カテゴリ:山梨歴史文学館作成資料
甲州美女列伝(1)まかりでた美人後家 天正一〇年(一六八〇)も末、一応甲斐の平定を果たした徳川家康は、つぎに予想される強敵相模の北条氏に備えて、いまの山梨県御坂町へ巡視の駕籠を進めた折に、生涯にわたってその寵愛を失うことのなかった才色兼備の美妾をえた。 「殿、ただいま今川氏の旧家士にて神尾孫兵衛忠重の後家すわと名のる女が、陣中をおそれず稚児を伴い、たってお目通りをと願出でござる」 厳冬二月十九日、浜松城を出陣して以来この方、もうこのたぐいの面接にはほとほと辟易(おそれたじろぐ)していた家康は、 ` 「又そのようなとるにたらぬ女房のことまで逐一取次ぐのか、如何様にも執り図ろうたらどうじゃ」 と、ふきげんに大きな目玉をむいてみせた。 「お言葉にはござりまするが、件のおんな、京大阪においても滅多に見かける事のない若後家にて、さながら門前へ時ならぬ花が咲いたる風情なれば、むげに追いたてるにはいささか辛うござれば………」 「な、なんと京大阪にてもみかけぬほどの美人後家と申したか?」 「いかにもひなにはまれなる」 「なぜそれを先に申さぬ。陣中のつれづれじゃ、そうそうに召しつれよ」 こうひっかかってくるとみた近習は、ニンマリ笑みをうかべると席をたった。豹変とはこのことであろう。それまで物憂げに、思いにしずんでいた家康の目が、たちまち色をおびて期待に背のびして門前の方をうかがったほどだ。 これには充分に理由がある。いまのいま、家康の胸中にはほかならぬ甲州から得てまもない側妾ふたりの美しい面影が去来していたからである。 家康が陣中へ愛妾をともなったことは追々記すとして、このたびの甲州出陣にはその夜の伽役が欠けていたから、空きっ腹へおもわぬごちそうを出されたような恰好である。 甲州美女列伝(2) 「契約は安土(信長)にすぎるはなく、荒淫は築前(秀吉)におよばざるはなし」 といわれた信長はホモ、百姓の生まれである秀吉はむやみに身分のたかいお姫さまを欲しがり、荒淫にすぎてかえって子宝を失しなったと伝えている。契約とは中世に流行したホモ関係を示す隠語で、ふるくは『勝山記』にはじまり江戸時代の武江年表にもみえる。ホモやレズは現代以上に昔は多かった。 毛並にうるさかった家康はどうか、人妻を盗か二盗、女中などを犯す二姉といった女にかけてはゲテモノ好みであったことはおおくの文猷にしるされている。 家康の二妻十五妾については、その生い立ちがいづれもあやふやであるが、玉輿記、柳営婦女伝、以貴小似、徳川外戚伝、徳川家譜ほか、一致して家康の下女の女好みを伝えている。げんに 「……筋目つまびらかならず、駿州金谷の鍛冶屋の後家にてコブつき」 としるされている茶阿の局(同系にあらず)は、高田七十五万石に任じられた家康の第六子息輝の生母である。 一目で側室に 「おっほう、こ、これは、これは……」 さっそく召出された二十四歳その頃では年増の後家すわをひと目みた家康は、おもわず身をのりだし息をつめた。落つきはらってまかりでたすわの美しさけ、まさにそこに居あわせた家康七将さえ圧倒するに充分だった。 「う――ん’これはまさに生きたる吉祥天女か照手姫、まこと耀くばかりに美しい」 家康が大将のつつしみも忘れて手放しでほめる態度に、七将は互いに膝を組み直しながら大きく空咳ばらいをした。 「いや、男くさい陣中に紅一点まさに名花一輪といった風情にござる」 大須賀康高はたいそうな身振りで賛辞をはきだすと、石川庸高ごくりと大きなのどぼとけをつりあげて、 「拙者、これまで甲州とは山猿ばかり住んでおる山国だと、存じおったが、さる日江尻(清水市)城にて、穴山梅雪斉が殿に率ったるおなご二人といい、この女房と申せ、いづれおとらぬアヤメかカキツバタ、女を娶らば甲州にかぎると見直した心地にござるわ、うわっ、は、は」 と、ちょっぴり毒舌を交えたがこれは本音で、すわの美貌はまさに非のうちどころのない﨟たけた美しさであった。 