カテゴリ:山口素堂資料室
『とくとくの句合』百里践文
隠士素堂の「隠」の意識 復本一郎氏著 一部加筆 山梨県歴史文学館 白州町ふるさと文庫
素堂は、正徳元年(一七一一)の頃、西行の『御裳選濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)』に倣って三十六番の自句合を編んでいる。素堂没後の享保二十年(一七三五)に出版されている。その版本『とくとくのの句合』には、享保十二年(一七二七)春に執筆の百里の跋文が置かれている。素堂没後十一年目の執筆である。百里は、蕉門嵐雪の弟子。当然、素堂との交流もあったであろうから、跋文の信憑性はかなり高いと見てよいであろう。隠上素堂の「隠」の意識を探るには欠かせない資料と思われるので、左にその全文を引き写してみる。
右白問自答のぬし素堂は、あづまの長明ともいはんや。 山口松兵衛の時、交り貧しからず有けるを、 こがらしの筑波はげしき冬の風の煙に逢ふ事幾度か、 又一族の不幸に僅のたからも失ひ、 悔事なく、老母を供して、 行水の流もとのあらぬ葛鹿深川の草むしろ、柱を堀建、 ばせを庵の風に耳をひれふせ、 元日やおもへば淋し秋の暮、 此頃より風俗うつりかはり、 古池や蛙飛込水の音、 是を昧ひ、此池の前にうしろに、 素堂は十蓮の句を、詩話をめぐり、 芋名月の十三句、 我をつれて我影帰る月夜哉 みのむしに筆の杖、 ある時ばせを曾良をつれて おくの細道におもむかれける餞別、 松しまの松陰にふたり春死なん 我も死なんと弥陀の額に落日を請、 月影は人山の端もつらかりき。 此古ごとに違ず一生をすみ畢ぬ。 かくれては船人多し後の月 予此句を云捨たるむ此人にはなし。 とくとくとむかしなつかしく跋に書て置物也。
この百里の跋でとりわけ注目すべきは、素堂を「あづまの長明」と定めている点であろう。素堂の『とくとくの句合』が、素堂自らが序文で、
七そぢちかき秋の頃、わらは病にかゝりて、 三途瀬川を二瀬もこへなんとせしが、 立帰り、病の間ある時、 むかしいひ捨たる狂句どもを倩(つらつら)おもひ出て、 自らの句を左右にわかち、西行法師の御裳濯川のまねして、 三十六番の句合となし侍れど、 今の代に悛成郷とたのむべき人なければ、判者も又素堂なりぬ。 (以下略) と記し、わざわざ「かつしかの隠士素堂」と署名までしているので、西行を意識して為されたものであることは間違いない。 事実、芭蕉の『野ざらし紀行』の一節、
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計わけ人ほど、 柴人のかよふ道のみわづかに育て、さがしき谷をへだてたる、 いとたふとし。彼とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、 今もとくとくと雫落ける。 露とくとく心みに浮世すゝがばや
に対して、素堂は、その序で
我に鐘予期がみみなしといへども、 翁のとくとくの句をきけば、 眼前岩間を伝ふしたゝりを見るがごとし
と述べて、芭蕉の描く西行の世界に賛意を示しているのである。芭蕉を琴の名手伯牙に、自らをその理解者鐘予期になぞらえての賛意である。 そればかりか、素堂は、西行の旧庵の跡を訪ね、西行が とくとくとおつる谷間の苔清水くみほすほどもなきすまひ哉 と詠んだとされていた「とくとくの水」を掬って、 山かげにひとくひとくとなくとりも岩もるみづのおとにならひて の和歌をも作っているのである(子光纂『素堂家集』)。 それよりもなによりも、『とくとくの句合』の第一番の素堂の左句は とくとくの水まねかば来ませ初茶湯〉 であり、この句に対して判詞で、自ら、
判に日、西行法師をしたひての句合なれば、 第一番に汲はず程もなき住居かなと詠じたまふ 芳野の奥の苔清水を出されけるにや。 二月堂のわかさの水も呼ぶに応じてわき出るといへば、 遠くとも来るまじきにあらず。
