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2021年06月01日
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 藤巻宜城を悼む

 

 『中央線』6

  一部加筆 山口素堂資料室

 

 藤巻宜城君と私か親しくなったのは、藤巻君が甲府商業の生徒だった頃からである。だから随分古い仲であった。かれこれ四十五年近い。

 大正十二年の春、愛知県の水谷大成、それと既に故人となった遠藤仁市、藤巻と私の四人で、富士川の下り舟で見延山へ行った事がある。その時の写真が今もあるが、藤巻は、紺絣の着物に袴、甲府商業の帽子を冠っている。

 甲高を出てからの藤巻と私とは、すっかり疎縁になってしまった。藤巻は東京で何かの官庁に勤めたようであったし、私はそれからずっと文学に噛り付いていた。道は違うったようであった。

 再び旧交に戻ったのは、敗戦後である。どっちも四十歳を過ぎていた。大人になっていたのだ。

 若い頃の「あぢさい」の同人達、か、遠藤仁市君を中心にしてよく集った。「中央線」を発行して、それは三号で休刊していた。その「中央線」の仲間で、藤巻と私とは最も親しかった。つまり、気が合ったのである。

 今年の春、突然訪ねて行ったら「中央線」を再刊していたと言って見せられた。藤巻は、若い日から好きであった文学を一生忘れていなかったのだ。

 「雀百まで踊り忘れずだな」

 と笑って、その持仏は大変嬉しかった。城君が成人したので、藤巻君は安心して、これから文学をやり直す腹だったらしい。

 清水原作君を呼んで、三人して南ア荘へ行き、ビールを飲んだ。藤巻君は喘息で沖も苦しそうだった。藤巻君が十年来、喘息で苦しんでいるのを、私はよく知っていた。長生きは出来ないのではないかと、私は心配になった。だが、それからあんなに早く死のうとは。真に無念だった。

 藤巻宜城の死は、奥さんからも、幹城君からも、私に知らせが無かった。うっかりしたらしいのである。葬式が終った数日後、中沢一男君からその知らせを受けて私は吃驚した。

悲しみに打ちのめされて、その夜はよく眠れなかった。

 その後、深沢寿男君が訪ねて来てくれて、葬式の模様を話してくれた。

  「そうだったろうな。知っていたなら君も行ったろうに。

どうして見えないのかと思ったよ」

 私は近く、須玉町のお寺の墓地に眠る藤巻宜城を訪ねて行く心算でいる。

  「君はどうして俺の葬式へ来てくれなかったのだ。あれほど親しかった君が来てくれないという法はあるまい」

 そう藤巻が怒っているような気がしてならない。だが行って事情を話せば、地下の藤巻は、笑って赦してくれるに違いない。

 「そうか、そうだったのか。だがまあ、よく来てくれたな」

 喘息であんなに苦しんでいた藤巻よ。だがもう、あの苦しみはもうあるまい。眸を閉じると、よく甲府の町で二人で酒を飲みながら、苦しそうに咳き込んだ姿が髣髴としていたましい。藤巻よ、静かに眠れ。






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最終更新日  2021年06月01日 20時22分04秒
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