「さ、さ、そのこうべをあげて、はよううつくしいお顔せてくだされ」 家妻の声はすでに上ずっている。平伏していたすわは始めて家康の顔をまともにみた。 すわがじっと見つめた家康の人品骨柄は、かねて想像していた以上に丸味のある大きな人柄と察し、ふっと肩に張った力が抜けていくのが分かった。 「本日は御巡視中とうかがいたってお目通り願い出ましたのも余の儀にございませぬ。これなるは、亡夫神尾孫兵衛の忘れ形見五兵衛にござりまする。ただいま後家の身を親子ともども古府中在の上野の生家にて厄介者となっておりまするが、亡夫の里にはほど遠からぬ御殿さま御巡視のわりにおすがりし、神尾家のあと目お取立てを--------」 家康はみなまでいわせなかった。 「よいよりいかようにも望みは聞きとどけよう。‐しで 五兵衛とやらは何歳になるかの」 「はい、とって五歳に-------」 「その美しさでよう五年もの永い歳月にわたり、後家の身を保てたものよのう」 家康はそれを聞きたかったのだ。 「はい、縁談も後添え、入婿と余多ござりました。最近では河内領穴山さまよりも召しかかえたきお進めも尋常ではござりませなんだが、一子五兵衛の行先を考えますると、何れをよらば大樹のかげと定めましてよいやら、はからずもこんにちここで--------」 「家康ならばと申すのじゃろう。殊勝のこころがけぞ」 すわは家康が当代一の武将と信じていたので、すこしも言動に追従が感じられない。 「ならば決まった。そちの里方へはただちに使いの者を走らせて、今旧の忠節に対し褒美金二百両をとらせよう。そちら親子はたった今から予のもとへ召抱え伽役申しつくる」 すわは意外な成行きに絶句してことばにならない息だけで、 「ふつつかながら御側にて御奉公を--------」 とすかさず答えてしまった。この際「貞女二夫にまみえず」などという言葉をさしはさむ余地のない電光石火のとりきめをくだされた恰好である。 「ひえっ、また御主君は後家をひろいこんだわい。甲州ではこれで三人目、うっふん」 「えっへん」 と、諸将のあいだからは又ひとしきり空咳払いがおこり、座はいささか白けてしまった。 戦は勝つは、美女三人たてつづけに掌中に収めるはで、家康はこのさきもう一人の美妾を得た頃にはすっかり甲州贔屓に傾いて、寛大な行政を敷くようになる、が、これものち従一位まで昇格したすわはじめ甲州美女の助言によるものであることは次第にこの先はっきりしてくる。 甲州からえらばれた美女たち ここではすわより一足先に家康の側室になった美妾についてかんたんに記しておく。 お竹の局(夫人市川氏)諸説はあるが、穴山氏の臣市川十郎右衛門の女。十郎右衛門は天正十年(一五八二)四月、武田滅亡の際さらし首にあっている(「甲斐国志」)したがって(判物にのこる人物)と異なっている。 おつまの局(夫人秋山氏)信玄息女だとか、とっくに仏になっている前川信恵の妻だとか、 梅雪の末弟信邦の妾など諸説はあるが、水戸光圀が江戸往来のさい現松戸市平賀にあった本土寺の大きな松の下から墓を発見した。これが万千代(後の武田信吉、家康の第五子)の生母で「下山の方」と呼ばれたおつまの局の墓とわかり、光圀は碑文を刻んで建てなおした(『譚海巻三』)。 生まれは甲府市高畑で、父は秋山原四郎虎康ということになっているが、本書は伝説の方から「千賀女」といわれた奥村兵部尉の妻という説に従った。 おむすの方(正栄院殿)、この美女は、武田の臣三井十郎左衛門の女という系譜もあるが、家康が奈良田(現山梨県早川町)の湯治場へいったときお手つきになった、今の韮崎市在百姓市兵衛の女とみて話を前進しよう。なお家光の側室ナンバーワンの「おらくの方」は、甲州徒浪人で江戸の古着屋七沢七左衛門のままっ子と、追々話を広げていく。なお前後したが、「すわの方」は「神尾の局」と呼ばれ、生まれは甲府の飯田久右衛門の女である。 