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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月08日
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カテゴリ:山口素堂資料室

 桜井孫兵衛と山口素堂の濁川改浚工事への関与

 

 山梨県で紹介される山口素堂はその俳諧の業績より元禄九年(1696)の【濁川改浚工事】に於いて時の甲府代官桜井孫兵衛の手代として工事の指揮をして完成させた功労者としての活躍の方が大きく取り上げられていて、多くの辞書や研究書にも『甲斐国志』の記述内容を鵜呑みにして展開されている。

その『甲斐国志』にはおよそ次ぎのように記されている。

 この記述が素堂誤伝のきっかけとなり、以後多くの書に引用されていく。この記事は孫兵衛の孫斎藤政辰とその末裔により創作されたものであり、幕府直轄の仕事に一代官の事蹟など認められていない。従って政辰は後に幕府より「小普請」に格下げされている。いわゆる孫兵衛は直接この工事には関与していない。当時の河川奉行が担当していて、全て幕府直轄工事で多額な出資をし、しかも業者の請負工事でもある。(後述)

 

 『甲斐国志』(前略)

元禄八乙亥歳五十四、帰郷して父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政敢能擢され御代官触頭の為め府中に在り。

政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云ふ、

 濁河は府下汚流の聚る所、煩年笛吹川瀬高になり、下の水道の塞がる故を以て、濁河の水、山梨郡中郡に濡滞して行かず。

〔本州諸河砂石漂決して其の瀬年々高し。民は溢決に苦しみ、今に至る尚

爾り。国の病と為す。実に甚し。山川の部に委しい。〕

  水禍を被る者十村中に就き、蓬沢・西高橋二村最もにして田畠多く沼淵と

なり。

〔此の時に当たり村人、魚を捕らへて四方にて(近隣に売る事)し食に換

へる。蓬沢の鮒干州(ここのくに)の名と云ふ。〕

雨降れば釜を釣り床重(床上浸水)なる。田苗も腐敗して収稼は毎(つ

ね)に十のうち二三及ばず。前に居を投する者数十戸は既に新善光寺の

山下に移れり。餘民は今猶堪へざらんとす。

政能屡々之(これ濁河工事)を上に聞すれども言未だ聴かれず。(許可の

沙汰が出ない》夫れ郡の為め民の患いを観乃之(すなはちこれ)を救う

こと能ずや。吾れ辨じて去らんと欲す。然れども閣下(素堂の事)一謁

して白の事由を陳べ、可否を決すべし望み、謂ふ足下姑く此に絆されて

補助あらんことを。

 

素堂答へて云。

人者これ天地の投物なり可を観て則ち進む素より其分のみ。況(いわん)

や復父母の国なり。友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし

事ありき。

僕(あ)謹みて承諾せり。公の令に施(こ)れ勉て宜しくと。政能大に喜

びて晨に駕(か。出発)すことを命ず。十村の民庶(たみくさ)蹄泣して

其の行を送る。

政能顧て之れ謂(おもい)を云ふ。吾れ思ふ所あり、江戸に到りて直ちに

訴へんとす。事就ざるときは、汝輩を見ること今日に限るべし。構へて官

兵衛が指揮に従ひ相そむくことなかれと云々。

 【割注】

 上記は不思議な話。まが工事の認可も下りて居ないのに、官兵衛(素堂は

この名を名乗った形跡は無い、従って、「構へて官兵衛が指揮に従ひ相そむくことなかれと云々」は有り得ない。

 【割注】以下は全く筆者の事情であり、素堂は元禄八年九月に甲斐より帰宅したのち、静寂を守る。これは元禄五年妹の死、元禄七年には妻の死、そして元禄八年夏には母の死と重なり、盟友芭蕉も亡くし痛恨の日々を過ごしていた。

 従って下記のようなことは筆者の思い込み。

 

素堂剃髪のまま双刀を挾み、再び山口官兵衛を称す。

幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。

村民の歓知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是より夙夜に役を勤め

夫れを勒して溥治(しゆんち)す。

  そして濁川の水底は低くなり汚水は笛吹川の下流に注ぎ明年丙子(元禄九

年。1696)に完成する。住民は喜び田畑の作物は繁茂して移居した人

達も元に戻る。地域住民は感謝して南庄塚に生絹を建て桜井明神と山口霊神

と併せ祀る。素堂は工事が完成すると「草々に江戸葛飾の草庵に帰り、桃青(芭蕉)と共に俳諧を専門の名を成せり」とある。

 

