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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月01日
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特集 藤巻宣城を偲ぶ 遺稿

 

 『中央線』6

  一部加筆 山口素堂資料室

 

 「中央線」生みの親、藤巻宣域が、去る八月二十三日未開、忽然として世を去った。

 宿痾「のぜんそく」が彼を強引に倒してしまったのだ。本人は死ぬ気など毛頭なかったようで、死ぬ寸前まで電話をかけたりしている。甲府商業在学中、同人誌「あぢさい」に加わって火をつけられた文学に対する情熱は死の瞬間まで赫々と燃え続けていた。

 創刊号の編集後記に

「この次に、五月の二号(遅れて九月になったが)にお眼にかかる時は、また一段と飛躍した言にお眼にかかれるのを楽しみとしましょう。」

と言いながら二号の発行を待たずして旅立ってしまったことは憐れである。

 ここに彼の遺稿と言削に捧げられた翁悼文をもって特集とした。生前の藤巻宣城を偲んでいただきたい。

 

 藤巻宣城氏 略歴

 

 明治二十七年 

  綱土町大豆生田に生る

 大正  八年 

  甲府商業入学。

  二年頃同人雑誌「あぢさい」に参加、創作活動を始める。

 大正 士二年 

  母方の親戚が経営しでいた「成業銀行」に入社。

 昭和 八年 

  熊本県天草支庁勤務を箔打。

 昭和 十四年 

  東京職業紹介所に移る。この頃相田阪太郎氏との交友始まる。

 昭和 土年

  厚生香体力謁にて国立公図閲係事務に従事。

 昭和 二十年 

  厚生事務官(高等官七等)に叙せられる。

  この頃、三井芳文氏との交友あり。

 昭和二十六匹‐ 

  地方事務官に任じ、山梨県庁勤務を始める。

 昭和二十四年 

  北巨摩郡足村農協組合長。県共済連盟監事に就任。

 昭和二十六年 

  共済連理事、北巨摩郡支部長に就任。

 昭和二十八手 

  不二甲商事(飼料、肥料販売)経営。

 昭和三十三年 

  この頃第一次「中央線」発行する。

 昭和三十六年

  須玉町町議となる。

  工場誘致特別委員長として工場誘致に取り組む。

 昭和四十年

  財産区議会議員となる。

 昭和四十三年 

  財産区議会議長。「中央線」復刊を具体化、

  三月創刊号を発行。

  二号の編集完了後持病の「ぜんそく」悪化。

  八月二十三日未明他界す。享年六十四歳。

 

 

 

 

遺稿 紫陽 藤巻宣城

 

 『中央線』6

  一部加筆 山口素堂資料室

 

 人間、百歳までとすれば、六十貢はやっと半道中である。

峠のけわしさにかかって一服、それからまたゆっくり登りはじめるのである。獏(ばく)という動物は夢ばかり食って生きているという。おれも獏であった。

 今から養生になる物を食って、蚕のように桑でも食って良い繭を作りたいと思うが、まことにまことに前途遼遠……目暮れて路遠し、である。

 さて、おのれの家は塩川筋の中心地で、金峰山麓の木炭を馬につけ、自分も背負いこで背負って運んでくる生産者の木炭を倉庫へ山のように積んでおき、甲府の薪炭屋へ「運送」という馬車で出す、いわば炭問屋と、呉服や荒物を売っていた「小犬さん」で通っている商店であった。親父の代に水害や、病み続きで二人も家内をなくすなどの災難の挙句、新県道へ沿って新築したばっかりの店舗を、倉庫、本家まで「大豆生田(まめおだ 現北杜市)の大火」で焼いてしまい、かなり大っ腹の親父も、がっかりして店をやめる気になった。

 一人息子のおれを何にしようか。百姓も可愛想と思って、田舎の長男をよくやる手の、師範へでもやる気でいたらしいが、甲府の従兄がその頃商業学校の本科三年で、実践前の百円札や、銀貨や銅貨などを見せびらかすので、そろそろ小学校卒業期のおれに白線の帽子と一緒にでっかい蛙力となってしまった。

