山梨の歴史を読み直す 甲斐の御牧 かいのみまき 検証『甲州風土記』 一部加筆 山口素堂資料室 山梨県の歴史で最も見直しが求められているのは、「御牧(勅旨牧)」の比定地のことである。 単に放牧地として山梨県の峡北地方に三牧が比定されて現在に至っている。各書に著実されて既に定説化している。それはただ放牧最適地として僻地が充当されている。 しかしそれは間違いであることが指摘できる。 検証 『甲州風土記』甲斐の御牧 (甲斐の黒駒) 牧は馬城のことだという。マキあるいはムマキとも訓ぜられ、モクとも読まれる。要するに牛馬放飼の場所である。その意味で馬城或は牧は、馬を柵内に入れて飼ったところからその名が生まれてきた。 甲斐は王朝時代から大変な名馬の産地として全国にその名を知られてきた。甲斐の黒駒は一潟(いっしゃ)千里の名馬であった。 甲斐の黒駒井ノ上そだち、羽はなけれど日に千里 御坂町方面の民謡の中に、王朝時代の夢が今にそのまま歌の中に生き続けているのである。 黒駒のことがはじめて文献に登場するのは、日本書紀、雄略天皇十三年九月(四六九)の記録である。 木工猪名部真根という者が罪に問われて、まさに死刑に処せられようとした時、赦免の勅使が、疾風の ような甲斐の黒駒に鞍をもつけずにムチ打って刑場に駆けつけ、危うく刑の執行をまぬがれたというのである。この時の感激を見ていた者が歌につくった。 甲斐の黒駒鞍きせば命しなまし甲斐の黒駒 というのである。伝説時代の物語はおしなべてこのように楽しく詠嘆的なものであるが、この黒駒の名馬は、さらに聖徳太子伝に結びついている。 すなわち「扶桑略記」に、三十三代推古天皇の御代の時、太子は臣下に命じて善き馬を求めた。すると甲斐国より、鳥駒(からすごま)といって体が黒く、四本の脚だけが白い馬が貢献されてきた。太子はこの馬をよろこび、舎人に命じて調教を加えさせ、秋九月に入って、太子は試みにこの鳥駒に乗ってみたところ、たちまち雲に浮んで東方に走った。三日の後に帰ってきた太子は、臣下に向って、 『われはこの馬に乗って雲を踏み霧をはらって、直に富士山の上に至ったが、転じて信濃にも行った。飛ぶこと雷震のようで、まことに神馬である。』 といったという。 この物語は太子伝にも詳しいのであるが、要するに太子乗用の愛馬は、甲斐の黒駒であったということが書かれているのである。これを側面からうがてば、甲斐の黒駒はあまり立派すぎて庶民のものではなく、自動車でいえばロールス・ロイス級のものだったということになる。 この太子の勇ましいが伝説にあやかって、勝沼町の万福寺には、この時の神馬の遺したという堂々たる馬蹄石駒飼石、勝沼町の旧綿塚の駒塚明神などもあやかり組である。 そして前節にも書いたが、太子伝をふるに活用したのは宗教家であって、勝沼の三光寺(三岳寺)、仙光寺、真光寺など、国分寺以前の仏教の波及を誇りがましく伝えている。 太子伝暦の黒駒のあと、またまた天平三年(七三一)に、甲斐国にすばらしい馬が生まれた。 『続日本紀』、聖武天皇天平三年十二月丙子の項に 「甲斐国より神馬を献ず、黒身にして白き尼尾あり」 と見える。つまりこの馬もまた鳥駒であって、今度は脚ではなくて、たてがみが白かったというのである。この時の甲斐の国司(地方長官)は従五位下田邉史廣足であった。注目すべきは彼が天平三年に甲斐に赴任してくるまでの初代以下の国司はまったく不明であって、実に大化改新以来八十余年の歳月が流れているのである。 また天平十三年二月十四日、聖武天皇は諸国に国分寺造営の詔を下しているのであるから、田邉廣足は天平十三年までその任についているところを見ると、恐らく彼が甲斐の国分寺創建の最初の縄入れとい う大事業をやった長官であると思われる。 いずれにしても赳任早々太子の黒駒にあやかるような黒身白尼尾の神馬を見つけ出して貢献したのであるから、聖武帝の覚えはそれこそ大変なものであった。さっそく十二月廿一目に詔書が下された。 詔して曰く、朕、九州に君として臨み、萬姓を養ひ、 日たくるまで膳を忘れ、夜寝て席を失せり。 ここに治部卿従四位上門部王等の奏を得るに、称く。 甲斐国守外従五位下進る所の神馬は、 黒身にして曰く、白き髭尾あり。 