家康に帰順した穴山梅雪 天正十年二月のこと、さる長篠の戦以来とみに衰えた武田氏に見切りをつけていた梅雪は、家康の使者長坂血槍九郎信政によって、江尻城内で二十七日間も粘られた末に家康に帰順した。 (『武徳編集集成』巻二十一)。 しかし梅雪斉が家康にあてた手紙と、身延町下山の南松院でおこなった「梅雪斉十七年遠忌香語」などからみるに次のようだ。 勝頼は親族、譜代重臣の意見をいれず我儘をとおし、武田氏を衰亡に陥れた愚将として、木曾義昌はじめ順次に愛想づかしされたとある。 梅雪斉は家康帰順の証しに、江尻城を明け渡し、それに大判二千枚・(一枚四十三匁)の黄金と人質をさし出した。また河内領には自身の家臣や武田方からの内通者の人質を夥しく囲っておいた点も梅雪の書簡で明確である。 家康が梅雪を味方にひきいれたのには、様々な思惑があった。第一に穴山氏の始祖は武田十六代国主信満の舎弟だ。いらい婚を重ねた穴山氏は武田双肩の筆頭であった。現に母は信虎のおんなであり、じぶんの正室には信玄の女を娶っている。当面穴山氏は武田氏にとってかわる充分の資格があった。それに梅雪斉はべら棒の軍資金を蓄積していたことも家康にはヨダレのでる魅力だった。 穴山氏はいまの静岡市へ編入された梅ヶ島、坪田、大河内の三か村の大砂金山を支配していたのをはじめ、自領内のトジロ、湯の奥、富士に、笊カ岳など膨大な黄金山を一手におさめていた。 梅ヶ島には梅雪斉のもとへ黄金を馬で運んだとき野盗をさけるため使った袖がらみや、槍などから受取の印書が残っている。 家康の甲斐侵攻と穴山梅雪 天正十年二月、武田打倒の軍を起こした織田・徳川両軍は、駿・遠・美濃の武田外城を陥入れ、木曾口からは木曽義昌を先導に松本深志城を衝き、かたや伊那口からは、織田信忠を大将とする徳川精兵が信州へ乱入して甲斐をめざした。勝頼の最後の砦、高遠城も一日足らずで堕ち、信玄の息仁科盛信だけが武田のさいごをかざった。勢いをえた森長可の一隊は北信濃へ、本隊は甲州へと向かった。一方二月十八日、浜松を発った家康は、戦況が有利に展開するにつれて軍を進め、三月一日には、甲州の西南のはずれ万沢宿へ陣を進めた。万端遺漏なき接待を整えて出迎えたのは、穴出梅雪である。 「なるほど、武田氏のご金蔵をあずかっているだけあって、なかなか大した持て成しよのう」 徳川の重臣たちは、足軽にいたるまで、酒肴、茶菓と大番振る舞いにあい、梅雪の財政の豊かさに今更ながら目を丸くした。 梅雪が、下山の館のまわりに、京の名刹社寺から名をとって同名の神社仏閣を建てて、京にならった城下をつくった名残が、いま下山にのこる各社寺である。 梅雪が膨大な黄金を蓄えていたことは、各地に遺された旧武田金山関係の文書や判物が物語っている。 いまも雨畑では、大雨が降ると沢山の砂金が流出してくるデルタがあるくらいだから、当時では赤土を洗えば、米粒大の砂金が、ザックザックと出た。 家康に梅雪が一枚四十三匁もあった黄金を二千枚も贈ったのは、金銀には貪欲だった家康に、ヘソクリを見破られていたからだという。いずれにしても梅雪が、信長に一番に殺されるところを助っているのは、色と欲とで家康を見事に懐柔したことが明らかである。 つまり欲の方では、梅雪献上の黄金もさることながら、梅雪の支配していた武田諸金山が、のち家康の天下統一にとって重要な資金源であったからだ。これは梅雪なきあとの金山がそっくり家康の支配下になり、ついには幕府の直轄領に吸いあげられていった点でも、事前に梅雪と家康の間に駆け引きがあったものである。 そして婚姻の方では、梅雪のとりもった人妻二人である。家康が甲州経営によせた寛大さは、貢納において信玄の定めた「大小切法」を鵜呑みにしたのを始め、武田旧臣の登用などいろいろの温情に現れて来るが、これも甲州からえた四人の美貌の側室による口添えといった影響があったと思われる。 