カテゴリ:山口素堂資料室
野々村勝英氏著 素堂
芭蕉が俳諧の革新をなしとげるに当たって、直接間接にこれを助け、また声援を送る役割をになった者に、信徳・素堂・来山・言水・才麿・鬼貫らの人々があったことはよく知られている。これらの人々のうち、最も芭蕉と密接な関係にあった者は、いうまでもなく素堂である。 素堂は芭蕉と己れを中国の伯牙・鐘予期の故事になぞらえてひそかに芭蕉に対する鏡子期たらんことを期し(『野ざらし紀行』跋)、芭蕉また、ある禅師の問いに答えて、「詩の事は隠士素堂といふもの此道に深き好ものにて、人も名を知れる也」(『三冊子』)と常堂に尊敬の念を払っている。 このような互いの深い敬愛に支えられて、常常は蕉門の客分作家として、またその儒学・詩文の学識をもって、蕉風俳諧の進展に寄与するところ大であったのである。
素堂の生涯
山口素堂は、寛永十九年(一六四二)甲斐の国の富有な郷士の子として生まれた。芭蕉の生誕に先立つこと二年である。名は信章・別号蓮池翁。寛文初年二十歳ごろ、江戸に出て林春斎(羅山の第三子、鵠峰)に儒を学び、官に仕えた。延宝七年(一六七九)ごろ官を辞して上野不忍池近くに隠栖し、翌八年から素堂と号し、更に貞享二、三年(一六九五・八六)ごろ、鴨長明の隠遁を慕って居を葛飾の阿武に移した。その生活は「庵中藏スル所書契数巻、及ビ茶器爨吹(サンスイ)ノ鍋釜ノミ」(『素堂家集』子光編序)という有様で、まことに「あづまの長明」(『とくとくの句合』服)というにふさわしい隠者ぶりであり、またこの新居が芭蕉庵に近いところから、素堂と芭蕉および門下の人々との交わりもいっそう深まることとなった。 芭蕉と粛党の俳諧上の交わりは、すでに延宝二年ごろから始まっているが、天和三年(一六八三)には、其角撰『虚栗』に、素堂の 浮 葉 巻 菓 此 蓮 風 情 過 た ら ん に始まる有名な「荷興十唱」が入集、漢詩調が著しい。「蓮」を「レン」と音読するのがよいと芭蕉が牧童に教えた(『草刈笛』)のも、この句全体に漢詩趣味を感じとったからであるが、この素堂の漢詩調も、延宝末から天和にかけて俳諧に流行した漢詩文訓と軌を一にするものであることはいうまでもない。 貞享四年秋、芭蕉の 「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」 の句に対し、『蓑虫説』の一文を草した。芭蕉は素堂の文の終わりに更に『蓑虫説跋』をそえているが、ここには芭蕉・素堂両者の高邁にして洒脱な交遊ぶり、隠逸ぶりがあふれている。
元禄五年(一六九二)秋、芭蕉の『三日月日記』に序を寄せた。文中に、
我庵ちかきわたりなれば、 月にふたり隠者の市をなさんと 自から申しつることぐさも古めきて、 入くる人々にも句をすゝむる事になりぬ
とあり、芭蕉・希堂の交遊ぶりが知られる。
元禄七年十月十二目芭蕉没し、素堂は年来の友人に、追悼の句
旅の旅つゐに宗祗の時雨かな
(「枯総花」)を手向け、また、元禄十三年十月十二目の芭蕉庵における芭蕉七回忌には、
くだら野や無なるところを手向草
に始まる七句を詠んで芭蕉の冥福を祈った。 その後素堂は、宝永八年(一七一一)に『とくとくの句合』を著すなどのことあったが、さしたる活動も見せず、享保元年(一七一六)、葛飾に没した。享年七十五歳、法名は広山院秋山厳素堂居士であった。
素堂の作風 元禄十五年、素堂六十一歳の時刊行された轍土の『花見車』には、素堂を評して はちす葉のにごりにはそまじとながれの身とはなり給はず、 若き時より髪をおろして深川の清き流れに心の月をすませり
と述べているが、事実、素堂は延宝七年、)三十七歳の時不忍池畔に隠退して以来、一時元禄元年に甲斐の治水工事に関係したほかは、ずっと隠遁生活を続けた。同じく隠栖とはいっても、素封家の長子として生まれた素堂のそれは、門人たちの助力でやっと生活を保った芭蕉の場合とははなはだ異なった内容をもっている。 いわば芭蕉の隠栖は、世俗名利の生活を断念することにより俳諧に己れのすべてをかけたものであったが、豊かな生活に恵まれ、詩文に詳しかった素堂の場合には、俳諧はどちらかといえば余技的なものであり、己れの全生命をかけるものではなかった。そこに両者の俳風の大きな相違を生か原因があったと考えられる。 素堂は天和から獄卒にかけて、
浮葉巻葉此蓮風情過たらん 春もはや山吹しろく苣(チサ)苦し
などのすぐれた佳句を詠んで、芭蕉の俳諧革新・蕉風確立の運動と歩みを共にしながら、元禄以降においては、特に新しい俳風の展開を示すことはなかった。 楽しさや二夜の月に菊うヘて (元禄三年) 髭宗祗池に蓮ある心かな (元禄七年) などの句からもわかるように、その多くは緊張を欠いた平板な句に堕している。もちろん、元禄以降にも、 ずっしりと南瓜落て暮淋し 蔕(ヘタ)おちの柿の音きく深山かな などの佳句もあるが、これらは例外といってよい。 かように、素案が元禄以降、ほとんど見るべき新風も佳句も生まなかったのは、漢詩文に詳しい素堂にとって、俳諧は趣味にとどまったからであり、いわば彼の漢詩文の教養がマイナスに働いた結果であるといってもよいであろう。
