンガイ) (茨城県)潮来音頭。
(シヨウカイナー) (長崎県)島原の子守唄。
大体以上のようである。
新民謡「鳥原の小守唄」
おどみや島原の おどみや島原の
ナシの木そだちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気ナシばよ 
ショウカィナ
はよ寝ろ泣かんで
オロロンバィ
鬼の池ん久助どんの連れん来らるばい
長崎県鳥原半島の新民謡で、その地方の方言がつかわれているので非常に難解である。天草や島原の人達は、貧しい暮らしをおぎなうために、昔から出稼人として他国に行く人が多かつた。特に、女の人の場合は、「唐行さん」と云って、南方諸鳥から中国方面に売春婦として売られて行った。「ナシの木育ち」というのは貧亡育ちのことで、果実の「梨」と、有る無しの「無し」という字のかけ言葉で、「久助どん」というのは、人買いの周施屋のことであって「鬼の池ん」というのは、天草の地名であるとのことである。子供を背負い、或は床で寝かし.つけながら「早く寝ないと、天草の鬼の池の久助どんが来て、お前を唐行さんにつれていってしまうから、早く寝なさい」という意味である。後唄の中にある「オロロンバイ」という言葉は、五木の子守唄の前唄の中にもあるし、大分県の日田地方の子守唄の中にもある単なる噺子言葉であって、特別の意味もなさそうである。大分県の日田地方には、古くからこのような噺子言葉を持つ子守唄があった。大変にHな唄で申訳ないが、御紹介すると、
オロ口ン オロロンバイ
早うせんかい 早うせんかい
おらようちんが来るよバィ
そこは へそへそ 
も少し うえん方 
も少し 下ん方 
あゝ そこそこ。
真暗闇のデートに、近づいて来る提灯の灯りを気にしながら、慌ててする行為を表現した唄である。勿論、これは変え唄であって、外に真面目な子守唄らしいものがあるわけである。「島原の子守唄」の後唄、「五ツ木の子守唄」の前唄とも、多少の違いはあってもメロデーは殆ど同じといってよく、九州地方の子守唄のもつ、一連のメロデーと解すれば良いと思う。
島根は肥前(長崎県)、天草は肥後(熊本県)と、昔から所属する国、県は違っていても、僅かに早瀬海峡をへだてての至近距離である関係から、人や物資の交流は相当多かったと考えられるし、ともども切支丹殉教の地であってみれば、人情風俗や文化等も相似たものがあるはずである。したがって、「天草の後家唄」も、海を渡って島原の人達にもかなりうたわれておったではないかと推察もされる。
この程、「何々県の歴史」というシリーズものを発行している東京の山川出版社の「長崎県の歴史」という本の民謡欄に、島原の子守唄は、宮崎康平採詞、古関裕而作曲としてあり、同じく東京の、野ばら社発行の「日本の民謡」には"宮崎一章作詩、作曲としてある。宮椅康平氏と、宮崎一章氏と同一人物であるかないかは知らないが、平凡社発行の「太陽」にも、宮崎康平氏の作ったものとしてある。おそらく宮崎康平氏が、島原の海岸地方に残っていたという後家唄のメロデーで合せて、「唐行さん」の哀話を唄にし、「日田の子守唄」のメロデーをも組合せて作ったのではないかと想像される。
昨年、この事について、甲府のNHKの知人を通して、宮崎市の放送局に問い合せたところ、「島原の子守唄」は、二・三の民謡の組曲であると返事が届いた。
 宮崎康平氏は島原の人であって、幻の邪馬台国という本をあらわした盲目の著者である。魏志倭人伝につたえられる、邪馬台国の所在地をめぐって九州説と、畿内大和説の二つに分れて、日本の考古学者の間で論議が両立しており、現在何れの地とも決定づけられないうちにあって、宮崎氏は、長崎県北高来郡、南高来郡、西彼杵郡、長崎市、諌早市、島原市を結ぶ地方が、邪馬育国の所在地でめったと力説している人である。