 その上に甲府の中学と女学校ヘー人ずつ同級生が受験するというので、一番競争率の高い奴をという負けん気も出て受験して見たら、見事合格してしまった。

 どうしたもんかなあ、と言っているうちに、受持だという谷先生から「二組になった。成績もいい。早く出校するように」と呼出状が来た。そんなこんなで、親父も入学させる事になったが、適当でない者が一人飛び込んで、ほんとうに入らねばならない者を押し出した結果とはなった。

 毎朝小淵沢駅あたりで貨車の尻へ五、六輔増結した箱客車(今時鉄道博物館へでも行かんと見られない)に、やっと駈け込むのだが、遅い時には突っこみ線(スイッチバック)でぶら下るという芸当までやってのける山猿どもである。また、トンネルヘ入ると電灯がなく真暗やみであっちの算盤をこっちへ置きかえたり、こっちのゲートルをむこうへやったり、帽子を取換えたり、百鬼夜行である。甲府駅へ下車するやいなや、殆んど駈け足である。

 その頃駅を出てすぐ左側はお城の濠になっており、たしか糸柳が濠端に植えてあり春ともなれば、白線のピンとした学帽を柳の枝がハラバラと撫でてくれる。橘町-桜町-柳町-太田町―青沼と行くのであるが、そこに通行禁止地帯があるのである。たとえば、左折して鍛治町は良いが、若松町はいけないのである。折々タコ先生か地まわりしているというのである。

 その頃、午後になると三味線の音が遠く聞こえることもあるが、何のために、また何故通ってはいけないか理解出来ず三年生くらいになってやっとこの理由加おぼろげに解るようになった。

 まず、一番困った事は腹のへることである。食うや食わずで汽車に駈けつけ、下車するや否や駈け足、それに時々汽車が遅れる。その時は駅長さんの証明か、または集団でタコ先生に陳情しないと授業が受けられないのであるIしかし棄てる神あれば拾う神あり、山本節先生は救世主である。午前四校時の間で二時間目くらいに食ってしまわぬと、母が手塩にかけたアルミの弁当箱の匂いが、秋刀魚であり、塩鱒であり、鰊であればこの香りがぐっと来て眼がぐらぐらするのである。

 山本先生は誰も知っている大近視である。それにつけこみ漢文の教科書を机の上に立て、平べったくカニのようになって、こっそり食うのである。なんとかの盗み食いとやら、今思っても生つばが一升も出てくる。先生ありがとうございました。休み時間に教室に入れぬ悲劇の一こまである。

 昼飯は校外へ出て食えぬので、門の外に幾軒パン屋があっても、横目で睨んでいるだけである。しかし、またいい手もある。校舎の東の方にお稲荷さんの石祠があって、昔、頼朝、が隠れたと同じような穴のある欅があり、此処のあたりの黒木の棚から五銭玉一つで、一袋のアンパンが入ってくるのである。運動場のまわりに全部木棚があり、折々歯の抜けた処からちょっとはい出れば、すすきが背丈もある。

この中からパンの空袋が現われ、また風のない静かな日には「エヤシップ」の煙がゆうゆうと上る事もあるのである。スモークは見つかれば停学ものである。S君はW・Cでこれを楽しんでいる処をタコ先生にやられ、一週間の停学を食った。

 おれは知らなかったが、われわれの入学の時、神戸から赴任し、卒業式の時愛惜の涙ボウダとくだり、別離して故郷佐賀へ帰って再び戻っては来なかった。因縁真に浅からず。今に到って、ますます深いのを感ずる。

 「白線」の影に涙あり。まことに「恩讐の彼方へ」である。愛情のこんこんと湧くままに、ちょうど記念誌を書くために探し出した当時の日記があるので、原文のまま抜粋することにする。

 

 大正十二年二月十日、土曜日、タコの体操の時間は非常に冷たかった。大根おろしのような庭の雪の中を歩調をとって歩かせる。ぬかるみの泥を靴でかきまわさせる。靴の穴から雪と泥がじんじん足にしみこむ。「戦争の時は道を選んではいられんぞ」と成程成程。放課後四年全部の卒業生への送別会。簿記室で校長も来ている。その内に誰かが「南無妙法

