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2021年06月07日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

 百姓一揆の高揚 天保の甲州騒動

 

 『朝日百科 日本の歴史』81 

 

  「近世」-4 一揆

朝日新聞社 /1 通巻609

昭和62年発行

 

 この項 安丸良夫氏著

 一部加筆 山梨歴史文学館

 

天保七年(一八三六)の甲斐国は、四月上旬から雨天つづきで気温が低く、そのうえ八月十三日には暴風雨となった。

天保四年の飢饉の打撃から立ち直らないうちにまた凶年が訪れたのである。郡内地方は、甲斐国都留郡、富士山北麓の山村で郡内職が盛んだが、水田に乏しく、米は国中地方や相模など隣国からの移入に依存していた。

凶作の見通しが確実になると、隣国は米の移出を禁止したため、国中地方への依存が強まったが、こうした状況のもとで、米商人が買占めを行い、穀物価格がたちまち騰貴した。

甲州騒動は、こうした郡内地方の地域的特質を背景にしてはじまり、穀物流通の主要なルートにそって甲府盆地一帯に波及していった。

 

甲州騒動は、はじめ、下和田村次左衛門(武七)と大目村兵助を頭取(主謀者)とする「夫食米(ふじきまい)借請」の強談(ごうだん)として、注意ぶかく計画された。

次左衛門たちは、郡内地方各村にあらかじめ工作しておいたうえで、八月二十日、要所に張札をし、竹法螺(たけぼら)を吹かせ、不参加の村は打ちこわしまた焼払いにするなどと大声で触れ歩かせた。

一揆勢は、白野宿に集結し、長左衛門家ほか一軒で焚出しをうけ、翌朝六ツ時ごろ(午前六時ごろ)に白野宿をでて、旗をたて竹法螺を吹きながら笹子峠をこえ、駒飼宿に入った。

 

米価の引き下げを求めて

 駒飼宿は、隣の鶴瀬宿と交替で宿駅をつとめる宿場で、白野宿からは十二キロほどの距離にあった。二十一日八ツ時(午後二時ごろ)に到着した一揆勢の人数は、百四十-百五十人、三百人余、五百-六百人、約千人などと史料によって異なるが、おそらく数百人を出なかったろう。宿内には郡内地方とかかわりの深い三軒の米屋があったが、次左衛門たちの目的は、この三軒の米屋や、さらにもっと有力な米商人である熊野堂村奥右衛門などに交渉して、この十日たらずの間ににわかに騰貴した米価を引き下げ、郡内地方へ売り渡すという約

束をとりつけることであった。

 次左衛門たちの戦略は、危うい綱渡りである。江戸時代の社会では、強訴徒党はきびしく禁じられており、いったん強訴徒党となれば、たとえ取りあげるべき正当な願いであっても、「理非之不及沙汰へ其上仕置可申付」(りひのきたにおよばず)、頭取は死罪、名主は重追放などに処せられるというのが、法制上の原則であった。

次左衛門たちのばあいも、いったん打ちこわしとなれば合法性の範囲をこえたことになり、きびしい弾圧がまっている。しかし、非合法の実力行使を含みにしなければ、米商人たちから妥協をかちとる望みはない……。

こうした郡内の情勢は、国中東部の村々にも伝わっていた。

駒飼宿から三キロほど離れた初鹿野村では、長百姓の義右衛門が頭取となり、村民を集めて駒飼宿へ出かけ、郡内勢に加勢することとなった。駒飼宿に近い日影村などでも同様の動きがあり、結局、三百名ほどが郡内勢に合流して、狭い駒飼宿は殺気だった人びとであふれた。

そして、「柔和之掛合」はやめにして打ちこわしを行えという者があり、こうした雰囲気のなかで三軒の米商人が打ちこわされた。そのあと、一揆勢は鶴瀬宿の番所を押し通り、勝沼宿へ入り、鍵屋庄兵衛家などで焚出しを受けた。

 

一揆から騒動へ

 

この段階で次左衛門たちは、郡内勢は引きあげる方がよいと考えた。駒飼宿で打ちこわしが行われてからは、運動は非合法の実力闘争となったのであり、そのうえに勝沼宿へ入ったころから参加者が急増して、このあとどのような事態となるのか見当がつかなくなっていたからである。しかし、興奮した人びとの渦のなかではそれも叶わず、翌二十二日に一揆勢は熊野堂村へ向かい、郡内地方へ穀物を送る大商人奥右衛門家そのほかを打ちこわした。その直後に郡内勢はまとまって引きあげ、次左衛門はしばらく隠れていたあとで谷村陣屋に自訴し、兵助は逃亡した。

