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2021年06月06日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲府城と天守閣

 

   小宮山久茂氏著

   一部加筆 山口素堂資料室

 

 

甲府城の地は一条小山と呼ばれた甲斐源氏武田信義の総領一条次郎忠領の居館の地である。世上名高き富士川の合戦、治承四年(1180)十月二十日夜半、奇襲攻撃をかけようと千五百余暇の精鋭武田騎馬隊はひそかに軍を進めた。この蹄の音の気配に数子の水鳥が一斉にすさまじい羽音を立てて飛び立った。

この音を聞いた平家軍は、それ敵の夜襲だ、と驚きあわて我先にと逃げだした。

騎馬隊はこれを追って馬上から矢を放ち、刀で切り倒していった。平家の大軍は数百の死体を残して京を目差し逃げ去ってしまった。源氏の大勝で甲斐源氏は大功を立てた。これが一条次郎忠頼で、一条小山は平家追討の甲斐源氏旗揚げの由緒ある地である。

天正十年三月十一日、勝頼は若気の至りで老臣の諌言も聞かず、無謀の戦を

を弱め、織田、徳川家と戦い大敗して重臣や多くめ将兵を失い、天目山して勢力を弱めて武田家は滅亡した。そのあとへ織田が入って来たが、武田家の旧制廃止社寺を破壊し焼き討ちし僧を焼殺してしまう残虐な暴政を行った。六月二日、京都本能寺で明智光秀。の謀反にあい火中で自殺してしまった。これを聞いた甲斐の国人は決起し、信長の臣で領主だった残虐な河尻を襲い攻殺して怨みをはらした。

 そして家康が入国した。家康は武田氏の旧制をすべて復活し、織田によって破壊された社寺を復興した。十八年、家康は関東へ転封となる。秀吉は義子の秀勝を甲斐の領主とする。十九年、秀勝が岐阜の城主となり行くと秀吉の臣、加藤光泰が領主となり甲府城の修築工事を起工した。文禄元年(1592)朝鮮との戦いが始まり、光泰は兵千人を率いて出陣し、秀吉の代官七人衆の一人として活躍する。

二年(1593)、光泰は朝鮮釜山で八月二十九日病死した。五七歳、甲府市善光寺に墓がある。十一月二十日、浅野長政、幸長父子が来て領主になる。

浅野親子は築城工事のため柚(そま 山林から材木を切り出す業者)、大鋸引き衆等に諸役免許状を出して、資材、職人の徴発を行い、築城は大体完成した。長政は和歌山に転封、和歌山城を築く構造は甲府城と同じと云われる。

愛宕山の麓元紺屋町に日蓮宗の寺、妙遠寺がある。この寺に加藤清正が朝鮮から持って来た帰り寄進したと云う玉簾(たますだれ)、羊角灯寵がある。この玉簾は、朝鮮の役に出陣した清正軍が京城から咸鏡道の奥深く進入し朝鮮軍を撃破して満州国境に近い会慶府で朝鮮の二王子を捕らえた。清正はこの二王子を手厚くとり扱った。文禄二年(1593)六月清正はこの二王子を朝鮮王室に帰した。王室では、二王子は捕らえられどうなることかと心配していたが、無事に帰って来た王子を見て安心し、うれしさのあまり玉簾、羊角灯籍を清正に下賜したのではないかと思われる。清正は、母は豊臣秀吉の母の従姉妹で、幼少の頃から秀吉に仕疋、賤ケ岳の戦に武功をたて、賤ケ岳の七木棺の一人といわれた。秀吉に信任され肥後(熊本県)二十万石の領主になった。慶長十五年(一六一〇)、名古屋城を築城し、後に熊本城も造った。熊本城は後の明治十年(一八七七)の西南戦争の時、西郷軍が攻めた。こんな城の一つや二つ攻め取る事は簡単と高を括って石垣を登り出した。処が中程すぎた処からそりが急になって登りきれず、皆ずるずると落ちてしまい、城は落城せず、西郷軍はあきらめて引き上げる途中、黒田節の一節にもあるように田原坂で敗れ敗走した。清正は熟心な日蓮宗の信者である。清正は朝鮮の役の時、秀吉から南無妙法蓮華経の旗を下賜された。

この妙法の旗は織田家に伝わる旗で、秀吉が中国征伐(毛利)に向かう時、信長からもらった旗である。清正はこの旗を立てて進んだ。清正が妙遠寺とかかわり合ったのは、清正が日蓮宗の信者であり、甲斐へ来た折り病気をして妙遠寺に病気平癒の祈願をし、平癒したので、玉すだれ、羊角灯篭をお礼に寄進したと伝えられていることによる。加藤清正が甲府へ来たのは、おそらく天正十八年、家康が関東に転封になり、秀吉が義子の秀勝を甲府の城主にした時だと思われる。翌年の十九年に秀勝は岐阜城主となり岐阜へ行く。そのあと加藤光泰が前文のように工事を始める。秀吉は城造りの名手清正を監督か後見人に命じてよこしたものと思われる。脊、甲府城の修復工事が進められていて、県は築城当時の状況を復元する方針である。天守台の北の人質曲輪(曲輪は城の区画)の地下から瓦が多数出て、この中から五三の桐の家紋瓦、鬼瓦(鯱、しゃちほこ瓦)の破片が出土した。その表面に金箔がはられた跡があった。五三の桐は豊臣秀吉の家紋である。金箔をはる装飾は織田信長の時代からで、安土城には金箔がはられ、天守閣は五層七重で、秀吉の造った大阪城は八層で金箔で飾られていた。

