カテゴリ:俳人ノート
山口 誓子 せいし
『俳句』「俳句年鑑」角川文庫編 第43刊 第十三号 1995年版 一部加筆 山口素堂資料室
本名・新比古。 明治34年11月3日京都市上か区岡崎町に生れる (戸籍記載名は新彦、戸籍上は11月5日生れ)。 明治42年外祖父と共に東京に移り同45平樺太に渡る。 大正6年京都に帰洛。 錦林(京都)、真砂(東京)、豊原(樺太)各小学校から樺太庁立太泊中学、京都府立第一中学、旧制第三高等学校(京都)を経て東京大学法学部卒業。 大阪住友本社に入社したが昭和17年に退職、嘱託になる。大正13年肺尖カタルを患い以後昭和34年ごろまで健康を害し、休学、休職、転地療養を経験、休学中は福井県高浜町、兵庫県芦屋にて静養、就職後は結婚後の新居、京都市東区宰桐山町のほか紀州白浜、芦屋、箱根強羅、伊豆川奈、蒲郡、伊勢富田に住み、戦後は四日市天ケ須海岸、鈴鹿市白子鼓ケ浦海岸、西宮市苦楽園などに移住を重ねた。 俳句は大泊中学一年生の時、寄宿舎の舎監で国語教師永井鉄平のすすめで寄宿生有志の句会に出席、また上級生の松原地蔵尊と俳句の回覧雑誌を出したりした事に始まるが、本格的な出発は「京大三高俳句会」に加入した三高時代の大正9年10月。鈴鹿野風呂、日野草城らに学びつつ「ホトトギス」に投句、10年8月「ホトトギス」初入選、同10月「京鹿子」同人。 大正11年東京大学入学に伴い「東大俳句会」に参加、 昭和2年8月「ホトトギス」および「天の川」課題句選者、 同3年3月~6年5月「青壺」主宰。この間、秋櫻子、素十、青畝と共に四Sと呼ばれるようになり、 昭和4年ホトトギス同人。 同6年青壺を辞して9年2月まで「かつらぎ」に関係するが、 8年1月「京大俳句」顧問となってこれを支援、また同10年5月「馬木」に参加、有季定型の立場を保持しつつもいわゆる新興俳句運動に幅広い理解を示した。 戦後は昭和23年「天狼」を創刊主宰、有力作家を傘下に結集、戦後俳句の形成推進に大きな役割を果す。 現代俳句協会会員を経て昭和37年俳人協会会員、のち同顧問。昭和62年日本伝統俳句協会顧問。昭和32年4月から朝日新聞俳句欄「朝 日俳壇」選者を続ける。中日文化賞(昭24)紫綬褒章(昭45)勲三等瑞宝章(昭51)紺綬褒章(昭61)芸術院賞(昭62)朝日賞(平1) 関西大賞(平2)などを受賞し平成4年文化功労者顕彰。また昭和63年神戸大学から名誉博士号を贈られている。 平成5年7月体調を崩し同年9月「天狼」休刊を決意、11月同廃 刊を発表して平成6年5月号を終刊号と予定したが平成6年3月26日死去。享年93。「天狼」平成6年6月号(第47巻第1号)通巻第五四八号が終刊号(追悼号)となった。 同年4月勲二等叙勲。著書は多数で句集は処女句集『凍港』(昭7・5)から遺句集『大洋』(平6・7)まで17集、俳文・評論集は『俳句 鑑賞の為に』(昭13・5)から『天狼俳句鑑賞』(昭62・9)まで15冊、随筆集は『夜月集』(昭14・3)から『季語随筆』(昭62・9)まで20冊を数え、全集『俳句文学全集山口誓子篇』(昭12・10)、『現代俳句文学全集第7巻』(昭33・5)、『山口誓子全集』(昭52・1~10)のほか『句碑アルバム』(昭48・8)『山口誓子筆彙集』(昭56・11)『写真集現代の俳人山口誓子』(昭63・1)がある。 雑誌発表の最後の句は
サハリンに太くて薄き虹懸る
で、平成4年のサハリン行の時の作品。辞世の句は、神戸の作
一輪の花となりたる揚花火
とされている。墓は芦屋霊園。戒名は神道のため無し。なお「天狼」の後継誌は「鉾」「昴」「築港」「彩」「ぐろっけ」「天栢」「俳句と食」「瀧」「宇宙」。
海に出て木枯帰るところなし お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月02日 20時17分44秒
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