郡内勢が引きあげた二十二日夕方を境に、騒動の性格は大きく変わり、飢えた窮民が各地域で豪富の家をつぎつぎと襲う打ちこわしに転化した(郡内勢が引きあげるまでを一揆、それ以後を騒動と呼ぶことにする)。

蜂起した人びとは二十二日夜には石和宿を打ちこわし、二十三日には甲府へ入った。甲府では、勤番永見伊勢守以下が取押えに出張し、「願之筋」溥聞き届けよう、米は京枡一升百文で売らせようとのべて騒動勢をなだめた。しかし、頭取体の男は、本当にそう思うならもっと以前に「御数可之」はずだ、今となってはとどまることができないとのべて説得を拒否し、押し通ってしま った。

甲斐国は大部分が幕領で、甲府城を預る二人の勤番と代官・陣屋によって支配されており、まとまった武士団を欠いていたことが、この騒動を大規模なものにしてしまった一つの要因であった。しかし、それでも甲府には勤番以下与力同心など三百数十名が在動しており、在方からよび集めた人足千五百~千六百人にも竹槍をもたせて、防禦の姿勢をとっていた。それが騒動勢に気押されて「無拠御引取」となったのだから、「当地にては武家は無之様」だと悪しざまにいわれても無理のないことであった。 

甲府の打ちこわしは二十三日の朝から夕方までであった。その日の暮六ツ時(午後六時)ごろに騒動勢は甲府を出て、一部は市川大門・鰍沢方面へ、一部は甲州街道ぞいに韮崎方面に向かった。しかし、この段階になると騒動勢には全体的なまとまりが欠けており、せいぜい二百~三百人、少ないばあいは百人以下の数多くの集団に分かれ、つぎつぎに各地域で富裕な商人などを襲うようになった。同じ町を襲うにも、先勢・跡勢と分かれ、先勢が打ちこわしたあとへ跡勢がきて、また打ちこわしたりした。このようにして、郡内勢が引きとったあと、ニ十一日夜から二十四日夜までの間に甲府盆地一帯で打ちこわしがあり、二十一日以降の分も含めて、三百十九軒、百十八か村で打ちこわしが行われた(安藤正人氏の集計による)。

 

打ちこわし……秩序の転倒

 

時の声をあげて窮民が押しよせ、目印として旗がたてられるとその家が打ちこわされ、短い時間でまた次の家に移る、唐紙・障子などがこわされ、庭へもちだされて火がかけられる、衣類、金銭、穀物、証文類などが切りさかれ、まき散らされる、酒屋では酒桶の夕方を切って酒を流し捨てる、土蔵などが放火されることもある、などというのが、打ちこわしの内実であった。多くの史料は、こうした行為を盗賊同様のものとしているが、それは、所有という見地からみたイデオロギー的偏見であろう。破壊も盗みも富が失われる点では同一だが、打ちこわしは既成の富の破壊であって盗みではなかったからである。また、混乱のなかでの盗みは避けられなかったが、しかし、盗みとされている行為の主要な側面は、刀・脇差・衣類などを奪いとって身につけ、酒食を飲み食べるという範囲内のことにあった。

 また、物財の破壊は徹底的になされたが、人間に対する殺傷は行われなかった。

 こうした行動をとる集団を、無統制な烏合の衆のように考えるのは適切な見方ではない。集団があるまとまりをもって威力を発揮するためには、集団に固有の意志や目的が構成され、それをりードする者が存在しなければならない。

 たとえば、相模国の無宿吉五郎は、郡内勢が引きとったあとで頭取となり、騒動勢を指揮した人物の一人だった。彼は、奪いとった刀脇差を携え、人足に旗をもたせ、「御用」と書いた提灯をもっていた。また、長浜村の無宿民五郎は、奪いとった長脇差を帯し、女帯で禅をかけ、徒党の者を指揮して、彼らを甲府の町に入れまいとする役人たちの説得を拒否し、「真先二進ミ、徒党之もの共申励し押破通」った。江尻窪村の周吉は、頭取から貰った革羽織を着て赤い紐の挿をかけ、長脇差を帯び、組織を人足にもたせて、徒党の者を指揮した。彼は大工だったので家をこわすのがうまく、そのために集団のなかで重んじられて、それを「面白く存」じ、頭取株の万人となったのであった。こうした人びとは、いうまでもなく、あらかじめそうした役割を果たそうとして集団に参加したのではなかった。しかし、富への怨念に燃える集団が形成されたとき、人びとはその集団に固有の、思いがけないほどに高揚した「集合心性」(G・ルフェーブル)を構成してそれを生きたのであり、そのなかで人びとは、これまでの人生のなかで蓄積してきたさまざまの資質を、その極限的な可能性において現実化したのである。