「梅雪殿、このたび逆賊武田勝頼を、打果すには、大いに殊勝の働きをなされてめでたい。積年の恨みを張らした上は、武田氏の名跡こそ、緑も所縁も深い穴山殿の嗣子に譲ること、家康誓紙に誓った通りに取り計らいいすぞ」 三月十一日、田野うえ大蔵沢に追いつめられて自刃した武田勝頼の敗報を受ける以前に家康は、梅雪に対して誓紙に基づいて保証を与えておいた。 「ありがたき御配慮、梅雪胆に命じて御奉公つかまつる。所領の安堵を賜った上は、これまで以上に黄金を掴り出して御上納つかまつる」 家康は、信長や秀吉に先んじて、梅雪をがっちりと押え付けておきたかったのは、のちの金山経営がその野心を覗かせている。 「ときにさきごろ頂戴つかまつった美しい女ふたり、ともに予の側室に召し上げるが、仔細はござるまいの」 梅雪は、家康がことのほか機嫌の良いのは、おつまとお竹を殊の外気に入っているとみて心中ほっとした。 おつまの方は、のち梅雪の舘「下山」をとって「下山の方」とよばれたのは、梅雪の娘として家康は扱っている。 ともかくおつまは家康の男子を生んだ。この万千代はのち武田氏の名跡をついで武田信吉を名乗り、小金三万石から佐倉四万石へ移封されているのは『徳川正史』にあきらかである。 おつまの方は、万千代とともに小金(現茨城県松戸市小金)に受封されたとき、万千代に従ってここに移り、翌慶長十九年六月十八日に、さびしく世を去った。墓は同地の本土寺にあるが、この墓にまつわる奇談があるので書そえる。 おつまの方の墓は水戸黄門が江戸城へ赴くとき、松の下から掘りおこし、調べた結果、家康の妾と分かり碑を建てて碑文を刻んだというのである。法名良雲院殿あるいは長座院殿。筆者はこの文を執筆するのについて、昭和四十六年十一月、初めに、茨城県へ赴いたが、一泊二日の二人づれの取材も、寺の冷遇で何一つ知ることはできなかった。寺は大方そうだ。 お竹の方は一女を生み、その一女は蒲生秀行に嫁し、のち浅野但馬守長是の室におさまっている。(諸説あり) 戦乱の中で 四月十日、信長は甲斐古府中を発って、姥口(中道町)より駿州を経て帰陣することになった。 「聞くところによると、去る日恵林寺さまの焼打によって甲陽の百姓達の間に、たいへん信長さまを御恨み申す声が満ちているとか、これからの道中は充分の警護が必要にございまする」 「おお、そちは生家へ暇を告げにいった折り、恵林寺の焼かれたのを見たと申したな」 「領民すべてが、亡き恵林寺(信玄)さまをお慕いしているのでございまする」 「左大臣(信長)さまは、大の坊主と神職嫌いなのじゃ、異一より神国に仏教をわたらせていらい、世迷いごとを言いふらす密教坊主、一揆を起す一向宗徒、これに神官、山伏どもが戦いに加担致し、人を助け、世直しをするべき神仏の堂塔、大寺大社はことごとくスッパ、賊徒の巣と成り果て、広大な寺領、社頭に寄食して飢饉さえ知らぬ者どもばかりじゃ、恵林寺さまとて、大和淡路だの佐々本義賢だのまたはスッパ、悪行者どもを匿い、甲陽五山の和尚たちと語らって戦の企てがあったから焼かれたのじゃ」 武田勝頼 すわの方 勝頼は、新府城を焼いて古府中の一条信就の屋形へ寄ろうとしたところ、一揆に焼打ちにあい、恵林寺へおもむいて門前払いをくらい、三転して勝沼町等々力の万福寺によってから鶴瀬へ向かったとある『編年記』によると、討死した勝戦の骨さえ拾わなかった快川(恵林寺住持)を、信長も家康も憎悪して焼打に拍車をかけたように判じられる。 「恵林寺はともあれ、甲州の領民の間にはすでに、わが殿はあの山かげで討たれた云々の哀歌が秘かに歌われておりまする。ぜひ勝頼さまの菩提寺を殿さまの御計らいで建立くだされまし」 「いかにも又その節をさがすとしよう」 すわの提案はそのまま家康の宣撫工作の所信にも通じていたので、家康は益々すわの才智を頼るようになった。 すわにとって生国甲斐に一日もはやく平和が訪れることは望むところであったし、勝頼の哀れな最期には、つねに涙をしぼっていたからでもある。 