専門家ではない者とっては非常に難解な文章である。元禄八年(1695)に甲斐に来た素堂はその目的は『甲斐国志』によると「父母の墓参り」と「桜井孫兵衛との濁川改浚工事への協力依頼」である。又、この国志の記述によると工事は元禄八年から翌九年に完成するととれるがが、実際は短期間で終了している。

 武井左京氏の『元禄年間濁河改修事蹟』 (『甲斐』第二鏡)によると工事の概略は次ぎのようである。

元禄八年四月三十日 

桜井孫兵衛以下一名「堀瀬実地検分」

元禄九年三月二十八日 

「蓬沢水抜仰出さる」

    四月朔日 

「蓬沢水抜十四ケ村に仰出さる」

      二日 

川除奉行戸倉八郎左衛門。熊谷友右衛門

 見分として出張、増坪より落日迄千八百間

      五日 

堀始め、千二百聞は入札。

    五月十六日 

堀瀬落成。

   請負金  二百二十両

   総工費  三百両三分銭五百文

 

これによると工事期間は四十一日である。非常に短期間で完成した事になる。又、同書によると、素堂が来甲した八月には既に工事着工は目処が就いていた節が見える。それは四月三十日に既に「実地検分」が為されているからである。

 又同書によると元禄年間は毎年のように洪水に襲われていて、孫兵衛が着任した元禄七年五月には二度さらに七月。八月と大出水に見舞われている。

「政能は憂慮し屡々上聞に達したるも聴されず、元禄八年四月三十日濁川の実地踏査の上意を決し之を幕府の老臣に訴え遂に許可を得る」

とある。

この国志の記述には二点留意すべき事柄がある。その一点は孫兵衛が江戸に出た時期である。「碑文」によると素堂が来甲した元禄八年に孫兵衛は江戸に出かけているが、初見ではない二人が甲斐で逢わなくとも江戸に於いて会見出来た筈である。それは国志によると素堂は孫兵衛の「属吏」であった時期があると記してある。

後の一点は両者の生祠「霊神」。「明神」のことである。元文三年(1738)

七月に孫兵衛の同系にある斎藤六左衛門正辰が孫兵衛の業績を讃えて庄塚に桜井明神。山口霊神(これは「碑文」には記載なし)のそぱに「地銀碑」を建立している。(現在あるものはその場所が移動していると伝えられる)その文中にも

「明年乙亥(元禄八年)帰郷老臣、其事甚動、国君他之」(孫兵衛は江戸に戻り幕府の管轄の家老に濁川の改悛工事の必要性を度々訴え、時の甲府徳川殿は之を憐れみ工事着工の運びとなる)とある。

『甲斐国志』の「素道」の項の記述はこの地銀碑の刻文を基にして記述している事が窺える。しかし「河川工事」を即山口素堂と結び付けるにはそれを示す資料が存在しないと史実とは成らない。それは濁川改悛工事は元禄九年(1696)、素堂の歿年は享保元年 (1716)であり、地鎮碑の建立は元文三年(1738)、『甲斐国志』は文化十一年(1814)の成立である。

工事完成より百十八年後に『甲斐国志』で始めて「濁川工事」と「山口素堂」が結ばれたのである。

 

『甲斐国志』の著者は山口素堂についての記述は曖昧さが目立つ。資料収集が儘ならない時代でもあり致し方ない話ではあるが、編纂当時の資料に素堂の関与を伝える書物が存在したのであろうか。それが現存して信用できる書であれば、山口素堂と濁川工事の関係が実証されるのである。

元禄八年に素堂が甲斐府中に来た事は認識していてもその目的が父母の墓参りではなく、その年の夏急逝した母の願いの「身延詣で」であった事は知らなかったと思われ、その内容を記した素堂著の『甲山記行』も読んでいなかったのではないか。『甲斐国志』前の甲斐の書物俳講書には、次ぎのような著書がある。

 (*印、素堂翁の記載あり)