蓮華径、南無妙法蓮華径」のお題目。それに続いて生徒全員の大合唱でとうとうタコが壇上に駈け上り、大声で唸り出したが、この大法要一向に小坊主達に通ぜず、適当の処で逃げ出して井尻と臼田の所へいく。三人で蕎麦を食いにいく。オゴル(奢る)というので一本つける。皆良い色になって苦しがる。とうとう丼二つで我慢して散々苦しがる。揚句の果て十銭足りず借りにする。時々来るやつにおまけだぞ、なんて言った。

二時のやつがとうとう五時になった。

 

 二月二十三日(全) 「法律」はまた休む。山根に昨日のは出席にして貰う。依田がLの話をするからと言って一緒にかえる。甘さのみ吸う蝶のようだと言ったら、そんな事はないという。廿さばかり求めているものはいつか泪の試練を経ねばなるまい。遊戯的、感情的なLOVEは苦悶と吐息のみだ。啄木の、舶来の手ざわり荒き洋書の上にアーあやまちて落せし葡萄酒。

 

 二月二十四日(上)普選上程の日議会の大騒ぎが書いてあった。目覚めた人々のためにこの尊い権利を与えよと絶叫する人々、示威運動は白熱化する。噴水の処に辻と依田とが待っていた。論じながら行く。よい天気だ。いつになく饒舌を逞しくうしながら不老園に行く。酒折官という社は初めて参ったが、甚だ簡単なものだ。ささやかな門をくぐる。梅の若本が両側に並んでいる。石垣の傾斜に紅梅の莟が開き初めている。上へ登って庭園式の所で日向ぼっこをして話していると、琢美の生徒が散歩して通る。洋装の可愛いい、まあちゃんがニコッと笑って通った。嬉しくなって私も笑った。Mも来ていた。どこからか一面に陽炎のようなものが上っていた。枯れた薄の影には青い春のきざしが萌えていた。十一時すぎ線路についてかえる。お城で斎藤と井尻と一緒になった。青い

顔をしていると思ったら井尻が八田という中学の奴をコヅキそうだったとの事だ。皆で臼田の所へ来て騒ぐ。五時でかえる。

 

 四月二十一日(土)雨、辻と臼田と井尻とかえりに若尾一平の銅像の方へ行く。時々雨が止んで本の葉に明るい新緑の光が映える。噴水がある。勢がよい。二時頃から遠藤と甲府館を見にゆく。「東への道」という奴だ。仲々よい。アンナという女主人公はカチューシャそっくりで可憐である。…よかったが出てから蛸が居たと開いて青くなる。殴られる。それも仕方がないが、あそこへ立たされる。まあ仕方ない。

 

 ちょっと拾った日記の一コマである。教練の時になんだったか原因は思い出せないが、往復ピンタでグラグラするくらいやられた事かおる。休み時間になっても頬がポッポとしてぬくとかった。中込友美の発砲事件や、山本則の銃てい破壊事件等は余りに右有名であり、今でも眼に焼きついている。臼田の八王子の小倉という話は、体操や教練の時間にや

る服装検査の時の秀逸の名問答で、流石の先生も地下で微苦笑されている事だろう。雪の日の兎狩や、修学旅行の思い出も美しい。

 愛宕山から続いた石和方面までの山懐で、五百人の人足らが、号合一下白雪をやっぱり真白い(いや、白いのは一年生ぐらいだろう)海軍式ゲートルで駈け散らして、捕獲された五、六羽の獲物は増量されて、兎豚汁として翌日の昼一杯ずつ配給された事もあった。

 また、一年か二年生の時であった。江の島、鎌倉方面に行った時のこと。ユラリユラリと奥弁天さんの参詣の暗い洞 一門の揺れる桟橋を、百人の編上靴がガタガタと踏み鳴らしながらヽ時々宕の天井から襟首ヘヒヤリと落ちて来る水滴に肝を冷やして進んでゆく。流石の饒舌屋たちも一言もなく、お互いの手足や呼吸音を頼りに進んでゆく。しかし遥か前方には不整形の丸い明るさが見え、時々断層からかすかながらも

光が対して、無気味にブラ下った蝸幅(こうもり)が余りに多いので、びっくりして声が出なかった。

 その帰りの汀で、三三、五五の隊列から離れて、パッと掬いあげて見た。見事予感的中。頭に三角巾をつけた大きな鳥賊ではないか。ほんとに瞬間ではあったが砂の上に投げ出された半壊の傘と、長い足が見えると「なんだ」「なんだ」と大騒ぎになった。腰の手拭で胴体をしぼり、宿屋へ持って来た。然し、晩の膳にこのおれさんにさえイカサシも、照り焼きも出なかった。さては?