謹んで符瑞記を検(かんが)うるに曰く、 陣馬は川の姓也。 則ち神馬を出すと、実に大瑞にかなへる者なり これ宗廟のいたす所、社稜の貺(たま)う所、 朕、不徳を以て何ぞ独り受くるに湛えんや。 天下と共に悦ばは、理、恒典(こうてん)に允らん。 宜(よろしく)天下に大赦し、 孔子順孫、高年、鰥寡(かんくわ)、惸獨(すいどく) の自ら存する能はざる者を賑給すべしと。 その馬を獲たる人に位三階を進め、 甲斐国今年の庸、及び馬を出する郡の庸調を免ず。 その国司史生以上、ならびに瑞を獲たる人に、 物を賜うこと差あり。 というのである。意訳してみると、 黒身に白き髭尾の馬は符瑞図で調べたところ、 とにかく、大瑞にかなった神馬であることがわかった。 これは祖霊をはじめ地の神、穀物の神が賜うたもので、 なんで自分ひとりがこの幸福を独りじめすることができよう。 これは天下下々の者と一緒にこの悦びを分つべきである。 よろしく孝子や年老いてよるべのないもの、 独り者で食べることの出来ないような者を救ってやろう。 さらに、このめでたい馬を獲えた者には位三階を進め、 甲斐国の天平三年の庸(税の一部)は免除し、 また馬を出した郡の庸調全部を免除してやろう。 また国司史生以上、ならびに瑞を獲た者に 褒美をあたえてやろうというのである。 とにかく大変な大赦、恩赦であった。 詔書は十二月の末に出たから実際の恩典は天平四年ということになろうが、庸、調全部を免除されたなどということは甲斐国としてはおそらく律令制はじまって以来の出来ごとではなかったろうか。 聖武帝も心憎いことをやったものである。しかしそれにしても庸調全部の免除を許された黒駒を発見した郡とは一体どの郡であったか。 黒駒の牧は現在東八代郡御坂町に上、下黒駒の部落がある。ここが名馬黒駒の産地であると伝説では伝えている。関係遺跡としては同町の大野寺に大野山福光園寺があり、由緒書には 「往昔は駒岳山大野寺と号す、山内に駒岳、駒ガ井、駒篠という所あり、古、黒駒牧の旧地なり」 と出ており、また同町上黒駒の字神座山の檜峯神社の社記にも 「その馬を獲し郡は、すなはち黒駒の牧にして、その瑞兆によりて地名となす」 とあり、庸調の免除をうけたのは山梨郡だというのである。これが事実とすれば、同郡下ではこの年、庸調が免除されるという話でもちきりだったに違いない。 ただし黒駒の牧が実際に御牧であったかどうかは文献の上でははっきりとしたことが判らない。 せっかく江戸時代の終りころに「甲斐の黒駒井の上そだち、用はなけれど目に千里」と俗謡に歌われたけれども、どうもしっかりした文献に登場しないのである。 黒駒の枚が神馬でわいたころの位置は、地名伝承では、上、下黒駒から大野寺付近までの高台がもっとも素直であるが、ただ当時の官道であるが、ここを走っているのを見ると、やゝ不自然さも目立つのである。 御牧というのが設定されたのは、続日本紀文武天皇四年三月十七日の項に 「諸国をして牧地を定め牛馬を放たしむ」 とあり、また七年後の慶雲四年には検馬用の鉄の印が二十三カ国に下賜された。 甲斐国の貢馬のことが催実な文献に登場するのは、正倉院文書の駿河税正帳、天平九年(七三七)の項に 「山梨郡散事、小長谷部練麻呂、甲斐国より御馬を進上す、云々」 とあるのが初見であり、超一流の神馬ではないまでも貢馬が行なわれていたことが知られるのである。 ・ また『紀略』という書には、 「淳和天長六年十月丁末朔、武徳殿に御し、甲斐国の御馬を御覧になる」 とあり、 天皇が親しく武徳殿に御してはるばると駒牽されてきた甲斐国の御馬を御覧になっているのである。 天皇が自らこのように馬に関心を示すのは、馬の既重性が国家統てが進む古墳時代以降、交通と軍事の必然的な需要をうながして宝とされていたからであり、その結果は次第に発展して官設の牧が生まれるもとにもなった。 そしてその管理面や職制がはっきり規定されたのは、いわゆる令の「厩牧令」であり、その特徴は牧長による管理であった。 延喜式をみると、牧には御牧(勅旨牧)と、諸国枚と近都牧の三種類があったことが知られるが、甲斐国には御牧のみであった。 