このすわの願いは以外に早くおとずれた。天正十年六月、信長が本能寺において、明智の反逆をくらったからである。 穴山梅雪 むなしい最後 「信長死す」の報は疾風のような勢いで全国に伝わり、各地に一揆が起こった。 甲州でも武田浪人のひきいる大百姓一揆が古府中の信長陣代をおそって騒然とした雲行きになった。これが河尻塚である。 このとき泉州堺にあった家康と梅雪斉はすでに五月七日、おもだった家臣をつれて浜松を発ってから転々大阪付近を遊びほうけて居た最中である。武田を亡ぼした労を報いる信長の接待であった。 家康はこの物騒な一揆のなかを、梅雪とともに木津川にかかる宇治橋まで逃れてきて梅雪と袖をわかった。 家康を信頼できない梅雪は、宇治田原町まで逃れて来て、あえなく名もない土豪の手にかかって討たれ、たったひとりのがれて来た内藤右近によってその悲報が下山の舘へもたらされた。 梅雪死す、甲州はもはや主なき国と化した。 空屋となった甲州へは、北条氏直が都留郡をかすめて、御坂山に石の塁壁を造って精兵を籠め置いた。これに内通したのが首将の大村氏である。 秩父、鉢型城の北条氏邦と兵を合して穴山氏の勢力を叩くつもりであった。大村氏は天正年中に、甲斐へ移った野州小山氏の支族である。この大村三右衛門忠政、弟伊賀守忠行の一族は、大野(山梨市)の砦をつくろって武田浪人を叫合していた。 天正十年七判十八日付北条氏直の将黒沢繁信の出した、「甲州金山衆に味方へくわわるよう」の判物が物語っている。六山の臣樋口久右衛門はこれを知ると早馬をもって浜松へ注進した。 「それっ、大村を先に討ちとれ」 有泉大学と、穂坂常陸助はただちに大野の砦を叩き潰して大村一族を全滅した。近づく者に祟りのあるという大野の「三十三塚」はその時殺された大村方の塚だ。大村伊賀守の弟忠昌、与市二人は氏邦を頼って今の秩父大滝村へ潜んだ。これがのち十俵二人扶持を受けて幕末に至った栃本関(重文)である。 家康 家康は、甲・信二国の乱を治めるためまず大須賀康高を市川大門に先行させて、武田旧臣を募って祿をあたえ、民衆を慰撫した。 北条氏直 この頃氏直は信州川中島四郡をおさえ、芦田城の依田信蕃を降した。一方諏訪の高遠城には信長の城代弓削重蔵を追放した諏訪の大祝頼忠が七月二十四目日、旧領を復活して氏直に帰順した。 家康軍の七将大久保忠世、本田広孝、石川康通などは、三千の兵をもって高島城を囲んで、救援に駆けつけた四万五千という北条軍と対決した。 甲州の田中へは北条氏尭、氏規の一万がせまっていた。勝目のなさそうな大軍の挟み撃ちにあった徳川精兵を救う為に、家康はいよいよ出陣をせまられていた。 穴山氏の終焉 武田信吉 天正十八年、家康は秀吉に従って、小田原城を落として江戸城へ移った。すわも当然家康につきしたがっていった。 この問、お竹の方が一女を生み、おつまの方は万千代を生んだ、梅雪斉の遺児は元服して信治と名のったが、十六歳で疱瘡を病んで早世した。 「そちに重要の相談をいたしたい」 信治死す、の報におどろいた家康は早々に下山の方のもとをたずねて、穴山氏の窮状をのべた。 「穴出梅雪殿には子が二人しかござらん。予の妹いちばのもとで養育していた梅雪の女と、おつまの生んだ万千代とを娶せて、武田氏の名蹟を絶つる腹づもりも、死なれてしまっては始まらぬ。又くわえて今回嫡男信治の死と、いずれの名跡を立つにも名目がたたぬ」 「梅雪さまのお望みはもともと武田の名跡の方を立つることでしょう。ならば万千代君に武田の名跡を立つるようわたくしも望ましく存じ上げます」 「穴山氏の名せきを絶ったなら家臣一同いかがな気持かな、ただいまは穴山一統の重臣達は連日名跡を立つ者が なくて万千代を賜れとうるさいことじゃ」 「では申上げまするが、穴山氏の重役家士一同は、万千代君にお仕え遊ばせるようお取計いなされば納得が参りましょうぞ」 「うん、それは妙案じゃ、否応はいわせまい」 家康が去ると、下山の方は、八年前、こみ上げるくやしさをこらえて浜松城につれ去られた日の屈辱を思い出して堪え通して来たことをよかったと、胸をなでおろした。