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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月30日
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カテゴリ:山口素堂資料室

 

  天文五年春奉公のひまによみける

 

   元日や神代のことも思るゝ

          

               守 武

 

 荒木田守武神主は、文明五年に生れ、天文十八年八月八日七十七歳にて歿した。

 

松阪の文学史

 

  『松阪の文学資料選集』

一部加筆 山口素堂資料室

 

松阪が学芸の方面において、いかなる歴史を有するかを詳かにせんとするには、まずもって、当時の地方影響関係を達観せねばならぬ。即ちわが伊勢地方にあって、もっとも早く学芸の淵薮(そう)たりしは神宮所在の地、山田でありしことを直覚せねばならぬ。

山田(現伊勢市)の土地が比較的に他の社会関係の外に超然たることを得たのは、同地が中古以来、久しく文物典景を保有し、和歌、神道、有職等の研究たえず行はれ、近世に至りては俳諧この地より勃興し、たちまちにして新文学の先駆をなしたれば、境界を近くする松阪のごときもその影響を受けて、俳諧の一流行地となりたるは、正しく松阪文芸史上の第一期を形成したものであった。

 

俳諧の流行(山田影響時代)

 

 斯道の鼻祖、荒木田守武が天文十八年(一五四九)神路山の辺りに没せし時の松阪は、いまだ矢川の庄時代で、何等の影響する処がなかったが、守武の没した時、齢わずかに二歳であった杉山望一なるものがあった。山田の人で長ずるに及んで漸く守武の遣韻を淘(よな)げ、初めて伊勢風の俳諧を鼓吹した。

 時はすでに松阪町の創拓時代であって、望一門に逸材があった。その名を法樹院加友という。松阪新町樹敬寺中法樹院の住職で、般舟庵、又は春陽軒と号した。

師の没後は松永貞徳(一五七一~一六五三)について更に風雅の道を修め、ついに一家をなし隠然松阪の地として談林派勃興以前の俳諧における一勢力たらしめた。

後に加友は山田に居を移したが、その門には、加速、子英その他があった。加友の家著に「伊勢おどり」一巻あり、寛文七年(一六六七)十一月の編集である。加友の没年社詳かでないが、おそらく寛文中、六・七十歳で没したものであるべし。

世に法樹院加友。と江戸の医、荒木加友とを混同するものがある。同じく貞門であるのと時と雅号がほとんど同じためである。

 加友門の出である加速は姓氏詳かでないが、おそらく樹敬寺中の僧侶なるぺしと俳家大系図は言えり。正保二年(一六四五)の『毛吹草』同四年の「山井集」に秀吟多きを見れば、貞門の高堺 松江重頼、北村季吟等にもその詞才を認められたものであるぺく、師の加友と年輩もあまり違はざるが如し。

 子英は岩本氏、通称忠兵衛、松阪の商家に出で、のも江戸に住す。家書に「黄楊枕」『花時鳥』等がある。

貞享、元禄年間の点者として聞え、‘白魚の句の美談ありて後世なお之を伝ふ。その族に戯文の名家岩本乾什あり。その若き時、子英によりて啓発される処多きがごとし。

 また加友と共に貞門に列した松阪の俳人に竹内三信がある。

三信、通称を市左工門あるいは吉左工門と云い一に三忠また一葉子と号す。承応二年(一六五四)師貞徳の没した後は北村季吟について真髄を学ぶ。

 また竹内三保なる者あり、松阪に住し「音頭集」を選ばす。同じく貞門にして三信の一族なるべけれど、世に京都の堀江三保とその伝を混ぜられ、『音頭集』あるいは堀江氏の選ぶところならんかとの説あり、今詳かならず。

 その他清水信風、鈴木丑信、荒木定道、村田沢水等あり。時に天和中(一六八一~八三)俳壇の一快傑、大淀三千風の射和(現松阪市)に出ずるがありて、天下を周遊して松阪に来るや、これらの人々は三千風を招じて吟を連ね興を重ねた。思うに加友の流れを汲む人々なりしならん。

 貞享、元禄の頃、芭蕉の正風天下を導くに及び、松阪にては、園女、晨風、示因等の諸俳人を輩出して松阪文学に重きをなした。

ことに園女は女流俳家中の暁楚としてその詞才は千代、秋色に勝るとも劣らず、その事績には異説紛々たるむのがあるが、承応二年(一六五三)松阪の名家に生れ、元禄二年(一六八九)の冬芭蕉の門に入りしは事実なるがごとし。

