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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月07日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂・杉風小見 山口素堂

 

   吉田冬葉氏著

   一部加筆 山口素堂資料室

 

 素堂と杉風は、蕉門の人々の中でも芭蕉にとっては、きはめて意義ぶかい存在であったらうと考へられる。

それは素堂が和漢の學に通じ、連俳に於いては季吟門で、芭蕉より先輩であったといふばかりのそれではたく、その自撰自評の「とくとくの句合」が西行法師の「御裳川歌合」に倣ったものであり、その判言に

「西行法師をしたひての句合たれば、第一番に汲ほす程もたき住居かなと詠じたまふ吉野のおくの苔清水を出されけるにや。」と自分自身のことをいってゐるのを見ても、西行の思想に傾倒してゐたことが判るもので、芭蕉が紀行文で最も初期のものである「甲子吟行」中に

「西上人の草の庵の跡は、おくの院より右の方二丁ばかりわけ入ほど、柴人のかよふ這のみわづかにありて、さかしき谷を隔たる、いと尊し。かのとくくの清水はむかしにかはらすと見えて、今もとくとくと雫落ける。」

と書き、更に「笈の小文」でもこのとくとくの清水にロをたゝいてゐることが見えてゐて、芭蕉が西行の思想を慕ってゐたことは實になみなみならぬものがあったことが窺はれる。

芭蕉が生涯栖家を持たなかった原因は何んによるものであるか、その動機にっいては確たる証拠を知るに苦しむものであるが、西行の生活や思想が多分に彼をしてしかくせしめたであらうことはぼ肯ふことが出来るもので、さうした芭蕉にとって、素堂が同じく西行に深い関心をもってゐたことは、素堂をして「畏友」といはしめ、小名木川の一本松に舟遊びをした時「川上と此川下や月の友」と詠じて素堂に對する心特を表現したことによって明かである。

 

 素堂の俳句は蕉門の人々に見るごとく、俳人として専門に作られたものではたく、漢詩人としての餘技として作られたもので、従って句散も甚だ少いものであるが、その全体を通じて漢詩から惣を得たと見られるものはさすがに無いではないが、やゝxもすると頓頭し易い漢詩臭が微塵も出てゐないところに、診技であって決して診技でたかったものといふことが出来ると同時に、素堂の俳句に對する蘊奥の深かったことを知ることが出来る。 

 

行ずして見五湖烹蠣の音を聞

 

こ の句などがやゝ漢詩人としての堂堂があらはれたものといへようと思ふが、この句に對して「去来抄」に於いて「此頃古藏集を見るに、先師の事ども書ちらしたるかたはしに、素堂干の句をあげ、いり蠣の中に来ることをもて、名人達人と誉められたり。 

(中略)一気の感通自然の妙応、かゝる事もあるものとしるべし。誠に痴人面前夢を説べからすとたり。」

といって、芭蕉の「亡き人の小袖もいまや土用干」の句と共に賞讃してゐるが、これは、煎蝸をしつゝ箸をとってゐる時に煎蝸の句を送ってよこし、土用干をしてゐる最中に土用干しの句をよこすといふことは名人達人でなければ出来ない

ことであるといったもので、去来が特に「素堂子」と書き、また「先生」とも書いてゐるところを見ても、素堂が芭蕉門人 達とは別の位置におかれてあったものと見られるのである。

 

   とくとくの水まねかば来ませ初茶湯

 

 これは句合の第一番にある句であるが、茶人としての素堂 の面目躍如たるものがあって、「まねかば来ませ」といったの はおなじ西行に心をよせてゐる芭蕉に對していったものではなからうかと思はれるのである。

 

   何んとなう仮名書習ふ柳かな

 

 柳の芽出しのたよやかた趣は漢字ではなく、叉隷書や楷書でも勿論ない。何んとなく仮名書のやさしい書體をおもはせるものがあるところから「仮名書習ふ」といったもので、柳のもつ特性からかく感じたものである。

 

  志賀の花湖の水それながら

 