*元禄八年 (1695) 素堂著 『甲山記行』

*享保六年 (1721) 山口黒露編『通天橋』「山口素堂追善句集」

 享保十二年(1732) 子光編 『素堂句集』

 元文三年 (1738) 斎藤正辰建立 『地銀碑』

 宝暦元年 (1751) 丈石編 『俳諧家諧』

宝暦二年 (1752) 野田成方著 『裏見寒話』

*明和二年 (1765) 山口黒露著 『摩詩十五夜』

*明和六年 (1769) 久住.秦峨編 『みをつくし』

*明和七年 (1770) 春明著 『俳諧家諧拾遺集』

*安永八年 (1779) 佐々木来雪編 『連俳睦百韻』

             【三世素堂襲号記念集】

 天明 三年(1783) 萩原元克編 『甲斐名勝志』

 

上記の内*印は素堂の記載の在るものである。しかしながら素堂と甲斐を直接結び付ける記載資料は素堂著の『甲山記行』以外には見えない。又、『連俳睦百韻』も『甲斐国志』を補うものとして請書に引用。紹介されている。しかし

不思議な事に『連俳睦百韻』の寺町百庵(言満。三知)の序文の信憑性やその史実を究明した論文やら研究書は皆無に近い。これは『甲斐国志』が正統で『連俳睦百韻』は親族の著した書にもかかわらず偽書として扱われている。素堂の家系を伝えているのにもかかわらず残念なことである。(……別述……)

 

さて「濁川改浚工事」に於ける桜井孫兵衛と素堂の関与について資料を見る事とする。

 桜井孫兵衛の家系は『寛政重諸家譜』。八巻第九百五十四》によると、藤原支流「桜井」  

政茂(まさしげ。忠左衛門。信濃佐久郡模井村に住す。)

………敢良(まさよし。伊兵衛。忠左衛門。幕府御勘定頭)

………定政(さだまさ。七右衛門。横井七右衛門政徳が祖。)

………政蕃(まさしげ。吉兵衛。平左衛門。七右衛門。母は須藤氏。延宝二

年御勘定、天和二年銭奉行、貞享四年、元禄二年御勘定頭、元禄七年

備中国松山に赴く、正徳五年広敷番、法名遊禅、小日向金剛寺に葬る。

妻は甲府の家臣横井忠左政良徳が妻

………政能孫兵衛。母は須藤氏の女。桜田の屋敷に於いて清揚院殿―徳川綱

   重に仕え代官をつとめる。宝永元年文昭院殿家宣西城に給ふ後、御家

人に列し、廩米二百俵をたまひ御代官となる。享保十一年九月十一日、

老を告げて職を辞し、小普請となる。

十六年正月十四日死す。小日向金剛寺に葬る。

………政相(まさすけ)…光保…能冬…政民

 

【関連資料】

  『甲府市史』 資料編 第二巻 近世一 町方一

第一節 徳川家と甲府 P108

 

御代官触頭 二百俵 桜井孫兵衛

   甲州支配高三万二千四百六十二石二升三合

   手代口米六百二十三俵一斗二升二合

   外二八千石分日米年々物成以割被下、但取米一石二付三升宛

 

★ 『甲府市史』 資料編 第五巻 近世3 村方

○ 〔湯村年貢割付状による年貢高一覧〕 P178

   代官 桜井孫兵衛 元禄七年~元禄十三年。

○ 〔甲府代官其外役人名面〕 P193

  元禄十四年四月十六日 桜井孫兵衛

  *二十五年以前元禄十四年 西御本丸様内領地の節石原七右

   衛門様御検地。

  *庄塚 壱間×壱間 貼紙二間×三間(字正之木)

是は山梨郡油川村の庄塚にて御座候。

  *当村御検地帳四冊 是は廿五年以前元禄十四年石原七右衛

   門様御検地帳、桜井孫兵衛、遠藤次与右衛門、

御印形の本帳前々より当村名主預り取持仕候。

  *西御本丸様御領地の節桜井孫兵衛御代官所へ数年奉順、

三十年以前子年(元禄九年)新堀御普請被仰付願の通水抜申候。

然共地ひきの場所故今以水出の節は折々水損仕候。

  *当村濁川  但小川

   是はごみ川にて、…中略・ごみ川にて埋り候節は瀬浚い御普請奉願、

前々より御普請被仰付候、御扶持方賃銀被下置候。

  *六年以前亥の年(享保四年)満水の節水門押流申、

子年(元禄九年)以来百姓自普請に仕右堤にて水上ケ申候、

向後水上ケ兼候節は水門奉願候御普請所にて御座候。

 ○ 〔西高植村外七ケ村より石和代官所あて濁川普請願〕 

   天保十二年(1841) P438~39

   元禄九年迄は沼地にて……中略……其の節御代官桜井孫兵御側細則頌を

以、西高橋村地内より落合村地内迄右川筋長弐千百聞余新瀬御普請被成

下置、元禄十四年御検地奉請候場所も有之、難有相続仕罷在候、依之蓬

沢村地内字庄塚と申所へ桜井様御神祠相建て、年々両度宛今をもって

村々打ち寄り祭祀仕り候。

 