このうち御牧は左右馬寮の直轄のもとに、甲斐国三、武蔵四、信 濃十六、上野九の四力国三十二ヵ所に置かれていたのであり、すべて東国に限られていた。 かしわざき まきの ほさか しかもその筆頭に甲斐国があり、柏前(かしわざき)牧、真衣野(まいの)牧、穂坂(ほさか)牧の三 牧があげられているが、しかし注目すべきは黒駒の牧の名はこの場合消え去っている。 なぜ消え去ったか。 理由はいろいろあると思う。柏前牧を一応黒駒だとする人があるけれども、これは北巨摩郡下の八ケ岳山麓にある柏前であるのが正しく問題ではない。これらをみると、黒駒の牧は一応神馬によって名を馳せたけれども、案外早い時期に新興の牧におされて消え去ったのではないかと思う。それは山梨・八代の文化の中心地帯だけに開拓も早く進み、集落もふえて『三代格』という書物の淳和天長四年十月十五目の項に、甲斐国に置いて御牧を管理せしめたという記録があるが、この前後に馬数などもふえ八ケ岳の広大な土地などは属目(しょくもく)されたのではないか。 『三代格』を意訳してみると、 この頃馬の蕃殖が漸く多くなったから、信濃の国と同じように牧監を置いてもらいたいと願い出たところ、願いがかなって牧監が置かれるようになったのである。それというのも馬の数は昔からみると幾倍かにふえて、牡牝合わせて干余頭にもなったが、当監(牧土の長)では検馬の仕事がうまくないから、信濃国に准ずるよう取り図ってほしいと、謹んで官の決裁を願ったところ許可がおりたのである。 牧土長とは職名であって、当監、牧監、牧長、別当などの幾つかの職名があり、延喜式の民部上を見ると「凡甲斐国牧監給=職田六田」とあり、牧監職の給与は当時職田として六町が与えられていたことがわかる。 また『延喜式』を要約してみると、 御牧は令の頃には牧長の管治であったが、式によると甲斐国と信濃、上野国にはとくに牧監が置かれて管治されるようになったのであり、武蔵国の御牧だけは、国司の管理にゆだねられて別当職が置かれたのである。 また御牧は勅旨牧として御料牧場的性格を有していたから、毎年九月十日には、国司が牧監とともに牧に出張して、下賜された験馬用の鉄の印をもって検馬し、そのなかから優秀な駒を選別して一年間調教し、貢納する方式であった。 駒は原則として四才以上の良馬でなければならず、翌年の八月に京へ牽き貢納した。 このことを駒牽と呼んでいる。 駒牽はその時の事情によって一、二カ月の多少のズレはあるが、大体式の制定にそって八月から九月頃行なわれたもので、式によると毎年九月十目が検馬の日であり、その翌年の八月が駒牽の月であった。駒牽の日は一応穂坂の牧は八月十七日、柏前と真衣野の牧は八月七日に定められていた。しかしこの規則は厳重に守られていたのではなかった。 また駒牽の数は毎年穂坂牧三十疋、柏前と真衣野合わせて三十疋、計六十疋、が貢献対象であったが、しかしこの数も資料を追ってみると必ずしも一定ではなかった。 御牧の所在地は、 穂坂は茅ケ岳山麓に展開する丘陵地帯、 柏前は高根村(旧樫山村地帯)、 真衣野は武川村周辺であり、 駒牽はこれらの牧場から官道である御坂路に出て駿河を経由したものであることが、天平九年の駿河正税帳の付立てでも明らかである。 八月の駒牽といってもちょうど季節は秋であり、若駒の群がすすきの野をかつかつと牽かれていくさまは、宮廷歌人達の歌題として恰好なものであり、そのために御牧は歌名所にまでなった。 次の歌はそれらの様子を伝えているのである。 ほさか 堀川百首 相坂の関路にけふや秋の田の 保坂の駒をむつむつとひく 穂坂小野 年中行事歌合 時来ぬと民もにきはふ秋の田の 穂坂の駒をけふそ引ける ほさかのをの 夫木集 関の戸におなしあしけのみゆる哉 ほさかの駒をひくにや有らん 薄 夫木集 打なひき秋はきにけりはなすゝき ほさかの駒をいまやひくらん
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最終更新日
2021年06月04日 16時56分19秒
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