あの小面憎い有泉大学肋、穂坂常陸助、万沢主税助などの重役をものの見事に、幼君の生母である自分の前に両手をついてひれ伏させられるのだ。 万千代は元服して「武田信言」と名のることで穴山氏の旧臣は悉く真吉に従うことに決定し、やがてその日 がくると、信吉は母とともに小金三万石に封ぜられた。慶長七年(一六〇二)には佐倉の四万石から、まだ十五万石だった水戸へ移封された。しかるに真吉は、どういう神の呪いか、翌八年二十一歳の若さで病死してしまった。 後の水戸二十五万石は末弟頼房に与えられ、徳川家康は僅か一代にして又その名蹟を絶った武田信吉の名だけを留めたにすぎない。これが日本正史の上でいう武田氏の末路である。 土屋惣蔵昌忠の遺児 「この頃甲州へ近くなったせいか、生国の噂がしきりに気にかかってなりませぬ」 すわは、普請で活気の漲る江戸城の一室で家康の訪れを待ってきり出しだのは、土屋惣蔵昌忠の遺児の件である。 「予の耳にいれたき儀かな」 「はい、御殿さまには一頃敵方であったとは申せ、いまだ世間の噂に耐えませぬ、田野の合戦に於いて繰り返し忠義一徹の死をとげましたる土屋昌蔵の女房子供の消息にございまする」 「おお、土屋と申さば、いまも軍談にのこる敵ながらあっぱれの忠義者」 「その女房は、昌忠どのが嫡男を袖の下に隠し、女の身一つで落ち延び、相模の里、岡部但馬と申す父のもとへのがれ、松平周防守さまの軽輩にて岡田竹右衛門のもとへ再婚して健在だということでございます」 理庚尼手記がまぎれもなく偽作であることはこの点で異論はない(第三集ご参照) 「土屋ほどのあっぱれな者の女房どもを、そのような軽輩の許で朽ちさせるのは酷いことよのう----」 「何とぞ、殿のご慈悲をもって、その女房子供を取立ててやりとうございまする」 「よいよい、いかようにもそちの心のすむようにいたせ----」 家康はもうこの頃、天下掌あくは眼前であったのでさらに心も大きくなっていた。 すわの同情で、惣蔵親子のもとへはさっそく使者がとんだ。結局、惣蔵の一子はすわのもとで養育され、やがて家康の御小姓をつとめたのち、元服して土屋民部少輔忠直と名のった。 家康の覚えもめでたく忠直は元服してのちは総州久留里二万石から、現藤枝市田中二万五千石と加増され、のち、土浦六万石の大名となって明治新政府ではその子孫に子爵が与えられている。 すわはこれで又一つ生国の為を計っているが、わが亡夫のことも忘れず、一子五兵衛には神尾の名跡を嗣がせ た。これがのちの従五位神尾刑部守世である。すわはさらに惣蔵の後家を娶った岡田竹右衛門の男子を養育し、神尾備前守元勝として幕政に参与させている。 すわは家康のためにかなり大きな役割を果しているのが、大阪の陣冬の合戦における和議である。 慶長十八年(一六一三)十二月十八日、本多正純、京極高知などの重臣に列して大阪へ赴いたすわは、北政所と会見して女同志が先に和議を計り、二十二日には板倉重昌などと大阪城内に入って豊臣秀吉から誓紙を受けとるという大任を果している。 断わった従三位 家康は元和二年(一六一六)四月、駿府においてその波乱と栄光の生涯終えた。 すわはすでにこの頃出家して霊光院殿と称していた。『武江年表』によると、慶長十六年(一六一一)の項に 「竜徳山雲光院、阿茶局建立馬喰町続きなり」とある。すわは阿系局、神尾の局とさまざまによばれた。 すわ、六三才になった元和七年(一六二一)六月、二代将車秀志の第五女和子が後水星天皇の女御として人台するに当って、その母代を務める事になった。徳川家の権力を強化するために策した皇室との婚姻政策であるが、この策謀もすわが、かねて生前の家康の考えていたことを引継いで実現にこぎつけたものである。 