 以上の資料の他にも桜井孫兵衛の元禄七年~元禄十四年迄は甲斐の代官としての位置が裏付けられ、又濁川工事についても実証できる。ただ『甲斐国志』の記述のように劇的ではなかった。

 

桜井孫兵衛を祀った生絹「桜井明神」の現存するものは【桜井社】である。地元では今も「さくらいさん」として親しまれ祭りも続いていている。多くの著書物にも紹介されている。甲斐の歴史書の中には「生絹」研究の大家の言として「これは間違いなく 「生祠」であるとお墨付きをもらった」との内容の事も記述されている。「引用」。「孫引き」。「孫々引き」や「文書転がし」的な歴史書は現地を踏査することなく書かれている場合が多い。

 ここにその中の一書を紹介する。

 著者は玉諸村役場を訪れ、此の事に就いて取調べをした。其の時同村の有家小野得一郎氏方の古文書を拝見し、幸いに同氏の曾祖父の書き残された宝永二年(1705)の記録によって、左の事実を得た。

  横井大明神 庄塚 一間×一間 村中支配

  是は山梨郡浦川の庄と申傅候

  此塚元禄年中横井大明神御クワン請仕候

 

 とあり、これは代官藤本勘助に書き上げしものと付記されてあったので、年代から調べて決定的のものとなった。

 

と、あるがどうであろうか。この書も多書に引用されているが、さらに誤って引用されている場合が多い。その例を次ぎに示す。

 

『甲府の歴史』昭和五十七年刊行。著者不詳。

 【生神様になった俳人。濁川治水の業績】俳人山口素堂

……(前略)……のちに住民は桜井、山口両人の偉徳をたたえ、生神様(正祀)として「桜井明神」「山口霊神」の石碑を建て、朝夕供物をあげて礼拝した。この二つの生祀は甲府市蓬沢町の濁川のほとりに現存している。

……(中略)……水魔から救った生神様として桜井代官と共に「山口靈神」   の生祀の石塔を建てたのは宝永二年(1705)である。

    

又、素堂の「生絹」も【山口大明神】に昇格している。しかしこの【山口大明神】が存在したとする資料はこれも『甲斐国志』が初見で以前の著作物にはその記載は見えない。元文三年に斎藤正辰の建立した【地鎮碑】にも桜井孫兵衛の名はあっても素堂の名は刻されてはいない。

 ところで不思議な事に現存する「桜井社」の建立は享保十八年(1733)十二月十四日の字が裏面に明確に刻されている。桜井孫兵衛は先述のように享保十六年に逝去している。これにより現存するとされる「桜井社」は生祀では無いことは実証される。

濁川下流は元禄九年以後も度々水害を受けているので、「生祀」も被害に遭い後年再建したとの推察も成り立ち【山口大明神】はその際には再建はされなかったとも考えられるが、それを示す資料は未だ見る事は出来ない。

 享保十八年と元文三年七月には地銀碑の建立者斎藤正辰は勘定方の一員として甲斐を訪れている。桜井社の建立を地域住民に示唆したのはこの時であった可能性も十分持たれるのである。

ここで桜井孫兵衛と斎藤正辰の関係を寛政重修諸家譜により検討してみる。

 

斎藤正辰(まさとき)

……一元禄十六年年四月二日遺跡を継ぐ、御次番となり、宝永五年四月九日桐の間番に輔ず。六年常憲院殿(綱吉)苑御により二月二十一日務めをゆるされ小普請となり享保十二年四月十一日脚勘定に列す。十四年九月十九日御代官に副て御料所を検し、あるひは甲斐国に赴き、堤、川除普請の事を務む。

元文四年八月十三日その務めに応ぜざることあるにより、小普請に貶(おと)して(各下げ)出仕をとどめられ十一月十二日許さる。明和二年四月十日致人し、三年正月十七日歿す。

