カテゴリ:山口素堂資料室
隠士素堂の「隠」の意識 復本一郎氏著
一部加筆 山梨県歴史文学館 白州町ふるさと文庫
隠士素堂の「隠」の意識
はじめに
芭蕉と同時代の俳人に山口素堂なる人物がいる。
目には青葉山郭公はつ鰹
の句は、今でも愛誦されているし、
われをつれて我影帰る月夜かな
ずっしりと南瓜落て暮淋し〉
蔕(へた)おちの柿のおときく深山哉
谷川に翡翠と落る椿かな
等の、今日においてもなお斬新な佳句を残している。
寛永十九年(一六四二)に生まれ、享保元年(一七一六)、葛飾で没している。 享年七十五。
芭蕉とはごく親しい交友関係がありながら、今日、人々の素堂への関心はなぜかきわめて薄い(I)。 が、江戸時代における隠者文学の実体を検証するに当っては、素堂を除いて考えることは許されないであろう。なぜならば、素堂自ら 「江上隠士素堂」(『続虚業』)、 「かつしかの隠士素堂」(『とくくの句合』自序) 等、しばしば「隠士」を名乗っているからである。素堂にとって、あるいは素堂周辺の人々にとって「隠」とは何だったのであろうか。これはやはり看過し得ない問題であろう。そこで、小稿では、隠士素堂における「隠」の意識を、芭蕉との交流を中心に探ってみることにする。
一 素堂評判
素堂自らは、隠士素堂と名乗っているが、素堂と交流のあった人々は、素堂をどのような人物と捉えていたのであろうか。まずは、そのあたりから見ていきたい。
享保元年(一七一六)八月十五日に没した素堂の一周忌追善果が、素堂の弟友哲の家僕の息子雁山(黒露)によって編まれている(2)。書名を『通天橋』(享保二年刊)という。中に昌貢なる俳人の追悼の文章が収められている。左のごとくである (濁点・句読点・ふりがな等筆者、以下同じ)。
素堂翁は、世にありて世をはなれ、 富貴は水中の泡と、貧泉をくるしまず。 前の大河、後の小流を常に吟行し、 武江の東、葛前に住居し、一窓に安閑をたのしみ、 花の日は立出てとかなで、 雪の朝には炉中に炭などものして 泌音にしたしき友を待、 さて月のゆふべは即興の章おもしろく、 拙からずも筆をしめて、 まことに其名都辺までも著し。 昌貢は、素堂を「世にありて世をはなれ」だ人物と評している。…市井の隠者…すなわち市隠ということであろうから、素堂が自らを隠士と称するところと一致した評価である。そして、その住居を「一窓に安閑をたのしみ」と記している。 窓が一つしかない住居である。その規模や構造は明らかにされていないが、草庵(3)と呼んでよいものであろう。後代の俳諧逸話集、空阿著『誹諧水滸伝』(寛政元年ごろ成)が、素堂の住居を 「其家後に方二丈に過ず。四辺白砂を以て壁とし、白茅を葺て家根とす」(4) と表現しているのも、あながち的外れな記述ではあるまい。その場所は、武江(武蔵国江戸)の東の葛飾であり、前には隅田川が流れ、後には江戸川が流れるあたりである。そこで富貴を退け、貧の生活を容受し、雪月花の安閑を楽しんだというのである。昌貢については詳らかにし得ないが、素堂と交流のあった江戸の俳人と思われ、右の記述は信じてよいであろう。 右は、一周忌とはいえ、素堂没後の記述であったが、生前の素堂の評判はどのようなものであったのであろうか。芭蕉の素堂評が窺える士芳の『三冊子』を幡いてみることにする。 元禄十五年(一七〇二)の成立である。
或禅僧、詩の事をたづねられしに、 師のいはく 「詩の事は隠士素堂といふもの、 此道にふかき好ものにて、 人も名をしれる也。かれつねにいふ、 詩は隠者の詩、風雅にて宜、といふ」 と也。
このエピソードがいつごろのものかは、定かでない。しかし、芭蕉が素堂を「隠士素堂」と呼んでいる点は、大いに注目してよいであろう(芭蕉は、はやく貞享三年に書いた俳文「四山瓢」でも「隠士素翁」と記している)。そして、素堂を詩の道の「ふかき好もの」と評し、「人も名をしれる也」と伝えているのである。隠士素堂、漢詩人素堂の名は、当時の人々の開では、広く知られていたというのである。昌貢が「其名都辺までも著し」と記していたところとも一致する。 芭蕉は、『おくのほそ道』の中でも 「旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり」(5)と記して漢詩人素堂を称揚している。右のエピソードでなお注目すべきは、芭蕉や素堂が、禅僧の問いかけに対して、「詩は隠者の詩、風雅にて宜」と、「風雅」を視座に、「隠」と「禅」とを切り離して考えていたことが窺知し得る点てある(6)。詩を純粋な「風雅」たらしめるには「隠」の要素は不可欠であるが、「禅」とは直接には繋がらないとの判断が働いていたように思われる。 ともかく、素堂より二歳年少の芭蕉は、素堂を「隠士素堂」と呼んでいるのであった。芭蕉晩年の門弟許六も、また、素堂生前に、素堂を隠士と呼んでいる。 正徳五年(一七一五)刊の『歴代滑稽伝』に、
江戸山素堂は、隠士也。『江戸三吟』の時は信章と云。 『幽山八百韻』の節は来貢と云。 芭蕉翁桃青と友トシ善シ。 後、正風の体を専とす。
と記しているのである。素堂の前号である信章、来雪号も紹介されている。芭蕉との密なる交友といい、「正風の体を専と」した点といい、素堂は、蕉門の客分的な存在だったと言ってよいであろう。同じ許六の『本朝文選』(宝永三年刊)の作者列伝には、
素堂ハ者山口氏也。于武陽ニ居ス。 世務ヲ避テ于深川ニ隠ル 芭蕉翁ヲ友トシ善シ
と紹介されている。ここで許六が、「隠」の一つの要素として世務からの退避を指摘している点に注目しておかなければなるまい。先の昌貢の言「世にありて世をはなれ」も、この意味においての発言と解すべきであろう。この時点ては、許六は、まだ彦根藩士であるので、ある種の羨望を禁じ得なかったのであろう。 なお、「隠」の場所葛飾を許六は深川としているが、彦根藩士である許六にとっては、葛飾も深川も、同じ地域として把握されていたのである。 談林の俳人轍上が、俳人を遊女に見立てて論評した『花見車』(元禄十五年刊)において「武州」の素堂を、
はちす葉のにごりにはそまじと、 ながれの身とはなり給はず、 わかき時より髪をおるして、 深川の清き流れに心の月をすませり。
と評していることも、右に検討を加えてきた素堂評に目をやるならば、納得がいくであろう。京の人轍士にとっても、素堂は、武州深川の人と認識されていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月05日 06時39分49秒
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