 旋風も亦一老手にて元禄二年「曠野」の成りし時、花三十句の中にその作を選び入れられた。

 示因、姓は清水氏、湊町の人、通称八兵衛、又百斎と号す。元禄七年(一六九四)俳諧「四五百森」一巻をつくる。

   花の山どこつかまへて歌詠まん

の句あり。又同十六年の「おだ巻」には

   纏明けてうぐひすかごにうつらせん

の吟あり。示因の蕉門たるとは確証とてはなきも、時代が正風の全盛期で、貞門談林の余波とも思われず、ことに山田には岩田涼菟、各務支考とが相提携して正風を鼓吹するがあれば、松阪がこの勢力圏内なりしことは察することが出来る。

 元禄年中の松阪俳人は之に止まらず、明らかに涼菟門なりと伝えられる一なるものがある。中川乙由と友を以て交りしを見れば、俳壇における彼の位置のはなはだ低からざることを知られ、元禄十二年(一六九九)涼の「皮寵摺」成り、翌年また「其一幅半」成るや一の句前後共に採録せられた。その一に

   帯するも前垂するも師走引

とある故に恐らくは商人との説がある。俳人梅路の『麦の風』には一が晩年相可に住める由を記せり。

 なおこの以外、鯉屋杉風、志太野坂の局ごとき蕉門十哲の中に数えられる名家が松阪に因縁なきにあらざりしことをも一言する要がある。実に杉風は松阪の豪家、飯村氏の江戸出店に勤めた手代の一人で元禄十四年(一七〇一)の赤穂義士討入を主家に報告した書状など、近年の松阪大火まで飯村家に保有されていたという。又、野坂は三井の江戸両替店の店員で後辞して大阪に移り住んだと云うが彼の

   長松が親の名で来る御慶かな

 の句は彼が松阪商人の江戸出店に衣食せし頃の実況を作りしものなるべく、この二者は松阪文学に直接の交渉はなぎも、元締時代の松阪を追憶するものの必ず連想する人々である。

 元禄以後、宝永、享保の間においての伊勢俳壇は支考一派の美濃と涼菟一派の唱える伊勢風との対立を見るに至りしが、北勢おり一志郡雲出辺までは美濃風の勢力及びしも松阪は伊勢風の感化深かりしがごとく、その間俳人の聞えた者はなきも、涼菟の高足中川乙由、神風館によって指導された人々は多かりしなるべく、乙由の代表するものを麦林派といい、麦林の逸材を樗良という。

 

 樗良一門の勢力は天明以後の伊勢俳壇を風靡したが、ひとり松阪に素因という俳人あり、樗良の門に止まらず、江戸雪中庵第四世蓼太と友をもって交りしほどの地位を天明俳壇に占めた。

 しかしこの素因については詳かでない点がある。天明五年十月(一七八五)に没した茨木素因、同じく天明頃の人である。

 其々庵野丸門の斎藤素因と何れが同人で何れが別人かは後考にまつこととするが、「晩翠録」という書に松阪の素因の事を記して「江戸店持にて中川氏とかや」と見えたる。が真に中川氏ならば、茨木氏でも斎藤氏でも非るぺし。

 さて天明は俳諧の復興期で特に刷新された伊勢風の普及した時であるに、松阪に一素因の聞ゆる外元誄当時の盛況なりしに肖るなかりしは、いかなる理由によるか。これ松阪文学が衰類の機運に向いしためであるか否か。説をなすものあり、当時松阪には国学和歌盛んにて平民文学である俳諧に遊ぶもの賭なりしによると。けだし然らんも知れず。

 しかも亦一方より見れば元禄当時までの松阪は町民の気象江戸風の混迷にして風俗典雅凡ての方面に活動し従って趣味に没頭する者多かりしを、天明前後に至って商売に緊縮の気風ようやく加わり俳諧はいわゆる道楽にして家道に害ありと云うごとき訓戒的思想を抱きてひたすら節約を尊び謹慎せしものあるに至りしことも一因であるべし。

 

国学の全盛

 

元禄以後、俳諧方面の文学は漸次沈滞し、天明の復興期に於いても、さしたる影響を受けなかった松阪は、由縁もなく享保十五年(一七三〇)五月七日、小津富之助を生むに及んで一新紀元を画するに至った。

 小津富之助、曠古の大学者本居室長の出現は、忽ちにして国学研究の源泉地たらしめ、松阪文学を天下の大勢力たらしめた。宣長の幼時、もしくはその出生前後において、松阪に国学の萌芽ともみるべきものありしや否や、甚だ史を欠くが僅かに「嶺松院歌会」なる歌人の団体ありて、宣長の深くこれに私淑した形勢のあることはすこぶる研究に値すると思う。