と解説しているのである。芭蕉が、西行の とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくは住み憂からまし の歌に「さびしさをあるし」とする「さび」(7)を見定めたり、同じく西行の 山里へ誰をまたこはよぶこどりひとのみこそ住まむと思ふに の歌に「独往」の「おもしろさ」を見出だしたように、 素堂もまた、西行の「さびしさ」の世界、「独往」の世界に強い憧憬を抱いていたことは、紛れもない事実である。それゆえの『とくとくの句合』の編纂だったのである。ちなみに、先の『とくとくの句合』の序で明らかなように、六十九歳の素堂は、雍(わらはやみ)に罹り、九死に一生を得る。句合は、その時に企図されたものである。 が、素堂が西行贔屓+であることを百も承知で、百里は素堂を「あづまの長明」と呼んでいるのである。長明の『方丈記』の冒頭 ゆく何の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず を踏まえて 行水の流もとのあらぬ葛鹿深川の草むしろ、柱を堀建 とまで綴っているのである(前半部の素堂の半生の描写も『方丈記』が意識されていよう)。百里は、跋文の中にも引かれている素堂の左の句文にひっかかるものを感じたのではなかろうか。車庸編、元禄五年(一六九二)刊の俳諧撰集『己が光』に収められている。
送芭蕉翁 西上人の其きさらぎは法げづきたれば、 我願にあらず。 ねがはくは花の陰より松の陰、 寿はいつの春にても、我とともなはむ時 松嶋の松陰にふたり春死む 素堂
西行の 願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ の歌を踏まえての句文である。 そして、素堂は、釈迦入滅の日である春二月十五日に桜花の下で死にたいという西行に抵抗を示しているのである。理由は「法げつきたれば」である。「法げ」は、「法掲」であろう(「法気」とも考えられる)。あまりに仏法に密着し過ぎているというのである。 素堂にとって西行の「独往」の世界、「さびしさをあるじ」とする世界については憧憬の対象となるものの、西行の「法げづ」いた世界は、敬遠すべきものだったのである。素堂は「我願にあらず」と明言しているのである。これが、素堂の「隠」である。そして百里も、そのことを見抜いていたのであろう。それが「あづまの長明」なる評言となったものと思われる。そして、この評言を裏付けるかのような素堂の作品が、正徳元年(一七一一)刊、蘭台編の俳諧撰集『誰袖』に収められているのである。
忍岡のふもとよりかつしかの里へ家をうつせしころ 長明か車にむめを上荷かな 素堂
素堂が、上野忍岡に退隠したのは、延宝七年(一六七九)、三十八歳の時と推定されている(8)。延宝八年(一六八〇)刊、言水編の俳諧撰集『江戸弁慶』には、その折の、 宿の春何もなきこそ何もあれ 素堂 の句を掲出している。後年、素堂は、『とくとくの句合』の一番の右にこの句を置き(左が、先に見たくとくとくの〉の句)、
何もなきこそとあるは、有無の無にてはあらざるべし。 此無にはあらゆる物を備へて胸中の楽しみはかり難し。
と解説している。 ここにも素堂の「隠」意識が窺えるであろう。「胸中の楽しみ」を約束するところの「無」である。しかし、素堂は、日野山の草庵に閑居した長明に倣って、さらなる「安閑」生活を求め葛飾へと居を移したのである。貞享二年(一六八五)、素堂が四十四歳の時と考えられている。(9) その時の句が〈長明が〉である。「長明か車」とは、『方丈記』中の方丈の草庵を説明しての 「積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他のようとういらず」 を受けてのものであろう。車二台分の組み立て式の草庵であるも、長明気取りで、車の積荷の上に折から咲いている梅の花を置いて、忍岡から葛飾まで引越したというのである。 憧憬を示しながらも、なぜ西行ではなく長明の閑居生活に倣ったのか。『方丈記』には 「もし念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる」 との記述が見える。素堂は、そんな長明により親しみを感じたのであろう。そして、百里には、そのことがしっかりと理解されていたのである。百里は、〈かくれては〉の句を示し、「去者は日々にうとし」というが、素堂は別だ、と惜しみない賛辞を呈しているのである。
三 素堂の内なる芭蕉
隠士素堂の「隠」の意識 復本一郎氏著 一部加筆 山梨県歴史文学館 白州町ふるさと文庫
