カテゴリ:俳人ノート
素堂・杉風小見 杉山杉風
吉田冬葉氏著 一部加筆 山口素堂資料室
杉山杉風
江戸に於ける芭蕉の生活方面の支持者が杉風であったことは普く人の知るところであるが「杉風秘記坺書」を見ると
松尾甚七郎殿、伊賀よりはじめ此方へ被二落着一候。 剃髪して素宜と改められ候時、 衣更着は十徳をこそ申なれ 杉風 斯申おくりぬ。その後此方深川元番所生洲の有レ之所に移す。 時にぱぜを庵桃青改られ候。
とあって「杉風句集」の中にも檀林風と銘打ったものが別にあるところから、 杉風は芭恵の門人になる以前から相當俳諧の道記造詣があったものであることが判るのである。 しかし句集の内容が檀林風と正風と以外に見えないところから察して、拡は檀林によって俳諧の道に入り、そして後に正風體に入った以外の俳風には染まらなかったものゝやうである。杉風が檀林風なる作品には
時雨浪の音昆布の苫やの夜すがらやな かれがれになるや野邊に冬瓜の獨ぬる 山寺の冬納豆に四手打やあらし
斯の如きものがあって、更に一方、
タ影や色落す紫蘇の露おもみ あけぼのや霜にかぶ菜の哀なる 雪の冬菜男鍬ついて立りける
など見られる。後年芭蕉が檀林風の創始者である西山宗因に對して 「宗因なくんば我々が俳諧今以貞徳の涎をねぶるべし。」 といひ、宗因をして、俳諧中興のとまでいはしめた、その檀林風をかくまで廣汎に體得して、しかも正風に転じても同様な杉風に 「ひがし三十三ケ國の俳諧奉行」 といって、西の去来に對立せしめて芭蕉が人に語ったことは、強ちたはむれ言ではなかったであらう。そして、
願はくば花のもとにて春死なむその二月の吟行の頃 よし死なばその二月の月花に
かうした句を詠じてゐることによっても、芭蕉と共通した心特をもってゐたことが判るのである。
大様にはるをおくるや蟇(ヒキガエル)
この句には 「庭の若草に鳥の遊ぶを見るに、朝己が塒をおりるより、 暮れに叉あがるまで、せわしなき噪(サワグ)を思へば」
とあるもので、一時も止むときなく囀(サエズ)り騒いでゐる小鳥に比べて、いかにもゆったりとした態度の蟇蛙に興味をおいたもので、杉風それ自身の心特を蟇蛙に託してあらはしたものである。
遅う暮るゝ日もけふきりのわかれかな
所謂弧生盡の日に詠じたもので、言葉使ひの巧みさは後年蕪村の 「遅き日をかされて遠きむかしかな」 に及ぼしてゐるのである。
たちばなや定家机の有所
橘の花の香気と定家の机とをとりあはせてものした[句で、芭蕉の「取合諭」にかなった作品といふべきであらう。
すっと来て袖に入たる螢かな 夏の浅宵の野ありきの實感句であって、夕風につれて飛んで来た螢が袖口から吹き入れられたといふのであるが、一句が頗る軽快な感じで出来上ってゐるところに、この句の面白さがあるのである。
さみだれや長う預る紙づゝみ
かりそめに預った紙包みで中味は何んだか聞きもしなかったが、いつまで経っても取りに来ないところを見ると、大した大切のものとも思はれないが、また考へやうによっては、取りに来ることの出来ないやうな理由のあるものではないか・……さう考へて見ると多少気にも懸る預り物であるが、昨日今日降りっゞいてゐる五月雨に一層気に懸ることであるといった内容である。
五月雨に蛙のおよぐ戸口かな
毎日降りつゞけた陰欝な雨が漸く増水して、川も池も田も溢れて境がなく、それに梁じた蛙が戸の口あたりを泳いでゐる光景で、恐らく深川の芭蕉庵あたりの賞感であらう。
鐘の音ものにまぎれぬ秋の暮