 

 三年生になった一学期かと思う。四年生か中心で、有名な甲商業のストライキとなった。主力が山八幡に籠ったり、校門からずっと太田町あたりにピケ、が張られたり、いろいろと情報が飛んだ。然しりリーダーではないので、その目の午後は斎藤栄の下宿の二階に五、六人で評議を開いていた。旗を振りたくてウズウズした連中だろう。これで思い出したが、おれには尋常四年生でストライキを、しかも主謀した事がある。

受持は丸茂という若い女教員たった。級長のおれが、廊下へ並んでいる同級生に「前へ進め」と教室へ号令をかけて入れている時であった。どうした原因かどうも思い出せないが、それとすれ違いに入って来た丸茂先生がか、おれの後頭部を持っていたムチで打った。どうしても不服である。この時聞か終った時に、女生徒と二、三人を除いた全生徒、がおれの主張に賛成して、「生意気な女教師を反省させる」手段として、校庭の裏から山崎という小松の立っている丘へ、四十名を引率して引上げてしまった。そして夕方まで、松かさの投げっこをして遊んでいた。役場から植松という親類の助役さん、が、「みんなどういうわけだ。さあ学校でも宗でも心配しているから、俺の後をついてこい。」

 翌日、朝からおれを先頭に校長室へ呼ばれて説教され、その上一日中立たされた。その時局を震わして泣いている丸茂先生を覚えている。その年はとうとう優等賞から落っこちた。この先生は頭がよくてキビキビしていて、おれを悪くはしていなかったので、何でこんな事件が生れたかは今でも解らない。

 この時代の女先生はエビ茶の袴をはいて、大またに歩くと桃色の股引が足首から見えた。こんなことが悪童どもの持っていた丸茂先生の印象である。

 

 八月二十二日(水)父よ、どうか快くなって欲しい。あの元気な生々とした、明るい笑顔の父となって欲しい。一日も早く。若し…そんな深淵は、考えるだけでも怖しさに湛えられない。生意気のために祈ることをやめてはいけない。

 いのれ…父のために。キザな馬鹿者奴…

 

八月二十五日(土)父と病院にゆく。穴山七時三十分発。

軽い脳溢血だから次第に治るだろうと院長。絶対安静だ。遠藤の所へ寄る。少憩の上「泉」を借りる。紫陽花にのせる「五葉松」の校訂刷も一緒。雨少し降る。穴山から家まで静かに歩く。途中手拭を出水で濡らして冷しながらー。

 

 九月一日(土)雨が叩きつける程降っている。四時に起されたがか桑つみには行けない。正午近く雨が止んだ。正午だ…ほんとに真昼…新凰の二階で新聞を読んでいると、突然ダラダラダラダラ。晴天のヘキレキ。またグラグラ。やっとの事で安子さんと二階の戸を打ち明けて逃げ出した。後から天井が落ちる。瓦がおちる。石垣が崩れる。眼が霞む。足元すくむ。この大地が今に心眼の前でパックリ割れて、そこへころげ込みそうだ。怖い。なんともかんとも名状しがたい恐怖の本能が、いても立っても心いられない。

 倒れそうになってはやっと湛える。むきだしに生命だけの欲望、が、手足だけガタガタと震えおののく。安子さんも、おっちやんもやっと立っている。その間にも前の善春さんの屋敷の高い石垣がガタガタと崩れ落ちる。川向うの土手のままの石垣、か白い煙を立てながら崩れ落ちる。それらの物音が、唸る獣のような声となって頭の芯とうに響く。向うの家の屋根が道へ着きそうだ。電線、が土をはっている。また、何処か遠吠のような物音だ。