宮崎氏は、元島原鉄道の常務取締役で、一年三百六十五日のうち、二百五十日も徹夜をして、島原鉄道の改革に心血をそそいで、天皇陛下のお召列軍の乗入計画を成功させた、大変な努カ家だったが、その過労がもとで眼底出血をおこして、失明してしまった。それが、陛下のお召列車の乗入れの日であったとか、陛下にお言葉を賜わった時、見え犯目に涙を一杯ながして御礼を申しあげたという。その他、氏は国家試験を受けて一級建築士の資格をとったり、酪農の研究をして大農園を経営し、その間に、長篇小説「ペナンの仏陀」を書き上げたり、なかなかレパートリーの広い人である。島原の子守唄はこの人によって作られた。
天草の富岡城 富岡敬明氏 日野春の開拓
(植松逸聖氏著「中央線」掲載)
天草の富岡城のことであるが、明治の初年、山梨県に権参事として赴任してきた富岡敬明氏は、もとこの城主であったとかの様に本に書いてあったが、富岡城と富岡氏とは全然無関係であったようである。最初、富岡城を天草の袋の浦(冨岡)に城を築いて城代をおいたのは、天草を兼帯所領した肥前唐津の寺沢広高である。寺沢広高は、その翌年、慶長八年(一六〇三)に、改めて.天草に新封され、初めて富岡城の城主となった。彼、寺沢広高が富岡城の始祖である。その後の冨岡城は、寛永十五年(一六二二)寺沢堅局にかわって、山崎甲斐守家治が城主になり、寛文四年(一六六四)には、三河国田原領主戸田忠昌が城主に任じられた。然し、戸田忠昌は寛文十年(一六七〇)、種々行政面の事から考えて、天草は永久に幕府直轄の地、即ち天領であることが望ましいと、幕府に進言し、自ら城の三の丸を取壊して陣屋にしてしまった。おそらく領民の税負担の軽減を図ったものと考えられる翌年の寛文十一年、戸田忠昌は関東へ移封されて、天領になった天草の最初の代官には小川正辰が任命されている。富岡城の城主は数代しかなかった。従って富岡敬明氏や、その祖先には何の関係もなかったようである。然し富岡氏は、明治九年(一八七六)山梨県権参事から、熊本県権令(後に知事)に栄転している。
富岡敬明氏は、肥前佐賀、小城藩の家老、神代利温の二男として文政五年(一八二二)十一月八日に生れた。
幼名は佐次郎といい、十歳の時鍋島藩の勘定方重役である富岡忽八の孫娘「ツワ」と養子縁組をし、富岡姓になっている。若い時は富岡九郎左衛門敬明といったそうである。山鹿素水という人に師事して、山鹿流の軍学や、剣、槍、馬術などをならい、背丈、高く、筋骨のたくましい、立派な武士であったとのことである。鍋鳥藩にお家騒動が起きた時、富岡氏は、江藤新平らと組んで藩政批判派に廻ったが、事に破れて、彼は土牢に打込まれたが、盟治維新の大赦で放免された。農業開発に造詣の深いところから昭治維新政府に起用されて、明治三年(一八七〇)十一月、北海遭開拓所に派遺されることになっていたが、折角乗った船が品川沖で大しけにあって引き返し、再度渡航を待機しているうちに「山梨県に大小切騒動」がおきて、土肥県合が土民に屈眼したという、情報が維新政府に入ったので、政府は明治五年三月暴動を鎮圧させるために、富岡氏を山梨県権参事として山梨県に派遺した。大小切事件は、彼の手腕によって間もなく平静に帰した。土肥県令は、明治六年一月、大小切騒動の責任を問われてその職を解かれ、大阪府参事の藤村紫朗氏が山梨権令としてかわって着任した。彼の施策の一つである、今の中央線日野春駅付近の、通称「ひのっ原」を開拓して、此処に職を失って生活苦に喘ぐ下級武士の生活安定策として入植させ、麦、桑、馬鈴薯等の栽培をさせた。
