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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月09日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂と季吟・宗因

 

素堂と林門の関係は定かではないが素堂が宝永時代に曾良に贈った書状によれば、晩年も林家に出入りしていたことが覗われる。(この項は本文で)仕官するまでの間に京都に遊学して書と和歌を学んだようである。連歌を季吟に学んだと云うことは疑問であり、寛文年前後の季吟は古典に傾倒しており、俳諧は別として難波の西山宗因が、連歌師法印として活発であった。しかも、季吟と素堂の師春斎とは古典の上で問題があった。それは、季吟としては春斎が、己れの職分を侵したと怒ったためだが(寛文元年のこと)この様な時期に素堂が季吟に師事することは、当時としては考えられない事である。春斎は詩文を良くする事で知られる漢詩人でもある。

また季吟は素堂の出身とされる現在の白州町の隣りの武川町柳沢に祖を持つ江戸幕閣の重鎮柳沢吉保の庇護のもとに幕府の歌方に就任した。吉保の和歌の師匠とも云える。

 寛文元年八月、幕府直轄領で有った甲州の内、河西領を持って徳川綱重が甲府藩主となった。この綱重の甲府家が桜田門内に居館を構えていたことから、桜田殿と呼んだ。

幕府は明暦の大火で神田邸の書庫にあった成立したばかりの「本朝通鑑」が焼失したため、春斎に対し寛文四年に続修を命じた。春斎は焼け残った早稿を元に編纂を始め、六年を費やして十年六月に完成したが、さの編纂に素堂も加わっていたと云う証拠は見出せない。周辺の事情から勘案すると、素堂は寛文五六年頃に仕官した様に推測できる。

とすると素堂は寛文三年から五年の間に京都に行き、書・和歌等を習得したと考えられる。素堂仕官先で最も有力なものは、素堂が延宝末時に長崎に下り、唐津で越年した折の句「二万の里唐津と申せ君が春」の一首が重要な意味を持っている。(この項別述)

後年の書本であるが若海の『俳諧人物便覧』は「素堂の職は御普請役なり」と記述しているが、確かな資料を持たないもので信用はできない。

当時の武士は特別な職分にある士を除き、隔日の出勤である。また公休もある。従って自由な時間は多分にある。必然的に素堂は俳諧の世界に傾いて行ったようである。頃は寛文五・六年頃であろう。

素堂の目にえる資料では俳壇のデビユーは、寛文七年春、伊勢の春陽軒加友が『伊勢踊集』編纂のため、江戸に高島玄札を頼って出て来た。勿論内藤義槻(風虎)の助力を得るためでもある。そして

錺松や今朝神の巻柱  

「岩城住風松」の名で元日句を貰う事ができて、伊勢に戻る時「帰国之刻馬のはなむけとてなん」として、

 かへすこそ名残おしさは山々田

の餞別句を、江戸山口氏信章名で登場した。この頃の師匠たちは玄札・未得・立圃等の外に未琢・立儀・雪柴・志計等で、信章の周辺の俳人達はいずれも貞門俳諧人達である。

素堂の俳諧活動が活発になるのは延宝二年春以降で、その十一月には上洛して季吟との九吟百韻(『廿回集』)を催した。 

 






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最終更新日  2021年06月09日 13時51分22秒
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