 腹ばいながらやっと家へかえる。小田川で家が倒れ、人が死んだという。父親が安静にしていられぬ、震える身体をやっと押えて庭の菰の上に座らす。野宿ときまる。震える手で母と二入蚕に桑をあげる。ろうそくで飯を食って菰の上に布団をしいて皆でころがる。カゴヤは急造の小屋へ子どもらを寝かす。子どもは陽気だ。また、遠雷、野獣の咆え、それらの響とともに大地を構成する砂の一粒にまで地軸の振動を伝えて、生きとし生けるものの心臓をかきむしる。…人間の足は…池上に立てるという永遠の哲理を覆すこの現象…

 …野天である。星、が美しい。

 

 九月三日(月)甲府の停車場まで行ったら学校は休みだという。何処の学校も臨時休校である。停車場の広場から、桜町、柳町、街路へ幕を張って寝ている。被害を見に歩いていたら魚町で剛さんに突き当った。突然緊張した。俺を呼んだ。「遂にやった。期待していたことを」俺もビグッとした。何かしら強い電気が身体を走った。俺と井尻は無言で見

て廻った。

 

 九月七日(金)避難の人々と、東京へ探しにゆく人々、よれよれのシャツやゆかた一枚の人。野宿一週間という山登りの人。とうとう七時半の汽車へ乗れない。九時のへ乗って韮崎下車。北原へゆく。

 

 十月二十六日(金)朝「くち葉」の原稿をやっと書き直し美根男君にたのむ。父、また病んで前より病状悪し。左の足まで利かず肩がふらふらして母と二人で支え便所へゆく。支えねばころぶ。午前中田さんに家伝薬を聞きにゆく。午後来診。大した事もないが、前より恢復が遅い。仕事は絶対にいけぬという。いくらか愁眉をひらく。夕飯麺類軽く二椀。十一時父安眠。その後大道でよくつかまる易者の多数が曰く「肉身に幸うすし」と。この日記のごとく、かねて抱えていた野望(東京へ出て

大学で文学を勉強する)は、父の病気に遭遇して本の葉の如く、ものの見事に打ちくずれた。

 

 四月から十月まで、八ヶ岳山麓の寺へ龍り、代用教員をしながら受験勉強をしたが、親の故障でこれもやめねばならなかった。森先生か山日へ入れと勧めてくれた。折角入社を決めながら、病んでいる親父が新聞記者はよせと言った。

 母方の祖父小林保孝らが、二宮尊徳精神をモモットーとして建てて、勧業、貯蓄を呼称していた孔丘報他社は、明治二十年頃成業銀行となって次第に地域の金融機関として成長して来た。乞われるままに、紺ガスリの角袖を初めて作ってもらい、これを着て忘れもしない江戸屋の芹沢先輩からお祝いに貰ったハンチングをかぶり、毎日十五分の道を通い初めた。

 青春の謀叛心はこの田舎銀行の明け暮れには堪えられなかった。二年生の時から誘われて同人となった甲高の「あぢさい」は、遠藤伊作(四年生)、山本延久(病気中退)、山本則、高橋捷造、熊王徳平、清水胖、深沢寿男らに名古屋から水谷大成、稲垣ひろし等有象無象の同人で、三ケ年発行、部数二千部と地方ではかって見ない発展ぶりを示した。そんな青春のセンチメンタルには関係なく、祖国日本は不況のどん底に落ち入り、県内の中、小銀行は殆んどつぶれた。

 昭和八年三月仕事のなくなった銀行を辞め九州へ行くことにした。

山国から不知火の国へ。二十五歳の青年が、遠藤伊作からもらったトランクをさげてあこかれの海の国へ赴いた。

 

    泊天草洋

  雪耶山耶呉耶越  水天髣髴清一髪

  万里泊舟天草洋  烟横蓬窓曰

  瞥見太魚波間跳  太白当船明似月

 