 

正辰が石碑を建立したのが元文三年の七月、小普請に落されたのが八月である。推察ではあるがこの「桜井孫兵衛の業績を讃えた碑文や【地銀碑の建立という行為】が幕府の御意向と定めに触れたのではないかと思われる。」

 

山口素堂翁の研究者である清水茂夫先生は次ぎのように解説されている。

「斎藤正辰は桜井孫兵衛敢能の兄正善の孫敢命(まさなり。善右衛門)の子で、斎藤六左衛門正高の養子となり、斎藤六左衛門正辰と名乗る。」

 

 宝暦四年(1754)に刊行された『裏見寒話』(野田市左衛門著)のには【魚釣】の項で桜井孫兵衛の濁川工事に関する記事を掲載している。次ぎに示す。

   蓬沢…昔は周園十一里余の潮水にて、村民耕作をなす事は能はず、村中

釣猟を以て生業とす。其の頃は蓬沢鮒とて江戸まで聞こえたる由。夏秋

猟師の舟借りて出れば、湖水の眺望絶景成しを、桜井孫兵衛と云し宰官、

明智博学にして、此の湖水を排水し、濁川(?笛吹川)に切落す。今は

一村田畑にして農民此の桜井氏を神と仰ぐよし。今は蓬沢潮水の池あり。

鮒も居れとも、小魚にして釣る人もなし。

 

これも又不思議な話である。『甲斐国志』にあれほど記している山口素堂の事には一言も触れていない。時代は甲斐国志よりも六十年以前の書である。甲斐の人々の意識の中にはより鮮明に事蹟認識されていた筈である。残念ながら歴史資料からは『山口大明神』の存在は確認は出来ない。いわゆる「創作歴史言い伝え」の分野に入り、『甲斐国志』以前には孫兵衛の関与は史実として伝わり、国志以後、素堂の関与が付けく加えられた事になる。

 

元禄九年の代官の書き上げには、淡々と次ぎのように記されている。

 

 『甲斐歴代譜』 著者、著年不詳。天明五年(1785)

   元禄九年三月、中郡(なかごうり)蓬澤溜井掘被仰付、五月成就也、

 

参考資料 斎藤正辰建立の碑文(抜粋) 一部口語訳。

前略…

元禄甲戊(七年)桜井孫兵衛源敢能郡(くに)の為に干邑(ここむら)

に到る。民庶は泣して川浚いの計を請う。

政能は諾し明る年乙亥(八年)〔江戸に〕帰り

老臣〔家老たち〕に惣へて其の事甚勤〔繰返し陳情〕した。

国君は是を愉し(あわれみ)明る年丙子(九年)新に政能に命じて検地の巧(つとめ)を鳩(やすん)じ、西高橋より落合村に至る堤二千一百余間と淤を 

開いて塞をひらき、濁川の流れを導いて笛吹川に合わせ遂(はな)ちて止む。

…中略…

政能死してから久しい。而して両村の民は愈々その恩を忘れること能はず。

すなわち敢能奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳是を祀る。即ち死してか

らこれを祀るは古(いにしえ)の典(きまり)也。

余、後来其の所由(よるところ)を失うを恐れ、遂書を石に勒すと爾(かく)

云う。

     元文戊午七月     斎藤六左衛門正辰

 

この碑文中からも山口素堂に関する記述や『山口大明神』を見出せない。『甲斐国志』筆者は何らかの理由で「素道」の項に斎藤正辰の碑文に併せて山口素堂の工事関与を挿入したのではあるまいか。その後素堂は濁川改浚工事の英雄として後世に伝わる事となった。碑文によると孫兵衛は元禄八年には江戸に赴き老臣に終えている。

 

ここで山口素堂に関する古書物(『甲斐国志』以後)、俳諧関係書を紹介してみる。(素堂翁と甲斐の結び付けは)

 

  文化十一年(1814)『甲斐国志』【庄塚の碑】

   ……閲略……代官桜井孫兵衛致能は功を興して民の憂い救う。濁川を浚

い剰水を導き去らしむ。蓋し大績なりと云ふ。

   手代山口勘兵衛〔後に素堂と号す。別伝に委し〕其の事を補助し、頗る

勉る故を以て、二村の民は喜びて之を利(さいわい)とす。終(つい)