甲府城修復工事で出土した鯱瓦を鬼瓦工房のもとで復元した。金箔をほどこした雌雄一体の鯱瓦は重厚な姿で四百年前の光を放っている。城の造りは本丸、その北に天守台、本丸やぐらがあり、ここに本丸御殿があった時もあった。南は鉄御門、西は銅御門(あかね御門)があり、本丸の出入り口になっている。本丸の南西は二の丸(山の井曲輪)で、この二の丸の西は楽屋曲輪で柳御門(今の県会議事堂の出入口辺り)を東に入ると南は太鼓櫓(やぐら)、それに続いて南北二十間(約四十m)、 西十間(約二十m)の楽屋の建物、西に坪庭と対談所が設けられている。御金蔵 追手番所、与力番所があって厳重に警備されていた。この南は追手御門、追手橋で、欄干に擬宝珠(ぎぼし)を付けた太鼓橋、この橋を渡ると前記の観音開きの追手門の処に出る。東は数寄屋曲輪で、ここへは明治四十五年皇太子殿下が行啓の時、小学校生徒の運動会を御覧になられた御座所が設けられた。北西にある清7曲輪の中にある屋形曲輪は、かつて、前記の文禄二年(一五九三)に甲府城をほぼ完成させた浅野長政、幸長の父子二代の屋形があった処と伝えられている。柾目の安大(あのう)式天守台、台上は二十二メートル×十七メートルあり、名古屋城の高さ三十六メートルに匹敵できる天守閣を建築する構造になっている。秀吉は、名将武田信玄の地に名城甲府城を造る予定で、そして造られた。

武田信玄は天文十六年二十六歳の時、甲州法度(法令、おきて)をつくっている。

この法度は天文十六年から明治五年迄続いている。武田家滅亡のあと来た暴君信長も信玄の法度の遺制は承継し、信長が自殺し秀吉になったが、秀吉もそのまま承継した。そして、慶長五年(一六〇〇)、家康になったが、家康も引き継ぎ改正もせず、しかも徳川十五代慶喜まで行っている。戦国時代、織田、上杉、北条、今川の領主は、覇権、権勢が強く、その国が滅亡すると法度は終わったが、武田の法度は続いている。甲州法度は民本主義、民と喜び民と悲しむ仁政主義である。

遊情を戒め、武芸を励ませ、私闘を禁じ、主人の横暴を制め(おさえる)、僕婢 (使用人)に忠節を誓わせる、万民を保護する治国の要道(たいせつな所、遺)

は、良民の保護と産業の奨励、温情ある公正無私の法である。信玄は法度の中で「晴信に於いて行儀、その外、法度以下に旨趣に相違の事あらば、貴賤を問はず目安を以て申すべく時宜によって其の覚悟すべきものなり」と定めた。信玄に、もし行儀その外、法度の旨趣に違背する事あらば、如何なる身分の者でも問わないから目安箱に文書をもって訴えよ、用うべくものは取りあげ身をつつしむであろうと、国守信玄自身、法を順守し自ら範を示している。有賀博士の日本古代法釈義に「信玄家法の上に至りては、一個の法典として視るべき価値あり多く民刑法の條項を含蓄し、我邦、法律思想の沿革を知るにたる」と民刑法の大家としてみている。尚、経典に基づき士民の封建諸侯に対する道徳上の義務を規定したもので毎条古書を引き、その編纂にあづかりしもの博覧強記に驚くべしと云っている。法度はきびしい事もあるが、民の事を思う卓越したよい法度であったので、信長、秀吉、家康、そして徳川歴代十五代の慶喜迄変る事もなく信玄の法度(政治)は続いた。戦国時代の武将の領内に告示した法令文は多くあるが、信玄のように自ら身を以て誓った者はない。天下に率先して民本主義の仁政を布いたのは信玄であって、甲州法度の価値も亦偉大であると評されている。画龍点晴。のことわざにもあるように、城には天守閣が必要だと思う。当家に娘の友人のアメリカの女子大生二人が来た時、小生が画き額に入れた姫路城を見て「ビューティフル」と云った。その自然の感じは、すなおでさわやかであった。やはり城には天守閣があった方がいい。風格のあるゆるぎない安大(あのう)積の石垣の上に立つ荘重な天守閣は、山紫水明の山都にふさわしい姿だと思う。

            小宮山久茂






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最終更新日  2021年06月06日 16時03分52秒
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