素堂の芭蕉文学への寄与 上に述べたような生涯を送った素堂が、芭蕉の文学に寄与するところあったとすれば、それは何であろうか。芭蕉に欠け、素堂に豊かであった儒学・漢詩文の面での影響・寄与であったろうことは、さきに引いた『三冊子』の一文からも十分推測されるところである。
以下、この問題を、漢詩文のうち芭蕉の影響を受けること最も大であった杜甫の場合を例にして考察してみたい。 芭蕉・素堂の活動した近世において、思想界の中心にあったのは、いうまでもなく末学であった。 したがって、近世の人々が杜甫に対していだいた見方、杜甫観も太なり小なり宋学あるいは末代における杜甫朧に影響されるところがあったと考えられる。 ところで、中国末代の杜甫観とはどういうものであったのであろうか。今、一、二の例をあげるならば、 世人、子美の造次も君を忘れざるを喜ぶ (宋、黄徹『碧渓詩話』) 老社の一言一詠、未だかつて国を憂へ人をいつくしむに非ざるなし (同右) の評からもわかるように、杜甫を憂国受民の詩人としてとらえようとする。そして杜甫と李白を比較したばあいにも 子美は太白の飄逸をなす能はず、太白は子美の沈彭をなす能はず…… 子美の北征・兵車行・垂老の別等、太白作るあたはず (宋、厳羽『浪浪詩話』) と、一応杜甫の沈鬱、李白の飄逸という特色を認めながらも、唐の詩人、李杜を首ととなふ……杜甫に義を好むの心あり、白の及ばざる所なり (宋、蘇轍『持病五事』) と、国を憂え、民をいつくしむ点で李白は桂甫に及ばぬとされる。 このほか、戦乱に伴う杜甫の大旅行から、漂泊者としての姿をとりあげたり、あるいはまた杜甫の詩が多く時事、すなわち時代の現象を詠じているがゆえに詩史ととらえる立場もある。このような流れの中で、末代において最も有力であったと思われるのは、杜甫を憂国の詩人と見、その作品に愛民の姿勢を見いだそうとする立場であったと思われる。というのは、明代に及んで、末代のこ のような杜甫および杜甫の作品に対する見方が大きく問題とされているからである。たとえば 末人、太白を抑へ少陵を尊ぶ、謂ふに是れ道学の作用なり (明、随時擁『時鐘総論』) とあるように、右のような桂甫のとらえ方は、末代の道学風な発想によるものとして批判される。 かような明代の批評からも、末代において、憂国愛民の詩人としての杜甫像がいかに強く印象づけられていたかが想像できよう。末代の文学界は、元柏・紹述の両党に分れて烈しくあらそったが、桂詩尊重はそのいずれの派にも共通する所であり、末の学問思想の影響を受けた日本近世の杜甫観も、末代風の杜甫観につよく影響されていた。たとえば 杜陵皮語句絶比倫 ……有丹心志義心在 独悲天子又蒙塵 (『躍山詩集』六八) という羅山の詩にはっきりそれが現われている。また、朱子学を学んで幕府に儒官として仕え、素堂とも親交のあった人見竹洞も、 大雅興らざること久し、 此の翁(杜甫-筆者) 天の遣はす所、慾の中唯酒あり、 ……蕩然たる忠義の気、永く英雄をして知らしむ (『竹洞全集』二) とやはり同じようなとらえ方を示しており、更に、朱子学者中、比較的道学臭の少なかった木下順庵にしても例外ではなかった (「読杜律集解寄石微君」『錦里文集』二)。 もちろん、近世の詩文に現われる杜甫の姿には、騾馬に乗って旅する杜甫、酒に酔いしれる杜甫があり、そしてまた杜甫の不平に注目する立場(たとえば宇都隧庵の『杜往年解』「九日藍田崔氏荘」における解釈)もある。 しかし、これらの悲しみ、不平、愁い、漂泊もその多くが戦乱から生まれたものである以上、憂国の詩人という面に比べればいずれも弱いものでしかなく、近世における杜甫の作品に対する見方は、末代風の憂国愛民という点に重きが置かれていたのである。 このことは、宋学批判の一方の雄であった仁斎を例にとっても明らかである。すなわち、仁斎はその著『童子問』において、「杜甫平生国を憂へ民を愛し、忠誠感激、一に智之を詩に寓す」とその杜所説を述べている。人間の真情を重視した仁斎は朱子学者と異なり、杜甫の詩が内容において複雑で李白のごとくわかりやすいものではない点に杜甫のよさを認めてはいるか、その仁斎にしてもやはり杜甫を愛国憂民という点にとらえていることは、かような杜甫に対する理解の仕方がいかに広く行き渡っていたかを示すものである。 (以下略) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月08日 15時50分11秒
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