に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども、今は二

月十四日之を祀る。かたわらに山口霊神と称する石塔もあり、後に斎藤

六左衛門正辰なる者、地 鎮の名を作り、以て石に勒して絹前に建つ。

銘文は附録に載す。

 *文致二年(1819)『随斎講話』夏目成美著

   素堂は甲斐国の産、酒折の神人真蹟を多く傅へ持てり。

その中に松の奥と梅の奥と破したる二冊の草紙は俳諧の教えを書るもの

也。云々

    (註…元禄三年の素堂、酒折官奉納和漢の掲載あり。)

 *文教中期(1818~30)『蕉門諸生全伝』 別枠

   甲斐国酒折の産、神職の人也。葛飾隠士。信章斎来雪。号山素堂。

性巧俳句乃詩歌而名品基矣。享保元年八月十五日没。

法名廣山院秋厳素堂居士。碑面

本所中ノ郷原町東聖寺 松浦ヒゼン守隣なり。

 *嘉永元年(1848)『風俗文選犬注解』

   素堂者山口氏也。世務を避け武陽深川に居す。蕉翁を善き友とす。

   山口氏江戸の産也季吟の門に遊んで俳道の達者とよハるのちに主家を辞

して深川の別荘に蓮池を堀り好友を集めて冊の恵遠か蓮社に擬せしより

俳家に其門人を社中と称する事これらによれり。

*嘉永 元年(1848)『甲斐叢記』 【庄塚碑】

  …中略…属吏山口勘兵衛〔後素堂と号し俳諧を以て聞ゆ〕其の事を奉りて

力を尽くせり。因て堤を山口堤〔又素堂堤とも云ふ〕と称ふ。諸村の民喜

びて生絹を塚上に建て桜井霊神、山口霊神と崇祀れり。

  ……後略……。

*天保 九年(1839)『俳家大系図』

  素堂翁と甲斐の関係記載なし。

*嘉永 三年(1850)『葛飾正統系図』

  『甲斐国志』の記述に素堂翁の俳諧関係の事蹟を追加した記載。

新たなところでは「素堂翁が酒折宮に仕える」という内容がある。

*嘉永年中(1848~53) 『葛飾蕉門文脈系図』

  『甲斐国志』の記述を引用している。しかし俳諧系図であって素堂の家系

を示すものではない。

*安政五年(1858)『奥の細道通解』馬場錦江著

  山口太郎兵衛。本系割符の町屋にして世々斂富の家なり。

  常に洛陽に往来して信徳。言水か従有識なり。

…中略…家産を投ち第は山口胡庵に譲り云々。

 

こうして調査をしてみると意外な資料や、今まで誤り伝えられている事が多い事に驚いた。特に山口霊神や桜井明神が現存していると云う決定的な誤りである。現場の写真まで掲載していながら何故【桜井社】の裏の刻字の年月に触れなかったのか。引用や孫引きなどいわゆる「文書転がし」から生ずる過ちである。

資料から明確に判るのは桜井孫兵衛を祀った【桜井社】は斎藤正辰の碑文の通り桜井孫兵衛の歿後に建立されたもので【生祠】ではなかったのである。

 

歴史紹介書の中には完全な創作のものまである。素堂は甲斐に何度きたのであろうか。又、甲斐の生れを証明する歴史資料が存在するのだろうか。よく引合いに出される生家魚町山口屋市右衛門との関係も歴史資料からは読み取る事は出来ないのである。

素堂は実際に甲斐には来た事はある。しかし青年期まで居住していた形跡は資料からは見出せないのである。元禄八年の母の生前願いである「身延詣」それは素堂翁自著の『甲山記行』により裏付けられる。

 史実を確認する事なく史実考証もなされずに単に『甲斐国志』を鵜呑みにして歴史を語ることは史実が誤り伝わる原因にもなる。一書のみを信じる事の危険性を歴史を嗜み業とする人たちは心すべきである。素堂翁が晩年煩雑に出かけた京都を始め大阪。唐津・京都などを調査すれば、より素堂の実像に迫れると確信している。

晩年に於ける素堂の京都への思慕は資料からは窺い知る事の出来ない何かが存在していたのである。一般の人々は歴史を身近なテレビや刊行本で知る。例え小説やドラマであっても事実と誤認するものである。






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最終更新日  2021年06月08日 06時36分34秒
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