 この句は「粟津が原にてはせをの塚を弔ひて」といふ前言のある句で、義仲寺に芭蕉の墓を弔った時の吟で、志賀の里と見ゆるあたりに咲いてゐる花も湖の水も昔ながらであるのに、亡き人はかへらぬといふ悲痛な思ひを言外にした芭蕉にとって何よりのよき手向艸である。

   

菜畠の爰が左近のさくらかな

 

これは兵庫の絹原で作ったもので「新都の述も今菜ばたけなりて、感慨すくなからず」と自ら説明してゐる通り、昔福原の都の合戦の跡に立って、今は變りはてた畠の菜の花の黄色なのを見て右近の橘を憩ひ起したのであるが、花と散った武士を弔ふには橘ではなく櫻であらうとして「左近のさくらかな」と作為をはたらかせたものである。

   

朝虹やかかる雲雀のちから草

 

「朝虹や」とかいたのは暁からかけて降った春の村雨が晴れあがった趣を適切にあらはしてゐるもので、その紅のたった空をめがけて飛揚しようとして雲雀が草をつかみながら力を入れてゐる一瞬の光景である。この場合の「ちから草」は放鷹の場合の「力草」とは関係のないもので、単に雲雀が力を入れて掴んでゐる草といふほどの意味であらう。春の朝雨の霽(ハ)れて揚らんとしてゐる雲雀の本情をはっきり把握したものと見られるのである。

 

  春もはや山吹しろく萱にがし

 

待ちに待った春も、春になって見ると慌しく過ぎてしまって、もう二三日できようとする心特を「春もはや」といってあらはしたのはさすがに素堂であると思はせる。そして、花といふ花は悉く散ってしまひ、庭の山吹の末花が眼に白く、薹になりかけた苣の葉は舌の上にほろ苦いといふので、春を惜しむ切々たる心持が僅か十七文宇によつてきはまりのないまでにあらはれてゐるのである。

 

 目には青葉山ほとゝぎす初鰹

 

頗る人口に膾炙された句であるが、多くは「目に青葉」と読んで「は」の一宇をおろそかにしてゐるのであるが、この「は」の一字こそはこの句の最も重要な役目をもっていて、この一字のもつ効果が一句のしらべの上にきはめて大きくはたらきかけてゐるのである。そして、この句は一句のうちに「青葉」「時鳥」「初鰹」の三つの季節をあらはす語が読みこまれてゐるといふ點においても、後の人の注目となり、それがまたさまざまな人の論議の的となってゐる點においても有名であるが、この句は「鎌倉一見の頃」といふ前書があって、鎌倉での實句であることはいふまでもないことであるが、一句全体の趣は、目には青葉が見え、耳には時鳥の脈をきくことが出来、口には初鰹が賞美されることの出来る初夏の好い気候を歎美したものであるが、初鰹といふのは鎌倉以外に許されなかった時代から考へて見るなれば、この句の焦點は初鰹にあるものと見るべきで、従ってこの句は初鰹の句であって、青葉も山時鳥も、この初鰹の味を一層引立たせるための添景に用ひられたもので、素堂みずから「かまくら中の景色これにすぎず。」と自負してゐるほどの名句だたるを失はぬ作品であらう。

 

  己つぼみおのれ畫て蓮かな

 

蓮の莟が筆に似てゐるところからかういったもので、蓮の花の特性によったものであるが、

 

  河骨やっゐに開かぬ花ざかり

 

 この句になると一層この植物の特性をしっかり掴んでゐるもので、河骨の花は花櫛が厚くて内側に巻いてゐて、普通の花のやうに開き切らないものであるから、それを「つゐに開かぬ」といったところは更に面白味があらう。

 

  タ立にやけ石涼し浅間山

 