「雲光院殿、このたび和子の母代として仙洞(宮中)に赴かれるに当って、従三位を給わる由の御内聞です」 秀志と拝謁したすわはこれを喜んで受けるかと思いきやしごく落着いた物腰で、 「恐れ乍ら従三位の官位は御遠慮させて頂きまする」とあっさり辞退した。 「では、霊光院殿には、従三位では過分だとおおせられるか」 「ほっ、ほ、ほ、恐れながらわらわが従三位を御辞退いたしましたるわけ、もう一度御重臣方とお計り願わしう存じ上げます」 「さようか、ならばもう一両日考え直してみようぞ」 間もなくすわのもとへは、従一位に叙するという沙汰がきた。 「ほっ、ほ、ようやく裏がよめたようじやな、三位が一位であろうと、今の秀忠公ならわけもないこと、権現様の陶遺志を立て申したわらわが、なんではしたな三位なぞ受けられるものよ」 側室としては破格の官位も家康のためを計らった永い年月の奉公を思えば、すわにとってはまだ不足であった。 寛永十八年(一六四一)、すわは家康の死に二十五年、秀志の死におくれること十年、二代にわたる将軍を見送ってから八十三才の生涯を閉じた。 「上様、雲光院殿にご臨終が追っておられる由にございまする。この際なにかお言葉を下しおかれますよう」 大老酒井讃岐守忠勝からすわの死が追っていると知らされた家光は、 「なんと、一位の局殿がご危篤とな」 家光はしばらく絶句していたが、 「側室の身ながら天晴れ智将のごとき働らきをなしたる女性よのう」 としばし述懐してから早速忠勝を雲光院へさし向けた。 忠勝がすわの枕頭に赴いたときには、すでにすわは尼僧の粧のまま枕を西に目を閉じていた。 「雲光院殿、忠勝にござる。只今上様より直々のお言葉をお伝え申す。なんなりと望みあらば承って参れとの御申付けにございまする」 すわは胸の批で指を組んだ合掌のかたちで目を閉じたまゝ、静かにゆっくりと答えた。 「名もなき軽輩の後家であったわらわは、ついに一位の位まで終わった。これからは亡き権現さまの御もとへ参り、徳川様の御安泰をお伝え申すのがお役目、もう何一つ望むことはございませぬ」 女一代を精一杯に生きぬいた満足感が、死出への悟りを開いていた風に見えた。 「それでは大老の御役目が果せませぬ」 忠勝はすわの目を閉じたままの耳元で催促するように言った。 「さようか、ならばわらわの亡きあと、この霊光院の行末立つように、いささかの寺領を御加増給わりたい」 「いささかと申すなら七十五石ではいかがでござろう」 「ほ、ほ、七十五石では半端でいけませぬ」 「はっ、は、は、いかにも一位の局らしゅうござる。たしかにこの忠勝、上様名代として百石をご沙汰いたそう。 とりあえず将軍家より白銀千両を御寄進いたすべくここに持参仕った」 忠勝は、はからずも三位を遠慮して一位なら受けたすわのひとつ話を思い出すと、わけのわからぬ涙が一筋ほほを伝わった。 「わらわに息のあるうち香臭を先に下さるとは、上様も御憎いお志よ。死出の旅路には何も要り申さぬが、将軍家三代にわたる御寵愛しかと御礼申上げ奉ると御申伝えを--------」 すわが天寿を全うして目を閉じた同じ年、四代将軍となるべき家綱が誕生した。この生母こそほかならぬ甲州美女「おらくの方」夫人増山氏である。諸家譜では甲州浪人七沢七左衛門という江戸鎌倉河岸に住む古着屋の継娘である。この「氏なくして玉の輿」に乗って家光の側室に上ったおらくの方については五集へ…… なお家康の妾で四人目のおむすの方については、憐をとどめている。家康の九州出陣に伴われて行ったおむすの方は、難産のため陣中で死に、かの地に葬られたということだけしかわかってはいない。
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最終更新日
2021年06月04日 11時19分25秒
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