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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月04日
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カテゴリ:曽良資料室

詩人曾良 師弟情誼の最美について

 

西澤茂二郎氏著

 

  一部加筆 山梨山口素堂資料室

 

  

 曾良の研究には古くは岩波其残の曾良翁出来、近くは岩本木外氏の河合曾良等の著述がある由であるが、私は未だ何れをも見ない。

私は私の散見した僅少な資料によって詩人らしい曾良の特異點を綴って見やうと企てた。

 曾良の由来に就いては、其甥に河西周徳があって「ゆきまるげ」を編み、後に松村李郭や小平志水があって、乞良嚢を編んでよく此の詩人の偉業を傅へた。これ等の書物は細微に記されてゐない感はあるが、動かし得ないしっかした力を持った本のやうに思はれる。賓際其の経歴等も乞食嚢所掲のものが根幹をなして居り、それ以外大した研究が進められてゐないやうである。

 左に引用したものは乞食嚢に載ってゐる小文である。

  

 乞食嚢は曾良五十回忌追福のために出来た俳書だ。上諏訪町河西氏蔵原本には更に書物の題簽がない由に、諏訪史料叢書には曾良追福五十回忌集としてある。照合はして見ないが大體一致してゐる。

 曾良何がしに信州諏訪の産、俗名は岩波庄右誉門正字、後河合惣五郎と呼び、弱冠より勢州長島の古城主に宮仕せり。壮年の頃故ありて牢浪の身となり、それより二君に仕へざるの操を守り、身を雲水に寓せ東都に住んで吉川惟足の門に入り、敷島のあとを尋ねて浅香山の浅からぬより山の井の深きに遊び、其の余情の到る處猶深川の翁(芭蕉)に断金の交りあつく、或ときは采薪の勢を助け或ときはこゝろの奥の細道に平包を負ひ、また雪の夜は扉を敲きて晋なへぼ「きみ火たけよき物見せん雪げ」と答へられしも此時とかや。かくあふさきるさに間とはれたる値偶としあり.なを旅に倦ことなき質なれば、賓暦の比薩摩がた筑紫のはてまで行脚せられしに、無常迅延の習ひのがれがたく、壱岐の勝本とかやに仇なる世の夢を見果られしとや。されば其年の春古郷の氏族の許へ送られし文に、春に我の句 ありその後は絶ておとづれもなければ、古郷の姪周徳此句をもて辞世とさだめ正願寺中に碑を建てぬ。年ながれ月往て今年五十回の遠忌を訪ふとで、随時庵李郭親疎遠近の句を集めなを此道の栄えん事を祈り、追福の情け述べるにつけて随縁の端にもと一 句を呈する事とは成りぬ。

  夏草や五十展轉の手向花 柳下庖 志水

 

 二

 その経歴のあらましは大体こんなであるが、出自に就いて少しく

書添へをして見る。

 曾良は慶安二年上諏訪高野七兵衛の長男として産れた。幼名は興左衛門といひ、家は弟が嗣ぎ自らは故あって岩波氏をついで庄右衛門正字と称した。後河合惣五郎と改めたについては諸説があるが、伊勢長島の河合氏に養子し、かく改名して長島藩に仕へた。(高木氏説)俳号曾良のはじめて見えてをるのは芭蕉の『鹿島紀行』であらう。

石川積翠園の句選年考(享和三年)によれば「ソラウ」と呼ぶべしとあるが、鹿島紀行芭蕉真蹟の板下には「ソラ」とある由で、其の何れの讀みも用心たかも畑れぬ。奥の細道に「惣五郎」といへり惣五を改めで宗悟とすの記事も思い合せられて、通稍の「ソウゴラウ」より雅化し来るかも思はれる。

 次に壮年の頃浪人して江戸に出たと云ふのが通説であるが、『句選年考』には「小日向築土下武家に奉公す」とあり、同所は京橋区にあって昔武家屋敷もあった處で、即ち江戸に在っても奉公し後、浪人したものと思はれる。

 

  三

 

 曾良の作品には和歌の往々あるのが目につく。和歌の場合は落款も多く「正字」の名を用ゐている。これらの多くは芭蕉に弟子入り前の物のやうで、吉川惟足の影響がよつて来ると思ふが、其の晩年のものにも若干の和歌を発見する。併し和歌は曾良には大して重要な部門ではない。詩人曾良の貫目はまづ芭蕉との関係に始まる。芭蕉の関係は貞享四年の鹿島紀行の頃より始まるものと見る。

 かく云ふ所以は、貞享元年に成った所謂芭蕉七部集「冬の日」にも見え三年に成った「春の日」にも曾良の名は見えない。(それ以前の物に無いのは勿諭である)初めて其の名の現はれてゐるものが「鹿島紀行」である。

 鹿島吟行は深川芭蕉庵近く住んでゐた曽良、僧宗波らが、芭蕉に同伴して貞享四年八月十六・七日の頃、山家の月を賞しやうと鹿島に遊び佛頂和尚を訪れたのである。

 時に芭蕉四十四歳、曾良は三十九歳であった。

(芭蕉の歿年には五十二歳説、五十三歳説等あるが、通説と見えられる 五十一歳睨に依った曾良の年齢には更に異説がない)