この頼山陽の詩碑が富岡城の巴浦という處に天草洋を見下して建っている。訪れる旅人の旅愁をなぐさめてくれる風景は、港の遠くから見える十字架の天守閣、鏡のような静かな海へ現れる不知火であろう。埼津という街は船で旅館へ着く。晩鐘が遠く海の上を伝わってゆけば、働く手を休めて十字を切る娘さんもいるのである。

 給仕女と呼ばれる土地の娘が、宿で一切の身のまわりの世話をやってくれる。望まれれば三味線をとって、切支丹小唄を歌ってくれるのである。「上と下との縁の瀬戸を、渡りや本渡の華の街」このいくつかの島々がこんど架橋で連ながれたというが、昔のような船の情緒は消えてゆくであろう。この娘子達は、かつてシンガポール、まで進出して行ったので、「唐ゆきさん」ジャワ、スマトラまたは「新銀とり」などと呼ばれた。ミイラとりがミイラとなってこの俺は浅利やはまぐりをあさる海浜の生活が、六、七年にもなった。不知火の竜宮城に連れて行かれた浦島太郎となってしまった。

 昭和十四年春、夢の鳥を離れて東京へ戻って来た。支那事変は大東亜戦争となり、「花の都のまん中で」よいとさ、それヨイヨイヨイとは行かなくなり、次第々々に戦争の様相を深めて抜き差しならぬ状態となった。

 

 勤労動員の東京都庁に、健民運動の厚生省へと職を本じつつ、毎日々々戦争の重圧に押しつぶされてゆき、ついには、老母と子ども三人の六人家族の食糧の確保が出来なくなり、金を持って行ったのでは葉っ葉一枚、芋一つ分けてくれず、交換物資を探しては、休日には埼玉や干葉の奥まで買い出し部隊となって、リュックサックの鬼と化した。百円の月給では闇米一升買えない始末。なんとか頼めば田の三、四段股は返

して貰えるだろう。無肥料で作っても、十俵や二十俵は穫れるではないか。中国の詩人の文句を借用して美しく行こうではないか。せめても。

 還りなん、いざ、田面まさに荒れなんとす。

 

新府城その他

 

  陽に透きてわが常にあるは一粒の

     炭と化したる兵糧の米

  天正十年焼けおとされし穀倉の

     焔を秘めて埋れこし米

  七里岩断りて武川への間道を

     吹きあげてくる釜無の瀬音

  赤土に霜柱立ち村の童の

     手かかじかむよ本丸の跡

  城趾の松の梢に吹く風を

     何度来りて何度聴きしか

  村の童がはねつゝ登る石段を

     くぬぎの落葉積りて音立つ

  松の中に鋭き継子の声ありて

     城趾の草に吾は坐れり

  空濠に碑影をおとし長篠に

    敗れし骨も眠れりともに

  矢の根石競ひて据りし学校林を

    老いて足なえ吾は下るなり

  「親はなくとも子は育つ」

    いやな言葉なれど現実にして

  宇良盆会青絽を羽織る秋虫と

    亡父(ちち)変化して訪れ給ふ

  堅炭を火鉢にくべておこすとき

    鉱湯宿(かやど)の裏山にかなかな啼きいづ

  手首病む妻と吾来し山の湯の

      朝のかけひに三つ葉を洗ふ

上野国立博物館にツタンカーメン展を見る

  もの云はず唯さん然と黄金の

      ツタソカーメン光り輝く

  黄金の寝台にのこる麻張りに

      現今の跡のこる哀れさ

  黄金は美しと云ふしかすがに

      ミイラの王をさらしてはばからず

  藤の花咲き乱れたりくだ蜂の、

      円舞は速くさくるにせわし

  朝冷えの部屋に坐りて向つ屋の

      から松林の芽ぶきに対す

  海野口いでゆの宿の食膳に

      吾れにたべさすたらの芽大きし

  米粒に似たる花咲き竹は枯れぬ

      百姓は云う飢饉の年と

  消毒の噴霧器は肩にめりこみて

      稲田の中をたよたよとゆく

 

(昭和四十二年囚月発行の甲府商業高校二一会(

第二十一期卒業生)還暦記念誌「それぞれの道」より転載しました)






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最終更新日  2021年06月01日 16時55分12秒
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