『おくのほそ道』の旅に出立する芭蕉に対して 松嶋の松陰にふたり春死む とまで詠んだ素堂であったが、かく素堂と芭蕉との交友の絆は、例えば儒者人見竹洞等に比しても、すこぶる堅かったようである(10)。子光纂の『素堂家集』には、 予が家に菊と水仙の画を久しく翫びけるが、 ある時、ばせををまねきて 此ふた草の百草におくれて霜にほこるごとく 友あまたある中にひさしくあひかたらはんとたわぶれ 菊の絵をはなして贈る時、 菊にはなれかたはら寒し水仙花
の句文が見え、蕉門浪化編の俳諧撰集『続有機海』(元禄十一年刊)には、芭蕉没後に『ばせを墓にまうでゝ』の、この句と対をなす素堂の「手向草」の一句、 秋かかし菊水仙とちぎりしが 東武 素堂 が収められていることからも、二人の交友の絆の堅い堅い結び付きを窺うことができる。素堂は、二歳年少の芭蕉を菊に、自らを水仙に背えて、交友の絆の堅さを詠んだのである。 菊は、許六が「百-花ノ譜」(『本朝文選』)で 菊の隠逸なるは。和-漢ともに名にたちたる花 と述べているように、北宋の周茂叔が「愛蓮説」『古文真宝』)の中で「菊花之隠逸者也」 菊は花の隠逸なる者なり と述べているように、隠者に譬えられる花である。 そして水仙も、季吟が歳時記『山の井』(正保五年刊)の中に 霜がれの草の中に。いさぎよく咲出たるを菊より末のをとうとへもてはやし と記しているように菊の弟として、その隠逸の様が、菊同様に珍重される花だったのである。素堂と芭蕉は、「隠」の精神で結ばれていたと言えるのである。 素堂は、元禄二年(一六八九)九月十三日、『おくのほそ道』の旅から帰ってくる芭蕉を待って、左のごとき句文を綴っている(『其袋』所収)。 (前略) ことしも又、月のためとて庵を出ぬ。 松しま、きさかたをはじめ、 さるべき月の所々をつくして、 隠のおもひ出にせんと成べし。 此たびは月に肥てやかへりなん
前年の芭蕉の十三夜の句〈木曾の痩もまだなをらぬに後の月〉を踏まえての〈此たびは〉の句である。素堂と芭蕉の肝胆相照らした親しさを感じさせるユーモアに満ちた作品であるが、そこにおいても、素堂の中では芭蕉の「隠」がしっかりと認識されているのである。
素堂と芭蕉の「隠」の交りをもう少し追いかけてみることにしたい。素堂の中で、芭蕉は「月の詩人」として捉えられていたようである(11)。右の句文でも『おくのほそ道』の旅の目的が「月のためとて庵を出ぬ」と語られていたが、元禄五年(一六九二)成立の『芭蕉庵三ケ月日記』(12)の素堂序でも「隠」が「月の詩人」芭蕉とのかかわりの中で語られているのである。
我友芭蕉の翁、月にふけりて、いつとはわかぬ物から、 ことに秋を待わたりて、他の求めなし。(中略) 中の秋に至りて、 はつ月のはつかなる比より夜毎に名月の思ひをなし、 くもりみはれみ、扉をおほふことまれ也。 我庵ちかきわたりなれば、月にふたり、 隠者の市をなさむとみづから申つることぐさも古めきて、 人くる人こにも句をすゝむる支になりぬ。 昔より隠の実ありて、名の世にあらはるゝ夏、 月のこゝろなるべし。(傍点筆者)
いかにも楽しげな月にかかわっての素堂と芭蕉との「隠」の交りである。深川の草庵と葛飾の草庵とを訪いつ、訪われつしたのであろう。素堂の戯れの言「月にふたり、隠者の市をなさむ」からも、素堂が、芭蕉や自らをはっきりと「隠者」と意識していたことが窺われて、興味深い。 「昔より隠の実ありて、名のあらはるおゝ夏、月のこゝろなるべし」 は、「隠者」芭蕉への賛辞であり、「隠」を志向する本物の「隠者」は、本人の意志とはかかわりなしに、その名が世に知られるようになるというのである。 右の序文は、続いてその具体例である西行、遍昭について語られ、 「この翁のかくれ家も、必隣あり。名も又よぶにまかせらるべし」 との言葉で結ばれている。『論語』の中の 「徳不孤ナラ、必ズ有リ隣」 の文言を踏まえながら、芭蕉の名が世の中に広く知られるようになることを予見しているのである。 元禄九年(一六九六)刊、里圃編の芭蕉一周忌追善集『翁草』に、素堂は、 頭巾着て世のうさ知らぬ翁哉 素堂 の句を寄せているが、「世のうさ知らぬ翁」の「隠」は、終生、素堂の「隠」に大きな影響を与え続けたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月05日 07時00分11秒
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