 蜂起した集団の意識を高揚させたひとつの契機は、打ちこわしを恐れた物持ちらが酒食を提供し、それを存分に享受したことにあったろう。主人の名前を記した紙幟をたてて酒食を処々へ持ち運んで「振舞」をすることに奔走する奉公人がいたり、「御休処」と記した幟をたてて、酒食をととのえる者がいたり、百姓の女房たち六-七人が「取持」となって酒食を提供するばあいなどがあった。物持ちたちは酒食を提供することで打ちこわしを免れようとしたのであるが、そのさい日常の秩序は転倒して、物持ちたちは打ちこわし勢に媚び諂うような態度をとった。こうした物持ちたちの態度や、集団的な高揚のなかでなされたしたたかな酒食の享受は、蜂起した集団をほとんど無意識のうちに結合させた。

 

百十七名もの牢死者

 

だが、地域の富裕な家が無差別に打ちこわしの対象となるような事態は、地域社会の一般の住民にとっては災厄にほかならない。打ちこわしのすさまじさや抜身をもった参加強制も、普通の生活者の共感を誘うものではない。郡内勢が引きとったあとの騒動勢について、「過半は無宿、盗賊、乞食、非人等之者」、「皆々近辺のあぶれ者、盗賊等に御座候」、「盗賊七八分」などと書きのこされているのは、ある程度までは事実であり、ある程度までは右にのべた行動様式のゆえであったろう。こうして、騒動が甲府盆地の南部と西部に波及する過程で、地域の住民の間に村や宿場を自衛しようとする態度がつよくなった。

二十四日八ツ時(午後二時ごろ)に釜無川西岸の荊沢村で、「村方相談之上ニて一同体を持」ち、十三人の徒党を「生捕」にしたのは、蜂起した集団を鎮圧した最初の事例かもしれない。「生捕」といっても、十三人のうち四人が即死、二人が深疵というのだから、きびしい実力行使がなされたのである。

おなじ日、釜無川にそってのびる西郡道の各科で騒動勢が「召捕」られたが、やはり即死者をだすきびしい手段がとられた。

甲州街道を西へ進んだ騒助勢は、台ケ原その他でおなじようにして二十五日に捕らえられた。役人が出張するばあいもあったが、基本的には地域の民衆が武装して、「切殺」すことも辞さない態度で鎮圧に’のぞみ、成功している。このようにして捕らえられた者の数は数百名にのぼったが、そのほかに在方で打ち殺されて処分された者も少なくなかったらしい。

騒動のあとで、四百八十一か科に四千八百八十三貫三百文、甲府の町方五十か町に五百三十貫の過料銭が課された。押し出した者はもちろん、不参加の者も「罷出揃者を不ニ差留同不埓ニ付」、村高に応じ過料銭が課されたので

る。また、個人的に処罰をうけた者は、磔四名、死罪十名を含めて六百人近くもいた。そして、遠島、死罪、媒の者はほとんど牢死して、牢死者合計が百十七名にものぼったことは(藤村潤一郎氏の集計による)、地域で実施されたすさましい鎮圧過程とあいまって、この騒動がむきだしの暴力と強制装置によって鎮圧されたことをものがたっている。

騒動のあと、八月末ごろには米価は少し下落したらしい。これが騒動の成果ともいえるが、そのあとまた米価は高騰をつづけ、それが翌年初夏までつづいた。多くの人びとが飢死し、疾病が流行し、乞食として他国を流浪する者も多かった。

だが、それだからといって、この騒動についての記述を単純な敗北譚としてしめくくるのは適切ではなかろう。というのは、この事件は、その直後におこった三河の加茂一揆や翌年の大塩の乱とならんで、同時代の多くの人びとにつよい衝撃をあたえ、天保改革に向かう改革的機運を醸成する情勢の部となったからである。騒動にさいして無能ぶりをさらけだした勤番・代官などが処分され、民政に敏腕の聞え高い江川太郎左衛門が赴任したのも、幕府権力の側からの対応の一側面であった。抜身をもって駆けぬけた無宿たちは、束の間の集団的高揚を通して歴史をその最深部からゆり動かす威力となり、歴史の形成力となったのであった。 (安丸良夫)






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最終更新日  2021年06月07日 15時45分01秒
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