 嶺松院は本居家の菩提所樹敬寺の塔頭であったが、同会は宣長出生の翌年享保十六年(一七三一)四月の創設で、宣長の没後、文化五年(一八○八)七月まで継続した。創設当時の会員は、西村喜兵衛、嶺松院茂鮮、村田孫助(元次)村田孫兵衛(金次)小津清兵衛(道円)小津六平(俊賓)山際浄阿ヽ竹屋四五郎、荒木松亭、青木左平(貞雄)の十人で毎月十一日、二十五日を

例会日とし、室長も後年同会に入会し、遂に牛耳を執るに至ったが、その入会年月は京都遊学より帰れる後のことなり。

 宣長が同会に関係したのはかく後年に属するが、前記会員中四名は宣長の親族なれば、室長が弱冠にして詠歌に志せるは偶然にあらず。(以上本居宣長稿本全集による)。 

 なお鈴屋自暑註ある『松阪権輿雑集』西町の件りに、

  一、浜口宗有、屋称仙台屋、歌をよくしその名堂上にも聞えしとなり。

     明けやすき淀の縫揚わたる間に月影しらむままの浦波

     秋もこん春は花咲く山村のふもとは月の桂瀬の里

     唐の人に見せばや大和なるよしのの山の花の盛を

 

 

  伊勢踊 加友編

 

紗の紗の衣おしやりしことは社中の狂言綺語にして一生は夢のことくなれもことにふれつゝ目に見こゝろに思ひくちにいふ霞舌の縁に引れてやつかれ若年のころほひより滑稽の道にをろかなるこゝろをたつさゆといへども宰予か晝寝かちにおほくの年月を過し侍りぬまことに期すところは老と死をまつのおもはんことも

しらす又爰にわれにひとしき二三子あつていはく此ころ諸方に何集のか草のとて誹をあつむる事しはくいまめかしされは都のえらひにうちのほせんをも流石に目はつかしまた田舎のあつめにさしつかはさんこともはたくちはつかしさはいへとをのれらうちうちこゝろをやりてなし殴たるも月日をふる句になし行事いとくちおしとて予を時のはやりをとりの哥挙に物せよとよりくそゞのかされて気を瓢箪の浮蔵主になりゝ瓦足拍子ふみとゞろかし手ひらうちたゝきて人々まねきよすれは赤ゑほしきたるとち腰うちひねり頭をふりてわれもわれもとうたひのゝしる小哥ふしらうさい片はちやうのものはいふにたらすは哥舟哥田植うた順礼比丘尼樵夫の哥なとをとりあつめて ニオ」

小町躍や木曽踊住吉躍土佐踊是はとこをとりと人とはゝ松坂越て伊勢踊と名付答る物ならし

     寛文七年霜月日            加友序 ウ」

 

 伊勢踊巻第一 元日

 

天の戸やあけ六うめる神の春  伊勢大宮司  精長

餝松や今朝神代の巻柱     岩城住    風松

言語にも及さりけり神の春          不知作者

國さ槌打治めきぬ神の春    朝熊岳野間  政安

神の春立門松や青幣帛     松坂弥勒院、 教翁

立年のむまやにゝきの神の春  山田林氏   氏益

今朝立や日本家上神の春    江戸荒井や  忠知

神の春を祝ふ福録寿命哉    津菊川氏   宗寿

包井もひらくや水のかみの春  筑前和田氏   利

男松め松ちはや振代の神の春  江戸中村氏  吉辰

伊勢海老を含む餝やかみの春  山田不動院  頼養

年の矢の立るや賀茂の神の春  松坂竹内氏  仍信

地久しや天永き日の神の春   山田藤本氏  久利

 

 

  苗代

牛馬は人の返せる田すけ談          昌把

すきの道も辛労あるや小田の春        遣慮

稲の跡はうしにて返す田面哉         種清

返さすは種をはかさし苗代田         種清

雨足の又こね返す田つら哉          種清

三国に蒔や五こくの種おろし         定重

是も賤か小田まきならし籾の種        光保

こやすてふ我苗代のおろし種         重春

すき間なく打返す民の仕業哉         重長

張置や鳶ゐさせしの苗代田          念助

 

《筆註》以下、山口素堂関連句のみ記載

 

  予か江戸より帰国之刻馬の

  はなむけとてかくなん

 かへすこそ名残おしさは山々田     信章(素堂)

 

 花の塵にましるはうしや風の神

 

  餘花

 参雨にうたれあなむ残花や児桜

 

 

  相撲

 取結へ相撲にゐ手の下の帯

 よりて社そるかとも見め入相撲

 






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最終更新日  2021年05月30日 11時05分06秒
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