カテゴリ:山口素堂資料室
素堂『六玉川』跋文。百丸編。57才 元禄十一年(1698)
凡日むそじあまり、六の国の中に、 玉の名に流れたる川六所あり。 ここに摂州伊丹の住百丸六玉川の詩歌狂旬までを、 あまたあつめて、これに跋あらんことを求らる。
もろこしの玉川にすむ翁ならば磯中川の水をのみわくべきに、 いざや川いざとこたへてやみぬれども、 あくた川何をなりとも、かき流すべきよし。 末の世には流砂川の伽藍もなかれず、 名とり川に名をとりえん事かたし。 なにはの藻にうつもるる玉かしはも、 石ときけば猶々およびがたきや。 殊玉の中に瓦石をまじへんもそのおそれなきにしもあらず。 さりながら昆山の玉も、他山の石みがかざれば、 光なきよし。よつて六のうちあふみ萩をいふ。
萩の露礫にうつてしれとかや その玉川のあのふかさも
素堂、元禄十一年(1698) 『法竹子の父に手向る辞』
洛陽の法竹子亡父一回忌とて、 玉川の水にこと葉の花を結びて六々のつらね歌となし、 愚老一旬を手向よとすすめられる。 もろこしの玉川にすむ翁ならば 磯中川に水を汲みわくべきに、 石瓦をもて玉のほとりにながうたんもおこがまし。 さりとてただに見逃さんも本意なきわざなれば、誠に申さん。 凡ひといけるほどは氷におなじ、 誰かはも との水に帰らざん。 一水一月千水干月、又 月ひとつもたぬ草葉の露もなし
などといへるも、みな人々仏性の心ならべし
花水にくだけて舎利となる水
かつしかの隠士 素堂 拝書
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最終更新日
2021年06月08日 20時19分58秒
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