カテゴリ:山口素堂資料室
素堂の勉学と江戸林家
江戸にいた素堂は万治三年、この年の一月廿六日、甲斐府 中の柳町から魚町にかけて焼失する大火が発生した。もし素堂の実家が魚町に在ったとすると、当然に類焼していたはずで、この付近の事を野田成方の聞き書き「裏見寒話」では「町々の暖簾も成し云々」と寛文二年頃の様子を記述しており、家屋は藁屋根としている。従って火災には弱いのであった。 この様な時に家業を継いだとされるから、学業半ばの素堂とすれば単純に考えれば、家業を弟に託して江戸に出たと云う事になろうか。山口家の家号が市右衛門とすると、貞事項に跡絶えなければならないのであるが、市石衛門家は元禄から享保八年まで継続しており、山口家の没落には繋がらなくなる。 素堂の家系はかなり複雑で有った様に見取れる。 当時の家塾の勉学について見ると、今日(明治の学制以降) のように、毎日通学する訳ではなく、大方は隔日の通学で有った。しかも師匠に直接句読の教授を受けられるのは、出席の早い者順である。しかも、授業が始まるのは、今日流に云えば七時頃、直接教授が受けられる時間は大体十時頃まで、これ以降は代教となる。このため塾生たちは通うのに必死である。然も幕府公認の漢学の本元林家であり、林家の逸材人見竹洞が「林門三才の随一たるべし」と、太鼓判を押している素堂が、「婁々江戸エ往還シテ章句ヲ春斎ニ受ク」となると、定期的に行われる塾生を一童に集めての講授だけでは、中々先には進めない。従って江戸に居て通塾しなくては、如何に秀才と言っても無理である。当時の塾生たちの生活も大変で、只だ勉強するだけでは無い。武士であれば剣術などの武術から礼儀作法に一芸の受講など、それぞれの師範に就いて学ばなくては成らない。一芸となれば茶・香・能・謡曲などに和歌が加わり、寛永以降には俳諧も加わる。勿論、書 や絵画もある。それぞれ得手不得手が有るが、当時の武家社会では「一家系を維持するには」何れも大変な努力を要したのである。町人でも一芸に秀でた人は立身が叶ったのである。武家社会では「武士は武道に」と云う事では太平の世と成った江戸時代、立身にも苦労が付きまとっていたのである。 素堂の一芸について『国志』は、書が持明院、和歌を清水谷、連歌を季吟、茶を宗旦、その外に香・演劇(能狂言)平家(琵琶)と記す。黒露は『通天橋集』で「茶と仕舞い」 『摩訶十五夜集』で、学は林春斎、和歌を持明院、舞曲は宝生長将監(八世重友、三男の沾圃の父)の秘蔵弟子、琵琶(平家)算術に長じとある。茶については黒露退善集『みを つくし』に「露叟は石州のながれを汲て」とある。とすれば、素堂は始め石州流の茶を修めていた事になる。 当時の大名間には礼家を除き、石州流と小堀氏の遠州流が多く、共に千利休の流れである。素堂は石州流片桐貞昌(延宝元年没六十九才)に習い、元禄になり山田宗偏と知り合う事で、宗旦流と云う事になったのであろうか。宗偏は宗旦の外に小堀遠州にも師事している。尚三千家の興隆は宗旦の子達がそれぞれ、武者小路千家(官休庵)表千家(不審庵) 裏千家(今日庵)である。 何で素堂は茶・香・能狂言・琵琶等と習得したのか、素堂の先祖は武家であるが江戸時代の始め頃には町家になっていた。それが素堂に至り、中土以上が競って習った芸に秀でたのであろうか。武士のたしなみとして書・和歌は必須であるから当然として、「算術に長じて」と云う処が問題でもあるが、これは家業が商家で有ったからと云う事ではなく、寧ろ仕官してからの事と考えられる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月09日 13時50分09秒
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