此の指導監督にあたったのが富岡氏で、その功績によって、此の「ひのっ原」を彼の苗字を取って冨岡と名付けた。然し富岡氏の労苦も、水の無い、風の強い此の地方は、裁培に不適当で離農する者が多く、明治二十年代には武士出の人は、三井亀六という人が只一人であったが、この人も若くして死んでしまい、結局は実らなかったという事ではなかろうか。その後、附近に住む二男、三男が離農者から土地を貰いうけて住みついたという。中央線が開通して、日野春駅がこの地にできてから急速に発展して、現在は、富岡地区に百二、三十戸の家があるが、その中で、一番古いといわれている「堀込家」は、その頃甲村上和田(高根村和田)から此処へ移って来たとの事である。富岡氏は、明治九年十一月熊本県権令として、熊本県へ赴任し翌年の明治十年、西郷隆盛の反乱にあって、谷干城と一緒に熊本城へ籠城している。
反乱軍鎮圧の後、熊本城下の復興や、宇土半島三角の築港など数々の功績を残して熊本県知事を退職、その翌年に、西山梨郡里垣村(善光寺町)に帰ってきた。男爵の栄位を賜り、貴族院議員に列せられたが、何故か貴族院議員は拝辞して、里垣村の村会議員になったそうである。男爵さまの村会議員など、おそらく日本全国にその例がなかったではないだろうと思う。里垣村は現在甲府市善光寺町となっているが、同所には四代目の富岡古明(五八)氏が住んでおり、葡萄園を経営しておられる。
「天草の後家唄」、「島原の子守唄」、ともに魅力の民謡である。一度ゆっくり時間をかけて、天草と島原に行き、島原城や原城、それに富岡城など見学し、切支丹殉教の物語りや、「からゆきさん」として外地で働いて天草に帰り、島の何処かでヒッソリと暮しているという人が何人かいるというので、その人達とも会って人間のどん底の話も聞きたいと思っている。
尚、「島原の子守唄」の作曲者が、有名な古関裕而氏であるというので、大変失礼だったけれど、「島原の子守唄」と、縁故節のメロデーがそっくりでありますがと、先生に問合せをしたところ、次のような御返事がいただけたので、原文のまま記載させていただきます。
御手紙拝見致しましたので、お答え申上げます。「島原の子守唄」は、島原市在住の作家、宮崎康平氏の採譜で、宮崎氏とは昔から親交がありましたので、私が編曲(ピアノ伴奏)したものです。お手紙の「甲州縁故節」は、私は少しも存知ませんので、どの程度似ているか判りません、但し「島原の了守唄」が同じ九州の「五木の子守唄」或は「刈干切唄」と同列の民謡か、古くから唄われた子守唄だと思います」その旋律が同類であることからそう思われます。私は宮崎氏からの楽譜にピァノ伴奏をつけただけで、何処の民謡も参考にはしませんでした。いつ頃だったか、今は覚えておりませんが、戦後であることには間違いありません。甲州と島原とでは距離がはなれすぎておりますので、似ていても、それは偶然ではないでしょうか。
「島原の子守唄」は「五木の子守唄」「刈干切唄」と共に短音階ですが、在来の短音階(都節と言ってます)とは異なり、現在の歌謡曲の短音階に似ていて、その源流かとも思われます。民謡の短音階、例えば「庄渡おけさ」「会津盤樽山」と違って終止の音が西洋の短音階です。甲州縁故節も、この様な短音階だったら非常に珍しいものと思います。一度その「縁故節」の楽譜を拝見したいものです。そして似ていましたら、面白い研究材料になると思います。(宮崎氏は昔から代々島原に住まわれたお家ですから、甲州の民謡を模倣されたとは思いません)尚宮崎一章は康平氏のベンネームです。先は取り敢えず御返事まで。敬具
  五月十八日    古関裕而
  植松逸聖様





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最終更新日  2021年05月30日 05時03分47秒
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