風國が去来に淋しい光景でもその時と場合によって淋しくないと感じた時はその通りに詠じてもいゝか……とたづねたに對し、鐘の昔といひ寺といひ秋の暮れといひこれほど淋しいものはない……とかつて風國の説を聞入れなかったのであるが都会の秋の暮は淋しい中にも相当雑音の激しいものがるのである。
あさがほや其日くの花の出来
下町住居の静かな杉風の生活を窺ふことの出来る作品で、日毎に咲く朝顔の花のその日そのひによつての出来不出来、それも面白いことだと、惑じたところに風流があるのである。
名月や木末の鳥の畫の聲
中秋名月の光のあきらかなるにまぎれて鳴いてゐる鳥の聲をきいたもので、特に目にたつのは「畫の聲」といふいひまはしである。
川ぞひの畠をありく月見かな
小名木川あたりに洽うた畠の中の徑(コミチ)を、ひやひやとした川風に吹かれながら月見をした賞感の作で、杉風の作品中の佳品といへよう。
名は知らず草毎に花あはれなり
桔梗だとか女郎花だとかいふ名のある草の花は格別、名もないやうな草でも秋が来ればそれぞれに花をもつてゐることは、名無草だけに一層哀れさが催されるといつたのである。
霧薄き空につゞくや原の果
この句は「むれいの里にて」といふ前書があるもので、薄い霧のいちめんに立ち籠めた中のしろじろとした空につゞいて廣原の果てが見える。
しぐれつゝ雲にわたれる入日かな
いかにも時雨の降る頃の感じをよくあらはしたもので、降りながらも夕雲に入日がさし渡った一時の現象をすかさす把握し得た佳作である。
襟まきに首引入れて各の月
襟巻の幅をひろげて頭からすっぽりかぶって、天心にとゞまって坦々と冴えわたってゐる冬の夜の月下を、茶会か或は句合からか戻って来るのがこの作者である。
鳴く千鳥不二を見かへれ汐見坂
この句は「はせを翁へ餞別」といふ前書のあるもので、芭蕉が「笈の小文」の旅に出るときのはなむけに添へた吟であらう。汐見坂は浜名湖の西岸にある坂で、こゝから西の道には海を見ることが出来ないところから、その汐見坂にさしかかったならば、千鳥の言もきこえることであらう、そしたらば、東の方を振りさけ見て、不二を仰ぎ、更にその東の方の江戸には私もゐることだから、どうか道中を無事に一日も早く帰って来て貰ひ度い……かういふ杉風の心からなるものがこの一句のうちにこめられてゐるのである。 草の戸め年とるものや墨と筆
物質には何等の蔵前もない老境の年末を詠じたもので、わびのある作品、いかにも風騒に身をまかせた杉風の晩年の生活がよくあらはれたものである。 杉風は八十歳の春をむかへて つもれ積もれけさやはじめの老かさね の句を作り長命はしてゐるが、常に病身であつたと見えて病中の句が相富ある。 餝(カザリ)過てうれしや終の道 重ね着もうへは作法の更衣 死こぢて雨に日をふる五月かな 音信にしぐれや我が病ムまくら。
などがそれであって、何病であったかは不明であるが
みづかちの病身をいたみて 立寄て柳に頭痛さすらせつ
といふのがあるところから、脳に故障があったものではなからうかとも考へられるのである。
素堂が東北以外は可なり廣汎にその足迹をおこしてゐるに引かへて、杉風は殆ど旅行らしい旅行をしてゐない。それは公用の納屋といふ商人として暇が少かった故もあらうが、一つには病身であったことが家を遠く離れることを許さなかったものと考へられる。その點は風雅に遊ぶものとして杉風の立場に同情を寄せなければならぬものであらう。(終) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月08日 06時33分36秒
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