 浅間山の麓を通った時の實感であらう。弱々たる焼原の中の路にさしかゝる酷暑の旅は、思ふだにも辟易せざるを得ないのであるが、折も折、山嶺の方から一陣の風と共に夕立が降り出して来て、白煙目路を遮ぎったかと思ふとたちまち晴れてしまふ。軒を借りてこの有様に呆然としてながめてゐたが、もっけの幸ひと草鞋の紐を締めなほして足を早めてくると、さしもの炎暑も雨に洗はれて、岩から岩へと吹き渡る風が笠のうらに寒いまでにひやついて来るのである。激しい気象変化によって起って来た感情と何等の粉飾もなしに一気にいひとつた佳作といふべきであちう。

 

みたらしや半流るゝ年わすれ

 

この「みたらし」は加茂のみたらしで、御祓いに行つて糺の森の中で涼んだ時の吟である。御祓は六月三十日であるから、一年の半歳を忘れるといふ意味で「半流るゝ」といったところに何ともいへないうまみのある句である。

  

西瓜ひとつ野分をしらぬ朝かな

 西瓜が西國から本土に移植栽培せられるやうになったのは、元禄時代からあまり遠くないことが去来抄に見えてゐるが、この句は西瓜に對する珍しさといふやうな心持ちはなく、巨大ながために大風がどこを吹いたといったふうに、畑に端然として坐ってゐる有様を、夜通し吹き荒んだ野分ひあしたに見た即吟で、畑作のありとあらゆるものがめちやくちやにされたことを言外にあらはした表現法をとったのである。

  塔高し梢の秋のあらしより

 

これは東叡山の麓に居を移して蓮牡といふ詩社を起した時分の吟であらうと思はれるが、夏の木の葉の茂みに見えなかった塔が、秋の嵐の落葉とともに、急に見上げるやうな木々の梢に透けて来たのである。

  

寒くとも三日月見よと落葉かな。

 

武蔵野の高い欅の木が落葉する頃の三日月の光は格別に美しくて、実際少し位の底さは我慢しても杖を曳いて見度いと思うほどに、澄み切ってまだ暮れきらない空に、しかも繊細で鋭い三日月が懸ってゐることは、四隣の荒涼とした風物まで共にいひ様のない光景をゑがき出すのである。素堂も恐らく上野の森あたりで、落葉をふみながら初冬の三日月の美しさを嘆美したものであったらう。

 

  茶の花や利休が目にはよし野山

 

 此句だども茶人としての素堂の作と見るべきのであらう。

以上は素堂の作品の僅かに片鱗に触れたにすぎない感があるけれども、芭蕉より年長者でしかも連俳に於いては遙かに芭蕉の先輩でありながら、よく正風俳諧を体得したことは、彼が博學による見識がしかくあらしめたものと考へることが出来るのである。また一作家として素堂を見るとき、その作句数のあまりに少いことに驚くに價するものがあるけれども、今日の作品は翌日の闇夜とともに永久に忘れ去られてしまふやうな流行俳句の排出の多い俳壇に立って、たゞの一句でも永遠に不朽の作品を世にのこしたことを考へ見る時、作家としての素堂の尋常ならざるものがあったのと、そして、その態度の奥床しさに學ぶべき大いなるものを見出すことが出来るのである。

 

[去来抄]の巻末に

今年素堂子、洛乃人に偉へて日。蕉翁の遺風天下に満ちて漸又受ずぺき時いたれり。吾子こゝろざしを同じうして、我と吟會して、一ツの新風を興行せんとなり。

去来云。先生の言かたじけなく悦び侍る。予も翁て此思なきにもあらず。幸に先生をうしろだてとし、二三の新風を起さは、おそらくは一度天下の俳人をおどろかせん。しかれども、世波・老の波、日々にうちかさなり、今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ、唯御残多おもひ侍るのみと申。素堂子は先師の古友にして博翌異才の人なり。元より俳名高し。近来此道うちすて給ふといへども、又いかなる風流を吐出されんものをと、いと本意なき事なり。

 

かうあって、去来に今少し元気があったならば、或は芭蕉歿後の俳風が、素堂によっていかかる新風を展開されたか、それを必見ふと時の流れが痛切に感ぜられるのである。






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最終更新日  2021年06月07日 21時47分40秒
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