 

 鹿島紀行の一部分を書出して見る。

 

  此秋かしまの山の月見んと思ひ立ことあり、

  伴ふ人ふたり浪客の士ひとり。一人は水雲の曾

  …門より舟に乖て行徳と云處に到る。

  

   雨にねて竹おき拓へる月見かな  曾良

   膝折やかしこまりなく嵐の聲   同

   もゝひきや一花すりの萩ころも  同

   花の秋草にくひあく野馬かな   同

   月見んと汐ひきのぼる舟とめて  同

 

曾良の作を後の奥の細道頃の物と比較すれば、かなり生硬な未熟

練な句ぶりであることが目につく。

 

  四

 

 次に鹿島紀行の前後して曾良の顕はれてゐるものは「雪丸げ」の

芭蕉の俳句で、之れは「続深川集」には「示友人」といふ前書が附されてゐるのみであるが、周徳編「ゆきまるげ」(寛政三年)には、かなりくわしい。次のやうな詞書があって、同書深川八貧の数句と共に其の頃の彼等の生活ぶりも偲ばれて愉快である。

 

 會良何某は此あたりちかくかりに居をしめ、

 朝な夕なにとひつとはる、

 我くひ物いとなむ時に柴折くぶるたすけとなり、

 茶を煮る夜はきたりて軒をたゝく、

 性隠閑をこのむ人には、

 交命をたつあるよ雪をとはれて。

  きみ火をたけよき物見せん雲まるげ

 

芭蕉の此の句は、勝峯氏の『芭蕉俳句定本』によれば貞享三年作とあ

り、樋口氏の芭蕉研究によれば、

 「鹿島吟行」後の初冬か、或は前年かのどちらかであらうと云ってゐるが、紀行に「ひとりは浪客の士云々」と行々しい書きぶりや、年を逐って両者の親密の深まった様が如実に表はれてゐる。芭蕉の種々の文章から判断しで樋口氏説……此の紀行後の初冬の作に見るのが自然かと思ふ。

 

 五

 

 師弟の情誼のうるはしさは芭蕉の文学に見えてゐる著しい特長だと

思ふが、同じ蕉門であって一師弟の間に親疎の差が勿論あった。而もそれは高弟必ずしも親密といふ譚には行かなかった。「高弟其角、嵐雪なでも俳情の外は翁を外し逃げなご致し候由殊の外気詰り面白からぬ故也」(老の楽)など事實であったらう。芭蕉が格別に親愛したといはれる門弟に去来があり、杉風、嵐蘭、曲翠等あるが、その師弟両者の間に心置きなく隔意もなく、其の情誼の最美を示してゐるものは曾良との関係であらう。

 

 曾良が芭蕉に親愛された因縁は何処にあったか。勿論これは両者

の趣味や境涯の似通ってゐたことにもよると思ふが。主として考へ

させられるものは曾良の人となりである。

 

曾良の人柄に就いては樋口氏はその芭蕉研究に、

 

 孔子が子路のやうな剛毅木訥の人を特に愛したに似て、

 芭蕉も頑固一轍な寧ろ愚直な片意地物、

 偏執物などに特に興味を持つたやうである。

 曾良は此の型の人であつたらしい。

 

と云はれてゐるが、曾良の性格にそれらしい點のないことはない

が、何となく慊(あきた)らぬ感じがする。

 

私は曾良には、もっご崇高な性格の一面があって、芭蕉の意中の人

となったと信ずるもので、次に両者の情誼と曾良の人となりに就い

て記して見たいと思ふ。

 

  六

私は曾良の人となりは、誠実なたちで極めて同情深く

「仁者は己れ逞せんと欲して先づ人を達せしむ」

と云った風の利他的の君子人であったやうに思ふ。芭蕉が曽良を愛したのも主としてかゝる崇高な性格が基調をなしてはゐまいか。

 曾良の書いた「道の記」は何時頃のものかは知らないが、全文より見た感じは深川入門以前の物らしい。

 

曾良の知人某の小娘が睦奥の國岩城といふ所に赴いた際に、頓な病に冒されて途中土浦で替師にかゝって居た。其の看病のため土浦行を知人から依頼された時の紀行文であるが、

 

…予に行ていたつきの助けにもとさりげなく頼まれけるまゝに、

 いなびがたくやすくことうけして、

 神無月中の三日ひつじの刻ばかりに江戸をまかでぬ」

 

といふ程の親切者であつたのだ。

途中駕寵に乗りながらも、わが居眠りして重くしたことを悔ひて

「乾きやうに身を持てこそ陰徳も有べけれざ思へば身の置所なし」

など言つても居り、駕■の身の上話を聞いて、

「清貧者常楽濁富者常憂といへるは唯何事も心の賢愚によるべし」

など記してるみを思ひ合せて、どうも頑固一徹よりも、やさしみある君子の面影がほの見える。

 






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最終更新日  2021年06月04日 16時22分55秒
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